あれは、僕が高校二年の十月に体験した出来事だ。
思い返すたび、背筋が粟立つ。いや、いまこうして思い出しながら文章にしている間にも、部屋のどこかから誰かに見られているような、そういう圧迫感がある。
僕は元々、霊感なんて全く無かった。ただ、「髪被喪(かんひも)」の件を境に、妙なものが見えるようになった。それからというもの、周囲の友人たちから“そういう系統”の相談が舞い込むようになった。
といっても、見えるだけだ。除霊とか、そういう専門的なことはできない。ただ、話を聞くだけで解決することもある。不思議なもので、誰かに話すことで霊的なモヤが晴れてしまうこともあるらしい。
その日、十月二十五日の夕方。サッカー部の純一から連絡があった。近所の喫茶店に来てくれと言う。
僕が着いた時にはすでに、純一と洋子さんが座っていた。
彼女はサッカー部のマネージャーで、何度か応援の場で顔を合わせたことがある。大きな目が印象的で、表情がころころと変わる、明るくて、誰からも好かれるような子だった。
だがその日は違った。あの目は落ち窪み、頬はやせ細り、手はずっと膝の上で震えていた。
「すまん、島田……」と純一が小声で言った。「マジで、今回はちょっとヤバいかもしれん」
話を聞いていくうちに、僕のなかの「嫌な感覚」が、じわじわと背後からせり上がってきた。
洋子さんは震える声で話し始めた。すべては一ヶ月ほど前、九月二十三日の夜中に始まったらしい。
夜中の二時四十五分。突然目が覚めて、トイレに立とうとした時だった。
廊下の向こうから、かつん、こつんと、ヒールか革靴のような硬い足音が聞こえた。別に、誰かが帰ってきたのだと思い、気にしなかった。
だが、その足音が洋子さんの部屋の前で止まった。
そして……ポストの投入口から、何かがカコンと落とされた。
「郵便です……」
小さな男の声が聞こえた。
時計を見ると、二時四十九分。
ありえない時間だった。気味が悪くて、洋子さんはベッドに潜り込み、朝を待った。
朝になって、ポストの中身を確認すると、縁を黒く塗った官製はがきが落ちていた。宛名は「横山秀夫 様」。
裏を返すと、パソコンのフォントで一行。
「九月二十七日、十九時三十一分。死亡」
くだらない悪戯だと思って、洋子さんははがきを捨てた。だが、その四日後、ファミレスで流れていたニュースで「横山秀夫 三十八歳」が昨晩死亡したと報じられていた。
それだけじゃない。
洋子さんの部屋には、また別の「黒縁のはがき」が投函されたという。
全部で五枚。全員が、記された日時に死亡していた。
しかも、そのはがきは毎回、夜中の二時四十九分に届く。声も、足音も、まったく同じ。薄気味悪い、無機質な「郵便です……」という声だけが共通していた。
そして問題は、その晩、洋子さん宛のはがきが届いたというのだ。
日時は、十月二十六日、午前二時〇二分。
宛名にははっきりと「藤田洋子 様」。
聞いた瞬間、あの「ぞわり」とした感覚が背骨に走った。純一が言っていたように、他のはがきはどこかに消えてしまうのに、この一枚だけは、いくら捨てても戻ってくるという。
焦った僕は、祖父に電話した。祖父は若いころから見える体質で、「かんひも」の時にも力を貸してくれた人だ。
「おおぐろの坊さんにもらったお札があるじゃろ、それを窓とドアノブ、ポストに貼れ」と言われた。
「ポストも……?」
「そいつは郵便の姿を借りた“招かれ神”の類いじゃ。中から招かれん限り手は出せん」
祖父の助言に従い、僕は急いで自宅に戻り、封印の札を持って洋子さんのアパートへ向かった。
部屋の中には純一と洋子さんが、青ざめた顔で座っていた。夜の八時。
僕は黙って、祖父に言われた通り、部屋中の窓、玄関のノブ、ポストに札を貼ってまわった。
緊張のなか、時間は過ぎ、時計の針は一時五十五分。
そして……足音がやってきた。
カッ、コッ、カッ……
来た。背中に冷気が這い上がる。
ポストに目をやると、貼ったはずのお札が、何者かに剥がされていることに気付いた。
しまった、と叫ぶ前に、
「藤田さ〜ん、郵便で〜す」
声が、ドアの向こうから聞こえた。
カコンカコンとドアノブが上下に動く。
「なんだ、いるじゃないかよお」
それまでの声とは明らかに違う、濁った、獣のような低い声が響いた。
ドアの郵便受けがカタリと動いた。
そして……中から、二つの眼が覗いていた。
ギラギラと、血走った目が、こちらを見ている。
ガンガンガン!とドアが叩かれる音。
ガチャガチャガチャ!とドアノブが折れんばかりに揺さぶられる。
部屋中の窓が一斉に震えだし、洋子さんが絶叫をあげ、気を失った。
僕と純一は彼女を庇うように覆い被さるしかなかった。
気が付くと、朝になっていた。あれだけの騒音にもかかわらず、誰一人、異変には気付いていなかった。
洋子さんはその後、アパートを引き払い、町を離れた。以来、何も起きていないらしい。
あとで聞いた話だが、学校で流行していた「お呪い」に、洋子さんは手を染めていた。
深夜二時四十九分にある場所のポストに、恨みの相手の名前を書いた黒縁のはがきを投函する。
それだけで、相手に災いが降りかかるという。
洋子さんが書いた相手は、好きな先輩の恋人だった。
……だが、恨みを持って投げたものは、いつか巡り巡って自分に返ってくる。
僕はそう思う。
人を呪わば、穴二つ。
けれど、その「郵便屋」が、まだどこかの廊下を、コツ、コツと歩いている気がしてならない。
……次に投函されるのが、誰宛なのか、それは誰にもわからない。
[出典:369 :2005/10/20(木) 14:06:11 ID:tKVQKarJ0]