その話は、ある占い師が酒の席で「昔、実際にあったらしい」とだけ前置きして語ったものだという。
真偽は分からない。ただ、聞いた者の多くが、後になって同じ場所を思い出すたび、説明できない違和感を覚えたそうだ。
舞台は地方都市の外れ。再開発から取り残された旧道沿いに、一軒だけぽつんと建つ家があった。街灯は一本きりで、夜になると道路の中央だけが不自然に明るくなる。周囲の家々は暗闇に沈み、敷地の境も家の輪郭も、どこからが外でどこまでが内なのか曖昧になる場所だった。
そこに住んでいたのは五十代の男だった。無口で几帳面。挨拶は欠かさないが、雑談はしない。誘いにも応じない。本人は干渉されない生活を気楽だと言っていたが、近所から見れば、いつも少し距離を置いている人間だった。
変化は、ある時期から始まった。男が夜になると、決まって窓の外を気にするようになったのだ。理由を尋ねられても「落ち着かない」としか言わない。湿気で家が軋む音が気になるのだとも話したが、その視線はいつも、道の中央に注がれていた。
最初に異変を口にしたのは隣家の住人だった。深夜、窓越しに外を見たとき、道の真ん中に妙なものが立っている気がしたという。泥にまみれた豚のような影が、じっと動かずにそこにある、と。
その話を聞いた男は笑わなかった。むしろ顔色を変え、出現する時間や位置を細かく確かめた。そして低い声で、自分も見たことがあると言った。
男が見たものは、豚ではなかったという。背中に泥のようなものを背負った何か。目だけが異様に白く、暗闇の中でもはっきりとこちらを見返してくる存在だった。その背後には、いつも一台の車が停まっていた。古いワゴン車で、荷台には何かがぎっしり積まれている。何を積んでいるのかは分からない。ただ、数が多いという感覚だけが残った。
日を追うごとに、男の話は少しずつ変わっていった。最初は気配だったものが、輪郭を持ち始める。車の中には人影のようなものが重なって見える。顔は見えないが、こちらを向いていることだけは分かる。数えようとすると、途中から頭がぼやけ、どこまで数えたのか分からなくなる。
男はそれを「鬼だ」と言った。幽霊でも人間でもない。ただ、敵意だけがはっきり伝わってくる存在だと。
周囲は心配して病院を勧めたが、男は聞かなかった。あれは現実だ、見えない方がおかしい、と言い張った。夜になると家の中の灯りを落とし、障子越しに外をうかがう時間が増えていった。
ある夜、男は物置から古い弓を取り出した。若い頃にやっていた和弓だという。弦を張る手つきは慣れていて、長い間使っていなかったとは思えなかった。
その夜も雨は降っていなかった。空気だけが重く、肌に薄く汗が滲む。窓の外を見ると、道の中央にあの影が立っていた。背後にはワゴン車。荷台の奥で、何かが折り重なるように静止している。
男は障子越しに弓を構えた。紙がわずかに震え、矢尻が夜気を切る準備をする。
そのとき、車の中の影の一つが、ゆっくりと手を挙げた。止めるようにも、呼ぶようにも見える仕草だった。男の腕が、ほんのわずかに揺れた。
直後、屋根を打つ小さな音がした。ぽつり、と水が落ちる音。次の瞬間には、それが連なり、夜気が冷えていった。湿った風が、障子の隙間を抜ける。
男は弓を下ろした。
雨の中、道を見渡しても、そこには何もなかった。車も影も、最初から存在しなかったかのように消えていた。ただ、雨だけが舗装を濡らし、街灯の光を歪ませていた。
翌日、男は隣家を訪ね、昨夜のことを詫びた。弓を持ち出した自分はおかしかった、と。隣人は首をかしげ、「そんな物音は聞いていない」と答えたという。
それ以降、男は以前より周囲と話すようになった。夜に窓の外を見ることもなくなった。道の中央の話も、車の話も、二度と口にしなかった。
ただ占い師は、最後にこう付け加えた。
男は晩年、ぽつりと漏らしたそうだ。あの夜、弓を下ろしたのは正解だったのか、今でも分からない、と。雨が降らなかったら、自分は何を射っていたのか。外に立っていたものだったのか、それとも、ずっとこちらを見ていた何かだったのか。
考え始めると、今も夜道で、街灯の下を避けて歩いてしまうのだという。
(了)