『自殺者を引き寄せる』と噂されるトンネルがある。
八つ坂トンネル。県境の山奥、いくつもの坂を越えた先に掘られた旧道のトンネルで、今は新道が通り、ほとんど使われていない。
崖があるわけでも、首を吊るのに都合のいい木があるわけでもない。
それでも、この周辺では昔から死者が出続けている。
車の中で練炭を焚いた者。入口付近で血を流して倒れていた者。夜中、ほとんど車の通らない道に飛び出して轢かれた者。
共通点が一つある。
地元の人間ではない。
この土地に縁もゆかりもない、遠くから来た者ばかりだという。
だから地元の人間は近づかない。
死んだ者が留まり、次を呼ぶのだと囁かれている。
というわけで、見に行くことにした。
夕方。雨が降ったり止んだりの不安定な天気だった。冷え込んでいたので、防寒のため半ヘルの下に目だし帽を被り、厚着をしてアパートを出た。愛車のカブで三時間、隣県へ向かう。
旧道に入ると人家は消え、道は急に細くなった。夜。すれ違った車は一台だけで、妙に運転が荒かった。
やがて、ぽっかりと闇に口を開けたトンネルが現れた。
急ブレーキで停車した。
トンネル入口の脇、草むらに人が倒れている。
見間違いではない。人だ。
横向きで、背中をこちらに向けている。長い髪。女だろうか。
事故か、自殺か。
心臓の音が耳を打つ。体がふらついたまま、カブに跨った状態で地に足がついていない感覚。
スタンドを立て、エンジンを掛けたまま駆け寄った。
血は出ていない。外傷も見当たらない。
胸が、浅く上下している。
生きている。
しゃがみ込み、肩に触れる。
「おい」
「……」
「大丈夫か」
反応は遅かったが、やがて微かに声が返った。
目がうっすらと開き、時間をかけて上半身を起こす。
彼女は、こちらを見なかった。
「どこか痛むところは?」
問いかけても、俯いたまま身体を丸める。息が荒い。
「落ち着いて」
「……だ、大丈夫です」
とてもそうは見えないが、ひとまず過呼吸は収まりつつあった。
「救急車を呼ぶ」
首を横に振る。
「誰か、呼べる人は」
「バッグを……」
友達の車に置いてきたらしい。車は見当たらない。
携帯を取り出すが圏外だった。
「少し下りて呼んでくる」
立ち上がろうとした瞬間、白い手が上着の裾を掴んだ。
彼女は何も言わず、首を横に振っている。
「一人は嫌か」
ヘルメットは一つ。二人乗りは無理だ。
そのとき、か細い声がした。
「トンネルの向こう……たぶん、使えます」
なぜ知っているのか。
考えないことにした。
「分かった」
裾は離されない。
「私も、行きます」
彼女は目を閉じたまま、よろよろと立ち上がった。
「見えないのか」
激しく首を振る。
「見えます……でも……」
それ以上は言わなかった。
手を引き、トンネルへ入る。
冷えた空気が肌を撫でる。
白い灯りが、足元の壁に交互に並んでいる。六百メートル。
会話はない。
歩くにつれ、彼女の動きは遅くなり、重くなる。
裾を引かれ、前へ進むというより、出口に引きずられている感覚だった。
妖怪の話が頭をよぎる。
抱けば重くなるもの。裾を引くもの。
振り返る衝動を抑えた。
背後で、鼻をすする音。
立ち止まり、振り返る。
彼女はそこにいた。
消えてはいない。
「……すみません」
泣きながら、彼女は言った。
「昔から、変なものが見えて……ここでも……」
今日は来たくなかったこと。
友達と来たこと。
悲鳴を上げて、気を失ったこと。
「あなたも……最初は、そうだと思ってました」
幽霊だと。
こちらも同じだったとは言えなかった。
目を閉じている理由を、ようやく理解した。
「目を開けた方がいい」
自分でも驚くほど冷静な声だった。
「今、見なくていいものは見えない。少なくとも、目の前にいるのは生きてる」
彼女の手が、裾から離れた。
ゆっくりと目を開け――
次の瞬間、力が抜けた。
身体を支えながら、周囲を見る。
何もいない。
そこで気づいた。
半ヘルと、目だし帽。
脱いでいなかった。
彼女を背負い、出口へ向かう。
妙に軽い。
出口で上着を敷き、彼女を寝かせる。
携帯は、微かに電波を掴んだ。
彼女はすぐに目を覚ました。
こちらを見て、悲鳴は上げなかった。
迎えを呼ぶと言い、携帯を返してきた。
通話の声は方言が強く、内容は分からない。
迎えの軽トラックが来た。
母親らしい女は、こちらを一瞥し、何も言わなかった。
去り際、彼女は振り返らなかった。
一人残され、トンネルを見る。
再び、足を踏み入れる。
出口側には、車が停まっていた。
若者たちがライトを持ち、こちらを見て囁いている。
目だし帽を被り、エンジンを吹かし、そのまま通り抜けた。
帰宅後、携帯に一件のメッセージが入っていた。
―――
番号を見てしまいました。
よろしければ、改めてお礼を。
八坂真理
―――
電源を切る。
どこで、彼女は番号を見たのか。
考える前に、眠りに落ちた。
翌朝、目だし帽が枕元に置かれていた。
昨日、脱いだ記憶はない。
[出典:怖い話&不思議な話の投稿掲示板/投稿者「かれき ◆UtLfeSKo」 2018/07/01]