中学の同級生から聞いた話を、あたしはどうしても忘れられずにいる。
あれはもう十年以上前のことになる。あの夜の匂いや、空気のざらつきさえ、いまも皮膚の裏に張り付いているようで、ふとした拍子に蘇る。
当時、あたしは地元の町を離れ、大学進学のために上京していた。盆で帰省したとき、偶然にも同級生の恵理と会った。彼女は相変わらず物静かで、しかし昔より少し痩せていて、笑うと頬の肉が不自然に持ち上がるのが気になった。居酒屋で近況を語り合ううちに、彼女は唐突に「いまも、あの場所には行かないようにしてる」と言い出した。
あの場所――。最初は何を指しているのかわからなかった。けれど、恵理の顔が強張っているのを見て、すぐに思い出した。町外れにある廃業した病院。鉄格子の嵌まった窓が並び、白かったはずの外壁は雨と泥に染み、まるで黒ずんだ布切れをまとった亡霊のように立っている建物。
中学の頃、肝試しでよく噂に上がっていた。夜になると窓から灯りが見えるだとか、入院患者の呻き声が聞こえるだとか。あたしは臆病だったから近づいたこともなかったが、恵理は違った。男勝りで、怖いもの知らずで、みんなを引っ張って笑わせる子だった。
だからこそ、彼女がその病院の話をするときだけ、まるで他人のように怯えた目をするのが異様で仕方なかった。あたしは酔いに任せて、詳しく聞いてしまったのだ。
――あの日、恵理は三人の友達と一緒に廃病院へ入った。夏休みの終わり頃で、蒸し暑さに耐えきれず、夜風を理由に自転車を飛ばして行ったらしい。懐中電灯を持ち込み、門の錆びついた鎖をくぐって敷地に足を踏み入れると、草の匂いと鉄錆の匂いが入り混じって鼻についた。
正面玄関は割れたガラスで塞がれていたから、非常口から侵入したという。そこから先は暗闇。廊下の奥にまで続く消毒薬の甘ったるい匂いが、今でも鼻の奥に残っていると恵理は言った。
最初のうちはみんな笑っていた。古びたベッドを見つけて「お前ここで寝ろよ」なんてふざけ合った。だけど、階段を上がり二階に着いた頃から、笑い声がだんだん小さくなった。廊下の電気がすべて外されていて、懐中電灯の丸い光が吸い込まれるように奥へと消えていく。その暗闇の中で、壁のシミが人の顔のように見えたり、剥がれた塗装が指を伸ばしてくるように思えたりして、誰も声を上げなくなった。
そのとき、廊下の一番奥で「カチ、カチ」という音が響いた。何かを打ち鳴らす規則的な音。病院に残された時計の音だとすぐに思ったが、やけに近い。まるで自分たちを待ち構えるかのように、一歩近づくたびに音も一歩近づいてくる。
一人が「帰ろう」と小声で言った。全員が同意しかけたその時、恵理が唐突に「行くしかないでしょ」と前へ進んだ。意地と見栄とで体を動かしたのだろう。奥の病室の扉を押すと、蝶番が悲鳴を上げて開いた。
部屋の中には窓がひとつだけ。月明かりが薄く差し込み、中央には金属製のベッドがあった。そこに、誰かが腰かけていた。
最初は人形かと思ったらしい。白衣のような布切れをまとい、背中を丸めて揺れている。揺れるたびに「カチ」と乾いた音が響いた。よく見ると、それは首から下がった点滴の金属部分が、ベッドの縁にぶつかる音だった。
全員が凍りついた。恵理は息をするのも忘れたまま、ただ光を当てた。すると、その「人」がゆっくりと顔を上げた。皮膚は薄い紙のようにしわしわで、眼窩は深く落ち込み、口だけが異様に大きく開いていた。
「まだ……いるの……?」
乾いた声が、部屋いっぱいに広がった。次の瞬間、懐中電灯の光が消えた。スイッチが入ったままなのに。真っ暗闇の中で「カチ、カチ」と音だけがやけに近くなり、誰かが悲鳴を上げ、全員がもつれるように逃げ出した。
必死で階段を駆け降り、外に飛び出したとき、門の外にいたはずの自転車が一本だけ消えていた。誰のものかはわからなかった。四人で行ったはずなのに、外に出たのは三人だけだったのだ。
警察に言うこともできず、互いに口を噤んだ。学校にも、家にも、戻ってこなかった。今でもその子の名前を出すことはできない、と恵理は涙目で言った。
「だから、あの場所には行かない。あれから、夜になると自転車のベルみたいな音が耳の奥で鳴るの。カチ、カチって」
酔いも醒めるような声だった。あたしは何も言えず、ただ彼女の手を握った。冷たかった。
それから数年が経った。去年の夏、地元の新聞の片隅に小さな記事を見つけた。町外れの草むらで、古びた自転車と人骨が発見されたというものだった。身元不明と記されていたが、あたしはすぐに誰のものか理解してしまった。
記事を読んだ夜、寝苦しくて窓を開けたとき、風の中に微かな音を聞いた。カチ、カチ……と規則的に、何かがぶつかり合う音が。あたしは思わず耳を塞いだ。だが、それでも音は頭蓋の奥で鳴り続けた。
いまでも時折、深夜になると同じ音が聞こえる。まるで誰かが、あたしの部屋の前で待っているかのように。
[出典:933 :あなたのうしろに名無しさんが……:03/03/21 17:01]