あの日、僕は美術室の掃除当番だった。
午後の授業が終わったあと、早く帰ってゲームでもやろうと、ほうき片手に足早に机の間を縫っていた。
西日の差す窓から、粉塵が金色に漂って見えた。誰もいない美術室は、しんと静まり返っていて、足音がやけに響いた。
ふと、壁際の奥に目をやった時だ。
そこだけ妙に目立つように、一枚の額縁が飾られていた。額の木枠は黒く艶があり、他の絵よりも手入れが行き届いているように見えた。近づいて覗くと、それは若い女の人の肖像画だった。
女は肩までの黒髪をゆるく垂らし、白い服を着ている。背景は淡い灰色で、花も窓も何も描かれていない。ただ、女の顔だけがぽつんと浮かんでいる。
――綺麗だ、と思った。だが、その印象は一瞬で、すぐに違和感が喉に引っかかった。
目だ。
異様に大きく、黒い瞳孔がはっきりと描き込まれている。その光沢は、絵の具ではなく本物の水分を湛えているように見えた。
しかも、視線が……どういうわけか、僕の動きに合わせてついてくる。
ほんのわずか、瞼が震えたような錯覚すらあった。
息を飲み、僕は一歩後ずさった。誰もいないはずの部屋で、妙に首筋が冷たくなる。
こんな時間に長居する場所じゃない――そう思い、雑巾をバケツに突っ込んで、残りの掃除を大急ぎで済ませた。
振り返らないようにして美術室を出たが、廊下の曲がり角で、どうしても一度だけ振り向いてしまった。
暗くなりかけた室内で、あの女の目が、まだこちらを見ていた。
翌朝、教室に入るとクラスがざわついていた。
噂はすぐ耳に入った。美術室の絵が盗まれたというのだ。しかも、額縁ごと、跡形もなく。
泥棒が入った様子もないらしい。鍵は閉まっており、窓ガラスも割られていない。
僕はすぐに呼び出された。美術の先生が真剣な顔で尋ねてきた。
「昨日の掃除当番、君だったね。絵はちゃんとあったんだろう?」
「はい……額縁に入って、大事そうに飾られていました」
「そうか……あの絵は『眠りに落ちた美女』というんだ。知り合いの画家が、自分の娘をモデルに描いたものでね」
そこで先生は、声を少し落とした。
「値段はつかない。ただ、その画家も娘も、もうこの世にいない」
僕は相槌を打ちながらも、昨日の目の記憶が離れなかった。眠りに落ちた……?あの瞳は、確かに開いていたはずだ。
だが先生の話によれば、本来は目を閉じて描かれているらしい。
放課後、僕はこっそり美術室を覗いた。絵があったはずの場所には、四角い日焼けの跡だけが残っていた。空っぽの壁が、妙に広く感じられた。
不意に、背後の廊下を風が通り抜けた。カーテンが揺れる音と一緒に、かすかな衣擦れが聞こえた気がした。
帰り道、夕闇の住宅街を歩いていると、不意に視線を感じて振り向いた。誰もいない。
でも、曲がり角の先の電柱の影が、妙に膨らんで見えた。
その影の中に、白い服の女の輪郭があった。顔は見えない。だが立ち姿が、あの絵の中の女と同じだった。
足を速めた。振り返らず家まで走った。
その夜は部屋の電気をつけっぱなしにして眠った。
それから一週間後、学校の裏庭で奇妙な噂が流れた。
夜中に、白い服の女が校舎の影を歩いていたという。目撃したのは用務員だ。
「額縁も持ってたんだよ」と彼は笑ったらしい。だがその声は震えていたと聞く。
僕はその日から、美術室には近づかなくなった。
あの絵は見つかっていない。
それどころか、今度は街の別の中学校で、そっくりな絵が壁にかけられていたという話を耳にした。
眠っているはずの女の目が、薄く開いていたそうだ。
[出典:217 :本当にあった怖い名無し:2007/07/06(金) 17:46:11 ID:DKWl0k7H0]