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眠っているはずの目 rw+3,012-0612

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あの絵は、目を閉じていたらしい。

僕がそれを知ったのは、なくなった翌日のことだった。

中学二年の秋、僕は美術室の掃除当番だった。午後の授業が終わり、ほとんどの生徒は部活か下校で教室を出ていた。美術室には僕ひとりで、窓際の石膏像と、乾ききった絵の具の匂いだけが残っていた。

早く帰りたかった。

その日は新しいゲームの発売日で、机の下を適当に掃き、椅子を戻し、黒板の端に残ったチョークの粉だけ拭けば終わりにするつもりだった。

西日が斜めに差し込んで、床の埃が金色に見えた。美術室の壁には、生徒の水彩画や版画が並んでいた。その一番奥、普段は教材棚の陰になっている場所に、額に入った肖像画が掛かっていた。

それまで見た覚えはなかった。

黒い木枠の額だった。妙に艶があり、ほかの作品よりそこだけ丁寧に扱われているように見えた。描かれていたのは、若い女の人だった。白い服を着て、肩までの黒髪を垂らしている。背景には何もない。灰色の中に、顔と肩だけが浮かんでいた。

最初は綺麗だと思った。

すぐに、変だと思った。

目が開いていた。

大きすぎるわけではない。ただ、黒目が深く描き込まれていて、絵の具の表面に光が溜まっているように見えた。僕が右へ動くと、視線も右へ動いた。左へ寄ると、また追ってくる。

よくある目の錯覚だと、自分に言い聞かせた。

でも、ほうきを持ったまま足を止めると、女のまぶたがほんの少しだけ震えた。

そのとき、美術室の外で誰かが歩く音がした。僕は反射的に振り向いた。廊下には誰もいない。

もう一度、絵を見る。

女は目を閉じていた。

さっきまで、確かに見ていたはずなのに、今は眠っているようにまぶたを下ろしていた。長いまつげが影を作っていて、表情は穏やかだった。

気味が悪くなって、僕は掃除を雑に終わらせた。バケツの水も替えず、雑巾をしぼるのもやめた。戸締まりだけ確認して、美術室を出た。

廊下を曲がる前、一度だけ振り返った。

ガラス戸の向こうで、額の中の白い服だけが西日に浮かんでいた。目は見えなかった。見えなかったのに、こちらを見ていると思った。

翌朝、学校が少し騒がしかった。

美術室の絵がなくなった、と誰かが言った。

僕はすぐに呼び出された。最後に美術室を出たのが僕だったからだ。美術の先生は、怒っているというより、ひどく困った顔をしていた。

「昨日、奥の壁にあった絵を見たか」

「見ました」

「額ごとあったんだな」

「はい」

「触ったか」

僕は首を振った。

先生はしばらく黙ってから、棚の上に置いてあった古い写真を見せてくれた。文化祭か何かの記録写真だった。美術室の奥の壁が写っていて、そこには確かに、あの肖像画が掛かっていた。

写真の中の女は、目を閉じていた。

「この絵は『眠りに落ちた美女』というんだ」

先生は小さな声で言った。

「卒業生の父親が描いたものらしい。娘さんをモデルにした絵だと聞いている」

「昨日は、目が開いていました」

言ってから、失敗したと思った。

先生は僕を見た。責めるような顔ではなかった。むしろ、聞きたくなかったことを聞いたような顔だった。

「誰かに、それを言ったか」

「言ってません」

「なら、言わないほうがいい」

理由は教えてくれなかった。

その日の放課後、僕は美術室を覗いた。

絵があった場所には、四角い日焼けの跡だけが残っていた。長く同じものが掛かっていたせいで、そこだけ壁の色が薄い。画鋲も釘も残っていない。額を外したというより、壁からその部分だけ静かに抜けたように見えた。

帰ろうとしたとき、窓際の机に何かが落ちているのに気づいた。

小さな黒い絵の具のかけらだった。

拾うと、まだ湿っていた。

それからしばらく、僕は美術室に近づかなかった。

絵は見つからなかった。警察が来るほどの騒ぎにはならなかったが、先生たちは何日か落ち着かなかった。放課後になると、用務員さんが美術室の鍵を早めに閉めるようになった。

一週間ほどして、別の噂が流れた。

隣町の中学校の美術室に、知らない肖像画が掛かっていたらしい。

誰が持ち込んだのか分からない。朝、教師が来たときには、すでに壁にあったという。黒い額に入った、白い服の女の絵。題名の札もついていない。

その話を聞いたとき、僕は胃のあたりが冷たくなった。

噂には続きがあった。

その絵を見つけた生徒が、こう言ったらしい。

「この人、寝てるのに、目だけこっちを見てる」

僕はその日の帰り、まっすぐ家に帰った。

家に着いて制服を脱ぎ、机に鞄を置いた。窓の外はまだ明るく、向かいの家の壁に夕日が当たっていた。

ふと、机の上のノートに目が止まった。

美術の授業で使っているクロッキー帳だった。開いた覚えはない。けれど、ページが一枚めくれていた。

そこに、女の顔が描かれていた。

鉛筆で、うすく。

自分で描いた記憶はなかった。そもそも、僕は人物の顔をそんなにうまく描けない。髪の線、まぶたの影、白い服の襟元まで、あの絵と同じだった。

ただ、目だけは閉じていた。

僕は怖くなって、そのページを破った。破って丸めて、ごみ箱に捨てた。夜になっても気になって、ごみ箱の中を確認した。

紙はなかった。

翌朝、学校へ行くと、美術の先生が欠勤していた。

風邪だと担任は言った。

昼休み、職員室の前を通ると、先生たちが低い声で話しているのが聞こえた。僕は立ち止まらなかった。ただ、一言だけ耳に入った。

「自宅の壁に掛かっていたらしい」

その日から、美術室の奥の壁には何も掛けられていない。

新しい作品を貼ろうとすると、画鋲が刺さらないのだという。壁の中に、硬いものがあるみたいに跳ね返るらしい。

卒業して何年も経った今でも、僕は額縁のある絵が苦手だ。

美術館にも行かない。喫茶店や病院の待合室でも、壁の絵は見ないようにしている。

ただ、たまに失敗する。

ガラスに映ったものや、駅の広告の端にある写真を、目で拾ってしまうことがある。

そのたびに、まず目を見る。

閉じているか。

開いているか。

最近、ひとつだけ気づいたことがある。

僕が覚えているあの女の顔は、年々、少しずつ変わっている。

髪の長さも、鼻の形も、口元の線も、最初に見たときとは違う気がする。

でも、目だけは変わらない。

あの日、美術室で僕を見ていた目ではない。

僕が鏡を見るときの目に、少しずつ似てきている。

[出典:217 :本当にあった怖い名無し:2007/07/06(金) 17:46:11 ID:DKWl0k7H0]

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