高校をやめたのは、十六のときだった。
何があったわけでもない。ただ教室の空気に耐えられなくなって、ある日、誰にも言わずに学校を出た。
あとは流れのまま。朝から晩まで地元をふらふらしていた。地元、といっても、山ばかりの寂れた町で、選択肢なんか端からなかった。
堀口という男がいた。
三つ上だったが、あまり年上に見えなかった。身長は百五十センチあるかないかで、極端な鬼ゾリにパンチパーマ、眉毛は剃りすぎて表情が読めない。
見た目に反して喋ると子供じみたところが目立った。年下の俺らにはやたら威張り散らし、先輩にはぺこぺこ。気持ちのいい人間じゃなかったけれど、なぜか俺は一緒にいることが多かった。
そんな堀口に連れられて、地元の組事務所に出入りするようになった。
最初はただの使いっ走りだったけど、兄さん方には妙に可愛がられた。年齢のせいか、線の細さのせいか……とにかく、俺だけは笑顔で迎えられた。
その一方で、堀口はといえば、どうしようもない馬鹿だった。口から出るのはすぐバレるような嘘ばかりで、兄貴分に叩かれるのが日常だった。
ある晩、堀口がやらかした。
シンナーでラリった挙句、土屋という若頭が囲っていた水商売の女に手を出そうとした。未遂だったはずだけど、土屋にとっては許せるはずもなかった。
呼び出しは夜だった。俺も一緒に連れていかれた。
女のアパートだった。狭い、薄暗い部屋の中で、堀口はひたすら殴られ続けた。
灰皿が頭に当たる音が耳から離れない。濁った音だった。骨が割れたのか、頭が凹んで、白っぽいものが覗いていた。
俺はその場で小便を漏らした。まるで無意識だった。
土屋の車で運ばれたのは、隣町の山中にある廃倉庫だった。夜中の二時をまわっていたと思う。
堀口はもう虫の息。声も出さず、ぐったりしていた。俺は助手席にいたが、窓に顔を押しつけて、呼吸を殺していた。
倉庫に入ってすぐ、土屋が言った。
「お前が殺せ」
俺の方を見ていた。顔には笑いも怒りもなかった。ただ口元だけが乾いたように開いていた。
俺は首を振った。声にならない嗚咽が口からこぼれた。
次の瞬間、髪をつかまれて地面に引きずり倒された。土屋の足と拳が、俺の頭と背中と腹に降り注いだ。数えきれなかった。
十発か二十発か、それ以上だったか。
そのときだった。
「キェーッ」
妙な叫び声がした。高い声。あれは笑っていた。
堀口が笑っていた。奇声だった。仰向けに倒れたまま、上を見て、大口を開けて、涙を流しながら笑っていた。
皆川がバットを持っていた。何も言わず、振りかぶって、堀口の耳の横を殴った。骨が割れる音がした。
それでも堀口は、痙攣しながらも笑っていた。土屋も一緒になって何度もバットを振った。
血が天井まで飛び散ったのを、よく覚えている。赤黒く、濃く、しつこく、べっとりしていた。
「まだ動いとるど」
「首、絞めえ」
「縄、車に入っとるけえ持ってこいや」
「あのガキはどうするんなら」
「口、塞げるかや?」
声が遠くなっていった。
俺はその辺で記憶がない。
気づいたときには、事務所のソファに座っていた。顔に氷を当てられていた。頬が腫れていた。
起きた瞬間に吐いた。何度も。何も食ってなかったから、胃液しか出なかった。
次の日、新聞に出た。
「シンナー遊びの少年、飛び降り自殺」
堀口の写真が載っていた。
歪んだ笑顔。あの夜のものとは違う、もっと子供っぽい顔だった。
葬式にも出た。無言のまま焼香して、すぐに帰った。誰とも口をきかなかった。
それからしばらくして、俺は町を出た。ある人に拾われて、まっとうな生活に戻った。何年も経った。
それっきり、堀口のことは考えなかった。いや、考えられなかった。
思い出したのは、つい最近だ。
実家の押し入れを整理していたら、昔のアルバムが出てきた。
ページをめくると、堀口の写真が出てきた。俺の肩に手を置いて笑っている。あの変な眉毛。あの小柄な体。そこに、確かにいた。
そこで、全部が戻ってきた。
殴られる音、笑い声、血のにおい。倉庫の冷たい床。土屋の目。皆川の沈黙。
ぐちゃぐちゃに消えていた記憶が、一気に洪水のように溢れてきた。息ができなかった。床に倒れこんで、しばらく動けなかった。
なぜ思い出したのかは、わからない。
なぜ忘れていたのかも。俺の脳が勝手にシャットアウトしたのか。いや、もしかしたら、違うかもしれない。
本当にあんなこと、あったのか? 俺が見たのは夢じゃなかったのか? 小説で読んだことを、自分の体験と取り違えたんじゃないのか?
だけど。
あの写真だけは、どうしても説明がつかない。
堀口の背後にある倉庫の壁。そこに、小さく赤い手形がついていた。
あんな場所で、写真なんか撮った覚えは、絶対にない。
……
俺は今も、そのアルバムを捨てられずにいる。
(了)