短編 洒落にならない怖い話

【長編名作】つきまとう女【ゆっくり朗読】3619-0107

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二年前の夏、俺はバイクで北海道ツーリングに出かけた。

899 : ◆lWKWoo9iYU :2009/06/11(木) 10:34:08 ID:T70ctGeH0

目的は北海道一周。日程は三日間。気ままな一人旅だ。

北海道は予想以上に何も無い。街から街まで100kmを越えるときもある。その間、コンビニはおろか自販機すらない。

気楽に長距離ツーリングを楽しもうと思って来たが最後。本当に長距離ツーリングが好きな人間以外には苦痛でしかない。

俺の旅のコンセプトは、なるべく金をかけないこと。その為、旅館やホテルには一切泊まらず旅をする。

道中での悩みは、ガソリンスタンドが街にしかないことだ。

24時間営業なんて論外。大概のガソリンスタンドは、夕方七時には店を閉じる。

早いところだと、五時に閉めていたところもあった。

俺のバイクは燃費が悪く、満タンで160kmしか走らない。

日程は三日間。夜も走らないと間に合わない。

だが、俺は頭の悪いことに、ガソリン携行缶を装備していなかった。

更に、四日後には会社が始まるギリギリの日程。

間に合うはずが無い。俺はその事に、半周した時点で気付いたのだ。

俺は考えた。

一周を諦めて、道央を突っ切り、函館からフェリーに乗って陸路で帰るか。それとも、意地で爆走し、小樽まで帰還して一周をやりきるか。

悩んだ挙句、俺は一周することを決めた。

「諦めたら、そこで試合終了ですよ」

敬愛する安西先生がそう囁いたのだ。

二日目の夜、俺は走っていた。

北海道の夜は静かで暗い。東京の夜が昼間に感じられる程に、静かで暗い。

辺りは木々が連なり、まるで俺に覆い被さる様にそびえている。

気を抜くと、木々の中に飲み込まれてしまうような深遠を感じさせる。

途中、メーターを見ると、ガソリン警告灯が点灯していることに気付いた。

今日はここまでだな。そう思った俺は、道の駅にバイクを止め、そこで夜を明かすことにした。

俺が止まった道の駅は、仮設トイレが設置されている以外に何も無い。

覚悟はしていたが、なんとも寂しい限りだ。

辺りには、民家どころか人一人居ない。小さな街灯だけが、俺と俺のバイクを照らしていた。

携帯していた食料を平らげ、俺はコンクリートの上で横になる。

月がやけにキレイだった。こんな月も、東京では見ることが出来ない。

俺は北海道に来たことを少しだけ嬉しく思った。

相変わらず木々に囲まれた深遠の暗闇の中で、俺は眼を瞑る。

眠りに落ちかけた時、静寂を破る車のエンジン音が聞こえた。

時刻は2:00。こんな深夜に走る人間が北海道にも居るのだな、と思い眼を開ける。

どんな車が深夜の北海道を走っているのか、興味を持った俺は、道路沿いに顔を出した。

なんのことはない。ただのトラックだった。

俺は踵を返し、再び眠りにつこうとした。

そのとき、妙なことに気付いた。

仮設トイレのドアが開いている。

ここに来たとき、仮設トイレのドアが開いていた記憶はない。

いつ開いたのかは分からない。

少なからず俺が居る間、誰も来てないし、俺も使っていない。

トイレの中までは角度的に見えない。

ドアは、小さく音をたてながら揺れている。

僅かに近づくと、白い布のようなものが見える。

「誰かいるのか?」

俺はトイレの中を覗いた。

瞬間、俺の心臓が脱兎の様に跳ね上がり、全身の毛穴が一気に開放される。

……女が首を吊っていた。

俺は腰を抜かした。二十四年生きていて、腰を抜かすなんて初体験だ。

いつから?なんで?どうして?

そんなことばかりが頭を巡る。

全身が震えていた。嫌な汗が這いずる様に、全身から流れ出ていた。

とにかく警察に連絡しなくては。

そう思った俺は、バイクに置いてあるケータイを取りに行った。

その瞬間、大きな衝撃音が鳴り響いた。

驚きのあまり、俺はその場で転倒した。

振り返ると、女がトイレの前に立って俺を見ている。

怯える俺から女は目を離すことなく、ゆっくりと右腕を上げると、仮設トイレを殴りつけた。

女の力で殴ったとは思えないような、大きい衝撃音が鳴り響く。

現実離れした光景に、俺は泣きそうだった。

女の首には、ロープが巻きついたままだった。

汚い白のワンピース。長いぼさぼさの髪。長い髪の間から、気味の悪い眼光が見える。

どうみても普通の女じゃない。

女は無表情で俺を見ながら、仮設トイレを殴りつけ、衝撃音を鳴り響かせる。

周りには誰も居ない。

暗い殺風景な空間に、腰を抜かす俺と仮設トイレを殴る女。

女は首を吊っていたはず。生きている?なんで?

そのうち、仮設トイレを殴りつけるスピードが上昇し、女が小声で喋りだした。

「見つけた。見つけた。見つけた。見つけた。見つけた。見つけた」

俺の血液は沸騰した。

「なんだ!?なんなんだ、おまえ!?」

俺は大声で怒鳴った。

「いたずらなのか!?こんな誰も居ないところで、こんな悪趣味なことすんじゃねぇよ!!」

女は手を止め、そのままゆっくりとうなだれると、「どうして?」とつぶやいた。

俺の血液は更に沸騰した。

どうして?意味が分からん。聞きたいのはこっちだ。

「なに言ってんだ、この!ボケアマァ!さっさとどっか行けぇ!」

女は顔を上げ俺を睨む。

「嫌だ」

女はそう言うと自分の左腕に噛みついた。

「嫌だ。嫌だ。嫌だ。一人は嫌だ。一人は嫌だ。一人は嫌だ」

つぶやきながら、女は自分の左腕に噛みつく。

血が吹き出ても噛みつくことを止めない。肉の切れる音がする。

女は泣いていた。泣きながら自分の腕を食いちぎっていた。

女の口は血で真っ赤に染まっていく。腕からは白い骨が見え始めていた。

俺の脳裏に、『逃げろ』という言葉が閃光のように走る。

こいつは手に負えない。精神異常者だ。変態だ。変質者だ。

俺はバイクに向かって全力で走った。

逃げなければ俺が食われる。そんな思いが全身を駆け抜けた。

メットを手に取り後ろを見ると、あの女がいない。

なぜ、居ない!?

その瞬間、俺の肩に何かが触れた。

あの女の血まみれの左手だった。

女はいつの間にか、俺の真後ろにいた。

「置いてかないで……」

女がそう言うのと同時に、手に持ったメットを女の顔面に叩きつけた。

これ以上無い程の全力で、俺は女を殴った。

女は口と鼻から血を噴出しながら、後ろに仰け反る。

それでも女は、俺の肩から手を離さない。

俺は何度もメットを女の顔に叩きつけた。俺は絶叫していた。

ようやく女が俺の肩から手を放し、後方に倒れる。

メットを女の顔面めがけて全力投球した後、バイクで俺は逃走した。

なんだ!?あれはなんなんだ!?

恐怖と不安を振り払うように、俺はアクセルを捻った。

次の瞬間、俺は見覚えのないベッドの上で目が覚めた。

……病院?何で病院なんかに?

そこは明らかに病院だった。何故自分がここに居るのか、全く記憶がない。

俺は北海道の道の駅で、キチガイの女から逃げている最中だった。

なのに、その先の記憶がない。何故か俺は病院の中に居る。

怪我はしていない。事故を起したわけでもない。

俺は病室の外に飛び出ようとした。ドアが開かない。外側から鍵がかけられている。

「誰か、誰かいませんか!?」

すると、看護師と思わしき男が出てきた。

「どうなさいました?」

「いや、あの、ここはどこですか?俺は何でこんなところに居るんですか?」

看護師は溜息をつくと、

「担当の先生との診断がそろそろ行われますので、詳しい話はそこで」

そう言ってどこかへ行ってしまった。

俺は頭が混乱した。ここはなんだ?何故、病室に俺は閉じ込められている?

ふと、ベッドの脇に目をやると、ノートが置いてあった。

ノートを手に取り、中を見ると、そこには俺の文字がびっしりと書き連ねて在った。

『助けてくれ。あの女が。殺したのに。誰も俺を信じてくれない』

内容の意味はさっぱり分からないが、筆跡は間違いなく俺の字だった。

暫くノートに見入っていると、ドアの鍵が開く音がした。

振り向くと、さっきの看護師の男と、警察官の姿をした男が入ってきた。

警察官が俺の手首に手錠を嵌める。

「ちょっと、何で手錠なんか!?」

警察官は黙って俺を殴りつけた。

倒れた俺を見下しながら警察官は、「面倒をかけるな」とだけ言った。

二人の男に連れられ、俺は診察室と書かれた部屋に入れられる。

白衣を着た医者のような男が待ち構えていた。

二人の男は部屋から出て行き、俺と医者の二人きりになる。

「調子はどうかね?」

医者が問いかける。

「訳が分かりません。何故、俺はこんなところに居るんですか?俺は北海道に居たはずです。俺は家に帰りたいです。家に帰して下さい」

「君に帰るところなどない」

「え?」

「君は、所持していたヘルメットで女性を撲殺し、警察に捕まった。その後、心神喪失と診断され、この病院に隔離されることになった。君は社会的に完全に抹殺されているし、帰る場所も全て処分された。君に帰るべき場所はない」

こいつは何を言っている?俺が女を殺した?

俺の脳裏に、あのキチガイの女が浮かんだ。

あいつを殺したのか?俺が?だからここに居る?そんな馬鹿な。俺に警察に捕まった記憶はない。

だが、隔離病棟に居る。それは俺が精神異常者で、記憶があいまいなのも精神異常者だから?

いや、違う。俺は正常だ。俺は。俺は。俺は。俺は。俺は。俺は。

「混乱しているようだね?」

医者が不意に話しかける。

「当たり前じゃないですか」

「君はもう社会的に死んでいる。気分はどうかね?」

「なんだと?」

こいつ、俺を挑発しているのか?俺が社会的に死んでいるだと?何のつもりだ。そんな事があってたまるか。

「俺は誰も殺してない。社会的にも死んでなんかない!お前は嘘吐きだ!」

「いいや、君は殺した!だから君は、彼女と永遠に死ぬんだ!永遠に彼女とともに死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!死ね!」

「何を言ってるんだ、テメェはぁ!」

激高する俺と、訳のわからない事を叫ぶ医者。

現実離れした異様な空間だった。その時、俺の首に生暖かいものが巻きついた。

赤い血みどろの左腕。俺の背筋に電撃が走った。

「見つけた……」

あのキチガイ女だった。

俺は絶叫した。これ以上の声は出せない程に絶叫した。

俺には女が、暗く陰湿な冷たい壁に囲まれた、永遠の監獄のように感じられた。

医者が立ち上がり、俺の両肩を掴む。

「君は奈々子を殺したんだ!君には永遠に、奈々子と一緒に死んでもらう!もう私には無理なんだ!この子は暗闇の中で死んだ!この子の孤独を君が共有してくれ!」

「嫌だぁぁぁぁぁぁぁ!」

その瞬間、目の前が緑色に染まった。

気が付くと俺は、道路脇の草むらの中で倒れていた。

どこにも怪我はない。バイクも横倒しになっていたが、無事だ。

夢……?俺は夢を見ていたのか?

周りを見渡すと、あの道の駅が見える。仮設トイレは無い。

時刻は八時。俺は何をしていたんだ。

不思議な体験だった。きっと俺は、夢か幻に踊らされていたのだろう。

その後、俺は無事に北海道一周をやりきり、自宅へと回帰した。

実を言うと、その後も俺は、その女に付きまとわれることになる。

結果的には、今はもうその女は居ない。

ある霊能者のおかげで、その女の退治が出来たんだ。

俺はその霊能者の人が居なかったら、狂って死んでいたかもしれない。

あの北海道ツーリングから三ヶ月。

俺は今、都内の駅前広場のベンチに座っている。

夏の暑さも終わり、街に冬の気配が漂う秋風の季節だった。

季節の流れに街の色が移ろうように、三ヶ月間で俺の人生も大きく変わった。

あの日、俺と一緒に北海道を旅したバイクはもう居ない。

トラックと正面衝突を起こし、跡形も無く大破した。

俺はその事故で、左脚と左腕、左側の鎖骨と肋骨4本を骨折する、重傷を負った。全治五ヶ月と診断された。

生きていただけ有難いが、全治五ヶ月の人間を、俺の会社は不必要と判断し、書類一枚の郵送で解雇した。

おかげで、バイクも失い、仕事も失い、残ったのは僅かばかりの貯金と、ポンコツの身体だけだった。

幸い、後遺症も無く回復しそうな感じではあるが、左腕の回復が妙に遅い。

左脚、肋骨、鎖骨はもう殆ど治っているのに、左腕は未だに折れたままだ。

医者も不思議がっていた。俺も不思議だ。

あの時、俺は何故事故を起してしまったのか、記憶が無い。

医者は、事故のショックに因る、一時的な記憶障害と言っていた。

だが、今はそんなことはどうでもいい。

俺はすっかり社会から逸脱していた。

例え怪我が癒えても、俺には帰るべき職場も無い。

俺はすっかり生きていく自信を失っていた。

このまま俺は社会不適合者として、枯葉の様に朽ち果てるのではないだろうか。

そんな事ばかりを考えていた。

俺が今、駅前広場のベンチに座っている理由は、一週間前の出来事に遡る。

俺は病院に行く為に、この駅を利用している。

俺の体は、俺の思うように動いてくれない。

不意に人の波に足を取られ転倒した。

そんな時、俺を助けてくれる人間は皆無だ。

ほんの少しこちらに目線をくれるだけで、人々は通り過ぎていく。

別にそれでも良かった。助けて欲しいとは思わない。

妬む気持ちや、恨めしいという気持ちは無い。ただ自分が惨めで仕方なかった。

弱いということは、孤独で惨めな感情を引き立てる。毎日が泣きたい日常だった。

駅前広場のベンチに座り、俺は休んでいた。

人々の流れを見ながら、俺はかつての日常を思い出していた。

あの頃に戻りたい。過去に戻れたら、どんなに良いだろうか。

不意に若い男が、俺の隣に座った。

若い男はタバコに火を点け、煙を空に向かって吐き出した。

「お兄さん、ヤバそうだね」

若い男が俺に話しかけてきた。俺は黙って人々の流れを見ていた。

「別に怪しいもんじゃないよ。ただ今のお兄さん見てると、助けが必要なのかなって思ってさ」

「助け?助けなんか要らないさ。体が治れば、俺だって自力で生きていける」

若い男は、溜息をつくように煙を吐き出す。

「その体はもう治らないよ。治ったとしても、また同じ事を繰り返すだけだ」

俺は黙って人々の流れを見る。言い返す気力も湧かない。

「一週間後にさ、またここに来てよ。そしたら俺たちが、お兄さんの力になるからさ」

そう言って若い男は、その場から立ち去った。

俺は虚空を眺めていた。

俺はあんな奴に、あんな事を言われるまでに落ちぶれたか。

その日の夜、俺はアパートのベッドの上で横になっていた。

姉が時折俺の面倒を見に来る以外に、誰も訪れない。

俺は孤独な狭いアパートの中で、ただ天井を眺めていた。

暫くして眠りに落ちると、不意に目が覚める。

天井に穴が開いている。それも、人一人が通れそうなほどの大きな穴が開いていた。

突然現れた天井の穴に驚いた俺は、体を起そうとするが、まるで拘束具で縛り付けられたように体が動かない。

俺は一瞬パニックを起しかけた。

天井を一点に見つめたまま、身動き一つ取れない。

なんとか体を動かそうと足掻く俺の耳に、何かが這いずるような音が聞こえた。

音の発信源は天井の穴の中。

俺の全身に警戒信号が流れ出す。嫌な気配が天井の穴の中から満ち溢れていた。

俺は目を閉じた。これは夢なのだと自分に言い聞かせた。

起きろ!起きろ!起きろ!

必死で念じた。

目を開けた次の瞬間、俺は我が眼を疑った。

あの北海道で遭遇したキチガイ女が、天井の穴の中に居る。

俺の心臓は、張り裂けんばかりに強く鼓動した。

キチガイ女は、黙ってこちらを見ている。

身動き一つ取れない俺は、ただひたすらに震えていた。

キチガイ女の口が、モゴモゴと奇妙な動きをする。

まるでガムを噛むような素振りの後、女の口からゆっくりと血が流れ落ちてきた。

その血が滴となって、俺の顔にこびりつく。

女の口から吐き出された血は、人の血とは思えない冷たさだった。

死体の血。俺の頭の中で連想した物はそれだった。

俺は絶叫した。誰でもいい。気付いてくれ。誰か助けてくれ。

俺の顔を埋め尽くすほどに、尚も女は血を吐き出し続けている。

俺は叫んだ。心の底から叫んだ。助けを求め、狂ったように叫んだ。

すると女は、穴から這いずるように身を乗り出すと、そのまま天井から落ちて来た。

俺の心臓は停止寸前だった。

落ちてきた女は、天井にぶら下がるように首を吊っていた。

冷たい無表情な顔で、俺を見下ろしている。女の口からは、大量の血が流れ出ていた。

冷たい血が、女の白いワンピースを赤く染める。

唐突に、女の首のロープが切れる。

まるで操り人形の糸が切れた様に、女は力なく俺の腹部に落下した。

俺の恐怖は頂点に達していた。

這いずるように、女の顔が俺の耳元に近づく。

「もうお前は私のなの……」

そう言いながら女は、俺の体を弄る。俺は恐怖で涙が止まらなかった。

「許してくれ、助けてくれ」

懇願することしか俺には出来なかった。

女は俺の口に、ねじ込むような不快なキスをしてきた。

俺は泣きながら、くぐもった声で絶叫した。

その刹那、女は消えた。

俺は大量の汚物を口から吐き出した。

朝、目覚めた俺の周囲は、俺の吐いた汚物にまみれていた。

鏡を手に取り、顔を見る。女の血は付いていない。

ベッドの周囲にも女の血は無かった。天井にも穴は無かった。ただ俺のゲロだけが散乱していた。

俺は荷物をまとめると、アパートを飛び出した。昼間は駅の構内で休み。夜はファミレスで明かした。

俺はもう、一人になる環境に耐えられなかった。誰でも良いから、人の居るところに居たかった。

そんな生活が一週間続いた。俺の心身は限界に近づいていた。

癒えきらない体。慣れない生活環境。俺の中で色々なものが崩壊した。

ほんの少し前まで、俺はバリバリ仕事をこなし、一端の社会人として生きてきた。

それが今じゃ、ホームレスと変わらない。その理由が、あのキチガイ女に纏わり憑かれているからだ。

そんな理由で俺はこんな生活をしている。こんな事は誰にも言えない。

精神異常者と思われても仕方が無い。俺はもう駄目かもしれない。本気でそう思えた。

俺の心は半分死んでいた。何もかもが絶望的に思えた。

気が付くと俺は、あの若い男と出会った、駅前広場のベンチに座っていた。

最後の拠り所とでも思ったのかもしれない。俺はただ何も考えずにベンチに座っていた。
夏の暑さも終わり、街に冬の気配が漂う秋風の季節だった。

俺は彼を待っていた。駅前広場のベンチに座り、虚空を眺めていた。

過酷な環境に耐えかねた俺は、もう考える事も放棄していた。

ひたすら俺は、一週間前に出会った若い男を待っていた。

タバコに火を点ける音がする。いつの間にか、彼が俺の隣に座っていた。

「前に会った時より酷くなってるね、お兄さん。もう限界でしょ?」

若い男は俯きながら、地面に向かって煙を吐いた。

「本当に助けてくれるのか?」

俺はすがる思いで尋ねた。

「まぁ、やれるだけのことはやりたいね。このままお兄さん放置してると、死んじまうのは眼に見えてるし。それを分かってて死なしちまったら目覚めが悪い」

「何をする気だ?」

「まぁ、付いて来なよ」

そう言うと若い男は、駐車してあった車に俺を乗せた。

暫く車を走らせ、ビルの中に入る。その中に、若い男の事務所があるそうだ。

『あすなろ探偵事務所』と書かれたビルの一室。ここが若い男の事務所。

「探偵?」

俺がそう呟くと、若い男は「本業はね」と答えた。

事務所の扉を開けると、中には誰も居ない。

「あぁ、今はみんな出払ってるよ。多分、社長は居ると思うんだけどね」

「俺は金なんか持ってないぞ」

「ん~、うちの社長、金にはうるさいけど、根は良い人だし、多分大丈夫」

そう言うと若い男は、奥の『社長室』と書かれた扉の前に進む。

軽く二回ほどノックをすると、中から「どうぞ」と言う返事がした。

扉を開けるとそこには、如何にもキャリアウーマンといった風貌の女が居た。

この女が社長だ。

女社長は、俺の顔を見るなり舌打ちをした。

「また、ろくでもない奴を連れて来やがって……」

小声だったが確かにそう言った。あからさまに俺は歓迎されていない様子だった。

「社長、いや、その、あの、えとー、そのー」

若い男がしどろもどろになる。女社長は若い男を睨み付けると、書類を机に叩きつけた。

「あんたねぇ!うちは慈善事業で商売やってんじゃないのよ!こんな金もない奴連れてきて、どうやっておまんま食ってくんだよ!」

まさに男勝りな怒号だ。

「いや、でも社長わかるでしょ!?この人このままだと死んじゃいますよ!?」

「この馬鹿!お人好しもいい加減にしろ!」

うなだれる若い男。どうやらこいつは、本気で俺を助けたいと思ってくれているらしい。

有難い話だが、俺は人に迷惑をかけてまで助けを請うつもりは無かった。

踵を返し、俺は事務所を後にしようとした。すると女社長が俺を呼び止めた。

「待ちなさいよ、若年性浮浪者モドキ。こいつの言うように、あんたはこのままだと死ぬよ。 どうするつもりだい?」

「さっきから、何で俺が死ぬってはっきり言えるんですか?なんか確信する様な事でもあるんですか?俺は確かに追い詰められています。でも、あなたの言う様に金はありません。この若い人に迷惑かけるつもりもないし、俺は出て行きます」

女社長がタバコに火を点け、煙を吐き出す。

「人に迷惑をかけたくないってのは良い心得だ。それならそれで、人の役に立ってみる気はないかい?」

「どういうことですか?」

「手は有るって言っているのさ」

「ま、まさか社長……」

若い男の顔が青ざめる。

「さっきあんたは私に、『なんの確証があって、自分が死ぬなんて言っているのか』と尋ねたわね」

俺は頷く。

「あんた、どうやら厄介なのに取り憑かれているのよ。あんた、首吊っている、薄汚いワンピースの女に心当たりあるでしょ?」

俺は驚いた。その女の事を、今まで誰にも話したことは無い。

「ふふ~ん。驚いているわねぇ。まぁ、私も本業は探偵なのだけど、副業で霊能関係の仕事もしているのよ。 それにしても、良い~顔で驚くわねぇ。ふふ~ん。好きよ、そういう顔」

俺は考えた。本業が探偵で副業が霊能力者?なんて怪しさなのだ。ここに居て良いのか俺は?でも、あのキチガイ女の事を言い当てた。それも事実だ。

だが、あのキチガイ女は霊なのか?俺の錯覚ではないのか?

「さっき言っていた良い方法って……?」

女社長は苦笑いをする。

「誰も良い方法なんて言ってないでしょ?ただ手は有るって言ったのさ」

「じゃあ、その手というのは?」

「私に除霊を頼むのであれば、最低でも200万はかかる。あんたには、そんな金はない。でも、そこの若いのがやるなら話は別よ。そいつは霊能者としてはペーペーもいい所。 だから、そいつの現場実習もかねて除霊をさせてもらうなら……お金はかからない。逆にこちらから礼金を払う。ただし、身の保証の類は一切無いけどね」

そう言うと女社長は、微笑みながらタバコを揉み消した。

それを聞いた若い男は、頭を抱えて天を仰ぐと、「オーマイガー……」とだけ呟いた。

「いや、社長。俺どうすれば良いんすか?」

若い男の問いかけに女社長は、「はぁ!?」と言い、不機嫌な態度を示す。

「今からクライアントと問診!その後に除霊方法を検討し、計画書を書き上げ、明日までに私に提出!!分かったか!?」

「は、はい!!いや、でも、あの、その……」

「いいからさっさと状況を開始しろ。ボケナス!!」

女社長に激高され、追い出されるように俺たちは事務所を飛び出た。

その後、俺たちは喫茶店の中に入る。

「良い店でしょ?ここ社長の店なんですよ」

若い男はそう言うと、慣れた態度で席に座る。

席は個室のようになっていて、周りに会話は届かない。

コーヒーを二人分注文し、若い男はノートPCを広げた。

「じゃあ、お兄さん。これから問診を始めます。用意は良いですか?」

「気になる事があるんだが……」

「なんです?」

「君はさっきまでタメ口だったのに、急に敬語で話すようになった。なんでだい?」

「お兄さんが、俺の正式なクライアントになったからです。本当は社長にやってもらいたかったけど、仕方ありません。俺が現場実習としてお兄さんの除霊をするなら、会社から人材育成費として予算が出ます。お兄さんにも、礼金として二万円支払われます。ある意味、金銭的にはこれが最善の方法です。ただ、俺も本当にペーペーなので、身の保証の類は一切出来ません。でも全力でやります。下手に手を抜けば、俺も死にますから」

そう言うとジョンは、優しく微笑んだ。

「言いたいことはなんとなく分かった。ただ、俺は霊とかそんなことには疎い。正直、今回のキチガイ女の事も、俺の精神疾患による幻か錯覚だと思っていたんだ。だから急に霊とか、そんな事を言われても戸惑う」

「なるほど。じゃあ、少し霊に関して説明します。信じるも信じないも、お兄さんの自由です」

俺は小さく頷いた。と同時に、少し悲しい気分になった。

俺はほんの少し前まで、普通のサラリーマンだった。

それが今じゃ霊だのなんだのと、怪しいことに関わっている。

「先ず、俺たちがクライアントに霊の事を説明するとき、PCを例えに用います」

「PC?」

「そう、PCです。今のお兄さんの状態は、ウイルスに侵されたPCです。PCとはお兄さん。ウイルスとは悪霊。つまり、お兄さんの言うキチガイ女の事です」

「また、新しい例えだな」

「悪霊が取り憑く。よく聞くフレーズだと思います。では具体的に、人間のどこに取り憑くのか分かりますか?」

俺は黙ってコーヒーに口をつける。

「脳です。悪霊は人間の脳にハッキングすることで取り憑きます。そして、脳の中に自分というウイルスを根付かせ、脳を支配することで、その人間の内側から幻覚や錯覚を起こし、精神や肉体を破壊していきます。個人の脳内での出来事なので、他人には認識する事が難しいです。一般的な霊であるならば、人間が生まれつき持っているファイアーウォール=守護霊を突破することは出来ません。しかし稀に、強力なハッキング能力を持った悪霊も居ます。俺たち霊能者は、ウイルス=悪霊と同様に、人の脳内に侵入することが出来ます。霊能力=ハッキング能力です。俺たちの仕事は、悪霊=ウイルスに侵された人間の脳に侵入し、駆除=除霊することです」

何がなんだか訳が分からない。

もしかして俺は、関わっちゃいけない世界に足を踏み入れたのか?そんな気持ちでいっぱいだった。

「ここまでで何か質問はありますか?」

若い男はそう言いながら、ノートPCに何かを打ち込んでいた。

「何故その悪霊と言うのは、俺に取り憑いたんだ?俺には何の因縁もない女のはずだ」

若い男はひたすらノートPCのキーボードを叩きながら、質問に答える。

「取り憑いたのは、たまたま、という表現が適切かもしれません」

「たまたま?偶然ということか?」

「はい。たまたま侵入しやすかった。多分それだけです。本当の目的は、誰でも良いから自分の中に取り込むことだと思います。悪霊は生きた人間を殺して、取り込むことで勢力を拡大させます。お兄さんをベースに、更なるグレードアップを狙っているのでしょう」

「何のために?」

「恐らく、孤独の穴埋め。もしくは、恨みの穴埋め。或いは両方。といったところでしょうか。そんな事をしても無意味なんですけどね。むしろ逆効果です。彼女の穴埋めは、永遠に叶わないです」

「随分自分勝手な、テロリストのような理由だな……もう一つ疑問がある。君は……」

「ジョンでいいです」

「ジョン?」

「仲間内ではそう呼ばれています。本名が言い辛い名前なので」

ジョンか……昔、うちで飼っていた犬と同じ名前だ。

「じゃあ、ジョン。さっき君は、社長に俺の除霊を言い渡された時に、頭を抱えて『オーマイガー』と呟いたな。それと、『下手に手を抜けば自分も死ぬ』と言った。それについて説明が欲しい」

「あ、聞こえていたんですか?まぁ、なんと言いますか。正直に言うと、俺の手に負える相手じゃないと思ったんです」

「手に負えない?」

「お兄さん、心当たりがありませんか?医者、警察官、看護師の三人の男」

俺は驚いた。こいつら何故そんな事が分かるんだ。

「心当たりは……ある」

「そいつらは、お兄さんの言うキチガイ女が、今まで殺してきた人間です。今は完全に彼女に取り込まれて、彼らが彼女のファイアーウォールになっているんです」

「殺してきた?」

「そうです。今のお兄さんと同様に取り憑き、苦しめた挙句に殺しました。中でも医者との繋がりが強い。恐らく最初の被害者であり、親子だったのかもしれません」

俺は北海道での出来事を思い出していた。

「俺には手に負えないというのは、その三人が理由です。社長はお兄さんを見た瞬間に、キチガイ女の姿が見える所まで侵入しました。でも俺には、未だに女の姿が見えない。ファイアーウォールである三人を見る所までしか侵入できません」

北海道で見た幻。あの病院内で出会ったあの三人も、あの女に殺されているだと?

「仮に強引に彼らを突破しようとしても、彼ら三人に足止めを食らうでしょう。その隙に女が俺の中に逆侵入し、今のお兄さん同様、俺にも取り憑くでしょう。恐らくそうなれば、俺の命も危ない」

じゃああの時、医者が言った言葉の意味は?奈々子?あの女の名前か?

「方法は考えます。俺もこの商売に命懸けていますから」

社会的に抹殺?私には無理なんだ?孤独を共有?俺はいっぺんに不可思議な情報を得てしまった為か、頭が混乱していた。

「お兄さん?どうかしましたか?」

ジョンの言葉に我に返る。頭が混乱していた。

「なあ、ジョン。仮にこのまま何もせずに放置していたら、俺はどうなる?」

ジョンのノートPCを打つ手が止まる。

「死にますね。事故死、病死、自殺……俺は預言者じゃないので、その先の死因までは分かりませんが。キチガイ女は、今まで三人も殺めている。非常に危険な女です。殺される可能性は極めて高い……」

俺は頭を抱えた。気が狂いそうだ。

「ジョン……俺が今までにあの女を見たのは2回だ。その時の話をする」

俺はジョンに、北海道での出来事。それと、初めてジョンと出会った日の、夜の出来事を話した。

ジョンは真剣な眼差しで俺の話を聞いていた。

話し終わった後のジョンの第一声は、「予想以上に厄介です」だった。

「そんなに厄介なのか?」

「厄介です……お兄さん、その病院の中で『これは現実じゃない』という違和感は覚えませんでしたか?」

「違和感は無かった。今でもあれは現実のように感じる」

それを聞いたジョンの顔は、更に深刻な表情に変わる。

「そこまでリアルな病院を、お兄さんの脳に作り上げた。しかも、同時に三人をその場に出している。これは女……奈々子ですか?そいつが、お兄さんの脳をかなり深い部分まで侵食していることと、完全に三人を掌握していることを示しています。相当ですよ、これは」

俺は言葉を失った。不意に底なし沼の深みに陥った気がした。

「お兄さん、正直な俺の感想を言います」

「なんだ?」

「今まで良く生きていましたね」

夜、俺とジョンはホテルの一室に居た。

「良い部屋でしょ?ここ、社長の従兄弟が経営するホテルなんですよ」

確かに良い部屋だった。地上20階に位置するこの部屋からは、キレイな夜景が見える。

「お兄さん、家族への連絡は済みました?」

「ああ。何て説明したらいいか分からなかったけど、なんとか納得して貰ったよ」

「事が済むまで申し訳ないですけど、お兄さんをここに監禁させてもらいます。下手をすると、ご家族にも迷惑がかかりますので……」

俺の家族は、母と姉の二人。父は三年前の秋に、心筋梗塞で死んだ。

父が死んだ時、そばには誰も居なかった。気付いた時には、自宅で孤独死していた。

俺にとって良い父親だった。俺は生涯で最も本気で泣いた。

残された体の弱い母を、俺が守らなくてはいけないのに、今の俺はこの様だ。

本当に情けない。

「なぁ、ジョン。お前にも家族が居るんだろ?」

俺の質問に、ジョンは少し困った顔をした。

「血の繋がった家族は居ません。俺、施設の出なんです。だから……」

「そうなのか。なんか悪いこと聞いちまったかな」

「いえ、俺には家族が居ます。社長や社員のみんなです。俺は社長に拾われていなかったら、本当にろくでなしで人生を終えるところでした」

そう言うとジョンは優しく微笑んだ。

「あの女社長、ヒステリックで怖そうな人だったけど、お前の言ったとおり根は良い人なんだな」

「まあ、そうですね。普段はおっかないですけどね。あと……お兄さん」

「ん?」

「あの人、女じゃないですよ」

「え?」

「改造済みです」

暫く俺は夜景を眺めていた。こんなに落ち着いた環境は久しぶりだ。

ジョンはひたすら、ノートPCで計画書を作成していた。

「なあ、ジョン」

「なんですか?」

「俺のような人間は他にも居るのか?こんな風に、訳も分からず取り憑かれてしまう人間が、俺の他にも……」

ジョンは静かに溜息をつく。

「多いですね。でも、お兄さんは運が良い部類に入ります。俺たちと出会いましたから。多くの人は、何も出来ずにただ死ぬだけです。最初にお兄さんが言ったように、自分がおかしいのだと思い込んで、大概の人は死にます」

ジョンはタバコに火を点け、煙を深く吸い込んだ。

「近年の自殺者数は、年間三万人以上になります。一日に100人は自殺しているのです。死因不明や行方不明を含めると、もっと居るのかもしれません。社長は言っていました。『日本人の守護霊が年々弱くなっている』と。その為、本当に小さな悪霊にも、簡単に取り憑かれてしまう人間が増えた。勿論、全部が全部悪霊の仕業とは言えませんが、『これは本当に悲しいことなのだ』。そう言っていました」

「守護霊……か。さっきも言ったが、俺は霊とかには疎い。守護霊ってのは、なんなんだ?」

ジョンはノートPCから手を放し、こちらに振り向いた。

「守護霊と悪霊……同じ霊という字で表現しますが、根本的には全く異なる存在です。悪霊は、自分自身の感情と意志に依存し存在します。逆に守護霊は、人間の温かい記憶に依存して存在します。悪霊の強さは、自身の念の強さに左右され、守護霊の強さは、人の温かい記憶よって左右されます」

「温かい記憶?それはなんだ?」

「優しさですね。人は誰かに守ってもらったり、助けてもらって、優しさを身につけます。助け合いの精神です。その精神が、守護霊の力になるのです」

やっぱり俺にはよく分からない。ただ、ジョンが真剣なのは分かる。

「それって何かの宗教か?」

「いえ、社長の受け売りです。俺たちは宗教団体ではないです」

ジョンの言うとおり、日本人の守護霊とやらが全体的に弱くなっているなら、それは助け合いの精神の欠如が原因か……確かに悲しいことではある。

なら俺も、その助け合いの精神が無いが故に、こんなことになってしまったのか。

「お兄さんの守護霊は強いですよ」

「なに?」

「さっきも言いましたけど、お兄さんは本来、死んでいてもおかしくなかった。
それくらい強烈な奴に憑かれたんです。でも、お兄さんは死んでいない。守護霊が守ってくれているんですよ」

「俺の守護霊って……?」

「お父さんですよ。お兄さんのお父さんが、お兄さんを守ってくれています。ギリギリの勝負ですけどね。本当に良く頑張ってくれています。お兄さんは、良い人に育ててもらったんですね」

それを聞くと、俺は黙って窓の外に広がるキレイな夜景を眺めた。キレイな夜景が、うっすらとぼやけて見えた。

夕飯にジョンがスパゲティを差し出した。

「食って下さい。これから先、体力勝負になりますから」

ジョンには申し訳ないが、今の俺に食欲はなかった。半分ほど手をつけて限界だった。

それを見てジョンは溜息をつく。

俺はこの先の不安で心を締め付けられていた。

訳も分からないままに騒動に巻き込まれ、こうしている。

納得がいかなかった。どうしてこんなことに俺は巻き込まれたのか。

自問自答してもジョンに聞いても、俺の心は納得しなかった。

窓の向こうに見える景色の中では、今も人々が移ろうように流れていく。

かつては俺もあの流れの中に居た。

あの日々に戻りたかった。

思いふけっていた俺の耳に、窓の縁から何かが張り付くような音がした。

音の方向に眼をやると、俺の瞳孔は一気に開いた。

人の手が窓の向こう側に張り付いている。

ここは地上20階。ベランダも無い。人が立てるような場所ではなかった。

そんな場所に人の手がある。俺はジョンの名を叫んだ。

その瞬間、ジョンは俺の前に立ちふさがり、「窓から離れてください!!」と叫んだ。

ジョンは携帯を取ると、どこかに電話し始めた。

俺は窓の手から視線を外せずにいた。

「大丈夫です。俺が居ます。この部屋の中には入って来られません」

震える俺にジョンはそう言った。

その時、ゆっくりと手の主が這いずるように動き出す。

俺は手の主の顔を見た瞬間に、頭を打ち抜かれるような衝撃を食らい絶句した。

手の主は俺だった。窓の向こう側に俺がいた。どう見ても俺だった。

俺の頭は完全に真っ白になった。どうして俺が窓の向こう側に張り付いているんだ。

俺はここに居るのに、窓の向こう側にも俺は居る。俺の頭は完全に混乱した。

「社長、俺です!ジョンです!マズイことになりました!ドッペルゲンガーです!お兄さんのドッペルゲンガーが出ました!俺の眼にも見えます!今は窓の外に居ます!!はい!!御願いします!」

ジョンの電話先は社長だった。何かを社長に御願いし、ジョンは携帯を切る。

「お兄さん、あいつに絶対に触れないで下さい!触れたら、俺でも社長でも、お兄さんの命を助けられない!」

窓の向こう側のもう一人の俺は、激しく狂ったように窓を叩き始めた。

その衝撃音が連鎖するように、部屋中から鳴り響く。

「開けろぉおお!!開けろぉぉおおおお!!」

俺が窓の外でそう叫んでいた。

俺は縮こまりながら、心の中で『止めてくれ、もう止めてくれ!』と何度も叫んだ。

ジョンは「速くしてくれ、速くしてくれ」と呟く。

次の瞬間、ジョンの携帯が鳴り響く。

携帯の着信音に、窓の向こう側の俺は驚いた表情を浮かべると、溶けるように消えていった。

「なんだ!?あれはなんなんだ!?ジョン!?俺が居た!俺が居たぞ!」

怒鳴る俺を無視して、ジョンは携帯で話をしている。

「はい、消えました。有難う御座います。はい……はい……分かりました」

俺はもう何がなんだか訳が分からなかった。

ジョンはソファに腰掛けると今起きた事態を説明しだした。

「非常にマズイです、お兄さん。窓の外に居たお兄さんは、あの女、奈々子が作り出した、お兄さんの分身です。あの分身に触れると、確実に死にます。俗に言う、ドッペルゲンガーって奴です。これは、女がお兄さんを本気で殺しに来た証拠です。ドッペルゲンガーの殺傷能力は異常に高いんです。多分あの女は、お兄さんをゆっくり苦しめてから殺すつもりだった。その方が、お兄さんは強い悪霊として育ち、女にとって役に立つからです。

でも、俺たちが現れた。だから、早急に殺すことにしたんだと思います。実を言うとお兄さんの中に、社長特製のファイアーウォールを仕込んどいたんです。普通の悪霊なら、身動き一つ取れなくなるはずです。それをあの女は軽々と突破し、お兄さんの分身を作り上げた。更に悪い事に、俺はお兄さんの分身を見ようと思って、見た訳ではありません。あの女に強制的に見せられた。つまり俺も、いつの間にか女に侵入されていたんです。

さっきのは、社長に御願いして払いました。今の俺にはあれを払う力はありません。俺にとって何よりもショックなのは、夢の中ではなく現実の中で、女があそこまでリアルなお兄さんの分身を作り上げ、俺とお兄さんの中に、同時に具現化したことです。俺はその前触れに全く気付かなかった。女が俺の遥か上の存在だという事を、心底思い知らされました」

呼吸を乱しながら、ジョンは悔しそうな表情でそう言った。

俺の体は、未だに震えが止まらなかった。ジョンの話が、更に俺の恐怖心を煽る。

俺はジョンに怒鳴った。

「じゃあ、どうするんだよ!?」

ジョンは俯いた。

「どうしよう……」

そう言うとジョンは、頭を抱えて塞ぎ込んだ。

地上20階に位置する豪華なホテルの一室。

キレイなインテリアが並ぶこの部屋に、似つかわしくない二人の男。

一人は恐怖で小刻みに震え、一人は頭を抱えて俯いている。俺とジョンだ。

俺たちは、敵の強大さに打ちのめされていた。

俺の心は絶望感でいっぱいだった。逃げることだけを必死で考えていた。

「ジョン、サラ金でも闇金でも何でも良い……借金して200万揃える。だから、社長に俺の除霊を頼んでくれ……」

ジョンはタバコに火を点けると頭を横に振った。

「無理です、お兄さん。社長は、一度言ったことを絶対に曲げません。俺に除霊をやらすと言ったからには、例え俺が死んでも、お兄さんが死んでも、社長は手を出しません」

俺はテーブルに拳を叩きつけた。

「ふざけるな!!俺の命が懸かっているんだぞ!」

「お兄さん」

「お前だって、あの女には勝てないって言ったじゃないか!」

「お兄さん」

「200万で足りないなら300万だって用意する!!だから俺を助けてくれ!」

「お兄さんっ!!」

ジョンは声を荒げて立ち上がった。

「俺を……信じてください」

「お前を……信じる……?」

ジョンは真剣な眼差しで俺を見つめる。その鋭い眼光に俺は戸惑った。

「俺はお兄さんを守ります。お兄さんは俺が絶対に助けます。だから、俺を信じてください。俺はお兄さんを守る為に命を懸けます。例え、俺が死んでも……絶対にお兄さんは俺が助けます」

俺は困惑した。こいつ、何でそこまで言えるんだ?

「そこまでお前が、俺を守りたい理由はなんだ?お前だって危ないんだぞ?」

ジョンは黙り込むと深く溜息をついた。

「俺たちが除霊をする時、対象者の守護霊の力を借ります。つまりお兄さんの親父さんです。お兄さんの親父さんと沢山話をしました。ジョンって名前……、お兄さんの家で、昔飼っていた犬と同じ名前なんですね。親父さん、笑っていました。俺は未熟だから、お兄さんの親父さんと話しているうちに、親父さんに感化されてしまったのかもしれません。今では……お兄さんが、俺の本当の兄貴のように思えるんです……」

「お前……」

「親父さんのお兄さんを守りたいという気持ちは本物です。親父さんは死ぬ寸前に、お兄さんや娘さん、それに奥さんのことを思っていました。『すまない』。そういう気持ちでいっぱいだったんです。だからこそ今でも親父さんは、お兄さんたちを必死で守っているんです。俺はその気持ちに応えたい」

それを聞いた俺は足元から崩れ落ち、その場に跪いた。

ジョンが俺の肩を掴む。

「俺を……信じてください」

俺の肩を掴むジョンの手は、温かった。

深夜、俺は眠れずにいた。少しでも油断することが怖かった。

「ジョン、俺の親父は大丈夫なのか?あんな女と戦っているんだろ?」

ジョンはノートPCのキーボードを叩きながら答える。

「女はお兄さんだけでなく、お兄さんの家族にも侵入しようとしています。だから、お兄さんの守護は俺に任せてもらって、親父さんにはそちらの守護に専念してもらっています」

俺は頭を抱えた。

「なんてこった……あの女、俺の家族にまで……」

「大丈夫です。親父さんが守ってくれます」

俺はコップの水を飲んだ。

「なあ、ジョン。俺の守護霊が親父だってのは、なんとなく分かった。でも、お前の守護霊は居ないのか?ほら……、お前、身内が居ないって言っていたし……」

「居ますよ。俺の守護霊は社長です」

「はあ?お前、社長は生きているだろ?」

「守護霊も悪霊も、生きているか死んでいるかは関係ありません。一言に霊と言うと、死んだ人を想像するかもしれませんが、違います。さっきも言いましたが、悪霊は自身の感情や意志に依存して存在し、守護霊は温かい記憶に依存して存在します。俺の中で社長の温かい記憶がある。だから俺の中で社長が形成され、俺の守護霊として存在しています。これは俺だけじゃなく、普通の人も同じです」

俺はコップの中の水を見つめた。こいつに出会ってから、不可思議なことばかりを聞かされる。

不意にチャイムの音が部屋に鳴り響く。俺は驚いてソファから滑り落ちた。

「こんな時間に誰だろう?」

ジョンが立ち上がり、玄関口に向かう。

「おい、大丈夫なのか!?あの女じゃないのか!?」

ジョンは微笑みながら、「大丈夫ですよ」と答えた。

玄関を開けると、そこには社長が居た。

社長は部屋の中に入るとソファに座り、タバコに火を点ける。

「調子はどうかしら?若年性浮浪者モドキ君……」

じゃ……若年性浮浪者モドキ君……なんだか、この人に勝てる気が全くしない。

ジョンがグラスにワインを注ぎ、社長に差し出す。

「こんな深夜に、どういった御用件ですか、社長?」

「ああ、あんたがメールで送ってきた計画書ね……、読んだわ。筋は悪くないわね」

「有難う御座います」

「でも、決定的な勘違いをしているわ」

「勘違い?」

ジョンの表情が曇る。

「まあ、仕方ないわ。私もそれに気付いたのは、ついさっき。お前が気付かないのも無理は無い」

「どういうことですか?社長?」

社長は灰皿にタバコの灰を落とす。

緊迫した雰囲気が部屋に充満していた。

社長はワインの入ったグラスに口をつける。

赤いワインの入ったグラスを、しなやかに扱う指の動きが印象的だった。

「先刻、この若年性浮浪者モドキ君の、ドッペルゲンガーが現れたわね」

「はい。俺も強制的に見せられました。俺も侵入されていたんです」

ジョンは悔しそうな表情を浮かべる。

「私はお前の現場実習開始当初に、安全装置として、若年性浮浪者モドキ君に予め防壁を仕込んどいた。万が一を考慮してだ。だが、それは突破され、あまつさえ奴はドッペルゲンガー作り出した。私の見立てでは、あの薄汚い女にそんな力は無かったはず。違和感を覚えないか、ジョン?」

「確かに俺も驚きました。まさか社長のファイアーウォールが破られるなんて…… でも、違和感と言うのはなんですか?何かあるんですか?」

社長は深くタバコを吸い込んだ。

「あの薄汚い女は、中心ではあるが本丸ではない。ということだ。私ですらさっきまで気付かなかったほどに、本丸は深いところに居る。恐らくそいつは、死人ではなく生き人の可能性が高い。しかも、かなりの腕前の持ち主だ。こいつは予想以上に根の深い問題だな」

俺は黙って話を聞いていた。なんだか、話がとんでもない方向に向かっている。

「そっちの本丸の方は私に任せろ。こいつは、若年性浮浪者モドキ君の依頼の範疇を越えている。タダ働きでやるのは嫌だが、仕方あるまい。放置するにしては危険すぎる。ただし、薄汚い女並びに三人の男は、ジョン、お前が責任をもって除霊しろ。いいか?浄霊しようとしなくていい。除霊することに専念しろ。分かったか、ジョン?」

社長はそう言うと、グラスの中のワインをしなやかな手つきで飲み干した。

社長が部屋から退室し、再び俺とジョンの二人きりになる。

去り際に社長がこんなことを言った。

「この件が終わったら、父親の墓参りに行けよ。寂しがっているぞ。あと、寝ろ。眼の下のクマが酷いぞ」

そういえばここ最近、あまりにも色んなことが起きて、ろくに親父の墓参りにも行ってなかった。

この騒動から無事に生きて帰れたら、親父の墓参りに行こう。俺はそう思った。

俺はソファに座り、惚けていた。なんだか、とても疲れた。

眠ることが怖かったが、睡魔には勝てなかった。俺はいつしか眠りに落ちていた。

気が付くと俺は、どこかのビルの屋上に立っていた。

「ここは?」

深夜のビルの屋上に冷たい風が吹く。

「ジョン!?おい、ジョン!?」

大声でジョンに問いかけるも、返事は返ってこなかった。

俺は辺りを見渡すと、視界の端に何か居ることに気付いた。

その瞬間、頭に殴られたような強い衝撃が走る。俺は力なく、その場に崩れ落ちた。

地面に倒れた俺を、見たことの無い巨躯の男が見下ろしていた。

「なんだ……お前……?」

男はしゃがみこむと、俺の髪を掴んだ。

「悪足掻きするなよ。どうして素直に死なない?」

男の後方にキチガイ女と医者、警察官、看護師の姿が見える。

俺の全身の血が沸騰した。

『私ですらさっきまで気付かなかったほどに、本丸は深いところに居る』

俺は社長の言葉を思い出していた。

こいつがそうだ。俺は直感的にそう思った。

「テメェかぁ!テメェが俺を!!」

男が俺の頭を地面に叩きつける。俺は頭に生温いものを感じた。

それでも俺は男を睨みつける。

許せなかった。どうしても俺をこの騒動に巻き込んだ、この男が許せなかった。

「テメェだけは……テメェだけは絶対に許さねぇ!」

男の表情が暗く曇る。

「お前が俺を許す、許さないじゃない。俺がお前を殺すか、殺さないかだ。厄介なオカマも引き込んでくれたし、いい加減、俺も頭にきた。切れそうだよ。お前の家族もくれなきゃ、妹も納得しないそうだ。素直に死んどけば良かったのに、困ったことしてくれたな」

男は歯軋りしながら、そう言った。俺は男の胸倉を掴んだ。

「家族に手を出すことだけは絶対に許さねぇ!!」

男は俺の腕を払いのける。

「お前の父親も同じことを言っていたな。親子揃ってしぶといにも程がある。もういい。俺も本気でお前が殺したい」

俺の後方から足音が聞こえる。

振り返るとそこには俺が居た。ドッペルゲンガーだ。

『お兄さん、あいつに絶対に触れないで下さい!! 触れたら俺でも社長でも、お兄さんの命を助けられない!!』

俺は全力で走った。致死率100%と言われるドッペルゲンガーから逃げる為に。

頼みの綱のジョンは居ない。周りに居るのは敵ばかりだ。

狭いビルの屋上、逃げ場など無かった。

俺は出入り口のノブを回した。鍵がかけられている。ビクともしない。

後方には俺が居る。俺に触れたら俺は死ぬ。

「おいおい、もういいだろう!?手間取らせんじゃねぇよ!!」

巨躯の男が、苛立つ感情を剥き出しにして怒鳴る。

俺が迫ってくる。俺はこの時、必死に考えた。逃げる方法を。助かる方法を。

俺は屋上のフェンスを乗り越えた。

「これは夢だ。夢なんだ。現実じゃない」

俺は自分に言い聞かせた。目前には奈落の光景が見える。思ったより高い。

後方を振り返ると、俺がゆっくりと歩いてくる。

その時、不意にキチガイ女と眼が合った。

女は笑ってやがった。俺の中に怒りがこみ上げて来る。

生きるんだ。俺は絶対に死なない。絶対に生きるんだ。

俺は雄叫びを上げた。飛び降りてやる。ここから飛び降りてやる。

「ヘイ!!確かにここは現実じゃねぇけどよ!! 落ちればそれなりに痛いぜ!?お前、それに耐えられるのか!?」

巨躯の男が俺に問いかける。

「絶対にお前だけは許さないからな」

俺は、そう言い捨てると、ビルの屋上から飛び降りた。

激痛。それを表現するのに、この言葉以外に思いつかない。

ビルから飛び降りた俺は脚から落下し、地面に頭を叩きつけられた。

まるで蛙のように惨めに地面にへばりつく。俺の周囲に赤い血が広がる。

意識がなくならない。今まで体験したことの無いような激痛がはっきりと認識できる。

死にかけの蛙が、ひくつきながら痙攣するのと同様に、俺の体は小刻みに揺れた。

俺の視界の先に、ビルの出入り口から出てくる俺が見えた。

「来る……な……」

消え入りそうな蝋燭の如く俺は呟いた。これが精一杯の抵抗だった。

容赦なく俺は俺に近づき、俺の目前までやってきた。

俺は俺を見下ろしていた。体は痛みに支配され、もう逃げることもできない。

俺はもう一人の俺を、力の限り睨んだ。俺は俺に、負けたと思われたくなかった。

もう一人の俺はしゃがみこむと、俺の背中に手を置き、「見いつけた」と言った。

溶け込むように、俺が俺の体内に入ってきた。

完全な同化。奴の心と俺の心が一つになる感覚。

俺は俺に溶け込み、俺の心を支配した。

この瞬間、ジョンが「ドッペルゲンガーに触れられると確実に死ぬ」と言った意味が分かった。

暗闇が全身に拡がる。俺は終わった。終わったんだ。

心が引き裂かれるような、とてつもない暗闇に俺は放り出された。

負の感情が俺の中に溢れ出す。

俺は朦朧とした。生きることに希望なんて何一つとしてない。

この世に居たってどうしようもない。死んだほうが良い。

ただ死にたい。本当にそれだけだった。

なんでも良い。死ねるならロープでもガソリンでも俺にくれ。

自殺がしたい。自殺をさせてくれ。なんでもする。だから俺を自殺させてくれ。

俺はドッペルゲンガーに完全に支配されていた。

「お兄さん」

朝、ジョンに呼ばれて俺は眼が覚めた。全身が汗で濡れている。

俺は周囲を見渡した。ホテルの一室。ここは俺が居たホテルの一室だ。

俺は全身を弄った。どこにも異常はない。

ジョンがコーヒーを差し出す。

「大丈夫ですか、お兄さん?」

俺は確かにドッペルゲンガーに触れられた。でも、今は死にたいとは思わない。

俺は助かったのか?現実を俺は把握出来ずにいた。

「混乱しているみたいですね、お兄さん。もう大丈夫です。ようやく俺にも見えました。あいつがお兄さんの敵なんですね」

ジョンの言葉に俺は驚いた。

「どういう……ことだ、ジョン?」

「お兄さんには申し訳ないと思ったのですが、お兄さんのファイアーウォールを一時的に弱めました。案の定、敵の本丸はお兄さんに侵入してきた。狙い通りです」

俺はジョンの言葉の意味を理解し切れなかった。

「じゃあ、わざとアイツを誘き寄せたのか?」

「そうです。お兄さんには囮になってもらいました。勿論、お兄さんの安全が第一です。その為の対策をした上で実行しました」

なにがなんだか、俺にはさっぱり理解出来なかった。

俺はコーヒーを一気に飲み干した。

「冷静になろう、ジョン。俺に何をしたって言うんだ?説明してくれ。何をしたんだ?」

ジョンはタバコに火を点けた。

「敵はお兄さんに対して分身、ドッペルゲンガーを使ってきました。これは高度な技術を要します。敵は相当な腕の持ち主です。でも、社長はこう推理しました。『敵は、自分と同等の力の持ち主と出会ったことが無い』 お兄さんに対する敵の陰湿で強引なアプローチから、敵は力こそA級でも、経験は浅い人間だと推理したんです。そこで罠を仕掛けました。敵がお兄さんのドッペルゲンガーを使うなら、こちらもお兄さんのドッペルゲンガーを使う。敵も、自分以外にドッペルゲンガーが作れる人間が居るとは思わなかったのでしょう。完全に疑うことも無かったですね」

ジョンは微笑みながらそう言った。

「ドッペルゲンガー?どこが?どこら辺が?何がドッペルゲンガーなんだ?」

俺は尚もジョンに問いかける。訳が判らない。

「お兄さんが敵の作ったビルの屋上に立った時点から、お兄さんは社長の作ったドッペルゲンガーです。流石に意識のない人形だと疑われるので、半分ほどお兄さんの意識を入れました。お兄さんには、怖い思いをさせてしまいましたけど、おかげで、俺と社長が見ていることに、全く気付かれませんでした。いけますよ。社長が本丸の男の捜索に乗り出しました。ここからが探偵の腕の見せ所です」

俺は唖然とした。そうならそうと、前もって言ってくれ。

昼、俺は一枚の食パンを前に困惑していた。

ここ暫くろくな物を食っていないのに、食欲が全く湧かない。

一枚の食パンですら今の俺には重い。

「なあ、ジョン。さっき、『社長が本丸の男の捜索に乗り出した』って言ったよな?」

スパゲティを頬張りながらジョンは答える。

「ええ。社長は朝の便で北海道に向かいました」

「北海道?」

「社長があの男に侵入して、居場所を特定したんです。恐らくあの男も、今頃は泡食っているでしょうね。絶対に社長からは逃げられませんよ」

「なあ、ジョン。アイツはやっぱり生きた人間なのか?あんなことが人間に出来るものなのか?」

ジョンはスパゲティを平らげると、カレーライスに手をつけた。

「俺も驚きました。社長以外にあんなことが出来る人間は初めて見ましたよ。あれほどの力の持ち主が、野に放たれていたなんて恐ろしい限りです」

ジョンはカレーライスを平らげると、次はカツ丼に手をつけた。異様に次から次へとジョンは食いまくる。

「おい、ジョン。食いすぎじゃないか?」

食欲の無い俺からすると、ジョンの食う姿が異常に見える。

「これからの作業は体力要りますから、食っておかないと。夕方までに、社長が本丸の男を押さえますつまり……、クライマックスですよ、お兄さん」

そう言ってジョンは優しく微笑んだ。それを聞いた俺は、食パンにバターを塗り平らげた。

『クライマックス』。ジョンはそう言った。

社長が本丸の男を押さえ、ジョンが俺の除霊をする。

ついにあの女との戦いに、終止符が打たれようとしていた。

俺は吐きそうになりながらも、無理やり胃の中にメシを詰め込んだ。

生きるか死ぬかを超越して、俺は奴らにだけは負けたくなかった。

夕方、ジョンは俺をベッドの上に寝かせた。

「これから何が起こっても、絶対に気持ちだけは負けないで下さい。お兄さん」

ジョンの言葉に俺は強く頷いた。

気持ちだけなら、俺は絶対にあんな奴らに負けない。

ジョンは時計を見ながら深呼吸をすると、「そろそろですね」と言った。

「お兄さん、次に俺の携帯が鳴った時が合図です。俺は一気にお兄さんに侵入します。恐らく後ろ盾を失った女は、激しく暴れるはずです。俺がお兄さんの所に辿り着くまで、持ち堪えて下さい」

俺はジョンの手を握った。

「信じているからな」

ジョンは真っ直ぐに俺を見つめながら頷いた。

その瞬間、ジョンの携帯の着信音が部屋中に響き渡った。

気が付くと俺は、見覚えの無い洋館らしき建物の中で、木製の椅子に座らされ、縛り付けられていた。

目の前には下った階段が見える。俺は建物の中を見渡した。どこも古びた感じがする。

洋館の内部には、夢の中のような違和感が在った。確かに以前より弱い。

俺はゆっくりと眼を閉じた。ジョンが俺を助けてくれる。そう信じていた。

俺の後方に人の気配を感じた。

「キチガイ女か?」

俺は問いかけた。

すると後方の人の気配は、這うように俺の首に腕を巻きつけてきた。

俺は確信した。キチガイ女だ。

「お前が何故こんなことをするのか、今はもうどうでもいい。俺はお前から逃げることばかりを考えてきた。本当に怖かった。でも、俺はもう一人じゃない。親友が出来た。もう、お前は怖くない」

キチガイ女は、強く俺を抱きしめた。

「一緒に居たい……」

俺は頭を横に振った。

「俺は生きている。お前は死んでいる。この差は絶対に埋まらない。お前にはお前の欲望があるのかもしれない。俺はそれに応える訳にはいかない。俺は生きたいんだ」

俺とキチガイ女の間に静寂が流れる。

キチガイ女は俺に抱きついたまま、静かに泣いていた。

泣いているキチガイ女に、以前のような気味の悪さは無かった。

キチガイ女の声は、前に聞いた声と変わらない。

確かにキチガイ女だった。それでも不思議なくらいに、以前とは印象が違う。

俺は不思議だった。後ろ盾を失って暴れるかと思いきや、キチガイ女は俺に抱きつき、静かに泣いている。

「お前……もしかして……」

俺はそこまで言って言葉を呑んだ。俺にはその先の言葉が言えなかった。

その時、洋館の玄関が静かに開く。

そこにはジョンが居た。

「お兄さん、迎えに来ました」

ジョンはそう言うと階段を昇り、キチガイ女を睨む。

キチガイ女は何もすることなく、俺からゆっくり離れると、ジョンを素通りして階段を静かに降りていった。

階段の下で立ち止ったキチガイ女は、ゆっくりと振り返り俺を見つめた。

女の顔に俺は驚いた。以前のような禍々しさは無く、キレイな顔だった。

今までとは違う、少女のような切なく悲しい表情が、俺の眼に焼き付いた。

女は踵を返し、振り返ることなく玄関の向こう側に消えていった。

「どういうことだ、あの女……」

俺は呟いた。想像した展開とはあまりにも違う幕切れだった。

「あの女の後ろ盾も、あの三人も消えていなくなりました。もう勝ち目は無いと諦めたのでしょう。あの女も、お兄さんの中から完全に消えました。俺たちの勝ちです」

ジョンは、この戦いの勝利宣言をした。しかし、俺の中に歓喜の感情は無かった。

俺を椅子に縛り付けていた拘束具をジョンは外した。

椅子から立ち上がった俺の体は、不思議なくらいに軽かった。

俺とジョンは連れ添い、ゆっくりと階段を降りた。

玄関の先には、眩しい程に光が降り注いでいた。まるで希望の光だ。

俺たちは玄関の向こう側に進んだ。

その時、俺の視界の端に人影が見えた。

振り返ったその先には、俺の良く知る人物が立っていた。

「親父……」

親父は静かに頷くと、本当に優しく微笑んだ。

俺の眼からは止め処も無く涙が溢れた。親父の優しい笑顔に涙が止まらなかった。

俺は親父の前で子供のように号泣した。本当に子供のように……

「お兄さん」

俺はジョンに呼ばれて目覚めた。

地上20階に位置する豪華なホテルの部屋。俺たちは戻ってきた。

「ああ……、長いこと悪い夢を見ていた気分だ。でも……最後は良かったよ……ジョン、ありがとうな」

「いえ、俺だけじゃありません。社長や親父さんも頑張りました。勿論、お兄さんも。あの囮作戦の時、お兄さんは敵の手から逃れる為に、ビルから飛び降りましたよね。現実じゃないと分かっていても、あんなことを普通は出来ません。しかも、敵の本丸に向かって啖呵まで切って。そのお兄さんの勇気があればこそですよ」

「いや、俺は……」

そう言って俺は黙り込んだ。俺は一人だったら、とっくに死んでいた。

そして、今も情けないことを考えていた。

「なあ、ジョン。あの女のことなんだが……」

ジョンは俺にコーヒーを差し出した。

「言いたいことは判ります。最後に俺もあの女に侵入しましたから……でも、気にしないで下さい。全部、終わったんです」

俺はコーヒーを飲みながら、窓の外に広がる夜景を眺めた。

切ない思いを振り切るように、俺は夜景を眼に焼き付けた。

顛末

その後、俺は安堵からか高熱を出し、病院に緊急入院した。

三日間程高熱に苦しんだ後、俺は奇跡的な回復を遂げ、折れていた左腕の骨も、医者が眼を丸くする程の速さで回復した。

最悪だった体調も完全に復調し、俺は以前の健康な体を取り戻した。

入院中、ジョンが何度も見舞いに来てくれた。こいつは本当に良い奴だ。

最悪と言える騒動の中で、ジョンと出会えたことだけは神に感謝したい。

後日、俺は改めて社長にお礼を言いに行った。

相変わらずのヒステリックぶりで、俺が感謝の言葉を述べると、「感謝の言葉より感謝の金をよこせ!」と言ってきた。

ある意味予想通りだったので問題はない。

それから社長に、「絶対に父親の墓参りに行けよ」と言われた。

俺は久しぶりに、家族揃って親父の墓参りに行った。

久しぶりに来た親父の墓は、土埃で汚れていた。

俺は予め用意していた掃除用具を取り出し、念入りに親父の墓を磨いた。

「家族を助けてくれてありがとう。守ってくれてありがとう」

そんな気持ちを込めて念入りに磨いた。

母も姉も必死に墓を磨く俺を眺めて、何故そんなに一生懸命に磨くのかと不思議そうにしていた。

俺は母と姉の二人にも掃除道具を渡し、墓磨きに協力してもらった。

心なしか、親父の笑い声が聞こえた気がした。

その後、俺たちは家族でレストランに入った。

久しぶりの家族団欒だった。

食後に俺はトイレに入った。入り口を開け、トイレの中に入る。

そこはビルの屋上だった。

驚いた俺は周囲を見渡す。

俺の視線の先には、あの騒動の本丸の男が、フェンスに寄りかかりながらタバコを咥えていた。

「よお」

気軽な挨拶をすると男は俺に近づく。

「俺に近付くんじゃねぇ!!」

俺は怒鳴った。

「はは、怖いねぇ。そんなに怒鳴るなよ。なにも危害を加える気はねぇよ」

男は尚も俺に近づく。

「なんのつもりだ!?いったい、何しに来た!?」

怒鳴る俺を無視して、男は俺の眼前に立つと、思いがけない言葉を発した。

「事の顛末を知りたくないか?」

「事の顛末だと?」

男は俺を嘲るように微笑んだ。

「心配するな。あのオカマ社長の許可は取ってあるよ」

男は俺の胸に拳を当てた。

すると男の拳は何の手応えも無く、俺の体をすり抜けた。

「ほらな。俺からお前に何かすることは出来ないんだよ。あのオカマにお前は完全にガードされているし、俺もあのオカマに能力の根源を握られている。今の俺は、オカマに金玉抜かれた腑抜けなんだよ」

俺は後ずさりをした。

「俺に何を聞かせたい?」

男はどこからか椅子を取り出し、腰掛けた。

「さっきも言ったろ?事の顛末さ。どうして俺と妹がお前を狙ったのか。何故、殺そうとしたのか。お前には聞く権利があるんだよ」

確証は無かったが、男に害意はないように思えた。

確かに俺も、この騒動の動機と理由が知りたい。

俺の心にある霧の正体が知りたかった。

「分かった。なら聞かせてくれ。事の顛末を」

「そうこなくちゃな。わざわざ、来た甲斐が無い」

そう言うと男は、タバコを地面に捨て足で揉み消した。

「初めにお前に出会ったのは、お前がバイクで小樽に来たときだ。確かツーリングだっけ?お前はそれをやりに来たんだ。俺はたまたま小樽に用が有って来ていた。その時、妹の奈々子がお前に目をつけたんだ。何故なら、お前が奈々子にとって羨ましい存在だったからだ。まるで光に群がる虫のように、奈々子はお前に惹き寄せられた」

俺は困惑した。

「何故俺なんだ?俺の何が羨ましかったんだ?」

「お前の中に、温かい家族の繋がりが見えたのさ。それが奈々子には、心底羨ましかった。俺たちの家族はな、言っちゃ何だが、クソの肥溜めそのものだった。特に奈々子は生前、そうとうあのクソ親父に責められた。口に出すのもおぞましいぜ。実の父親が娘を性の対象にするなんてよ。しかも親父は極端なサドでよ。ひでぇもんだった。だが、俺も人のことは言えねぇ。苦しむ妹を、見て見ないふりしたんだからな。母親はとっくの昔に死んで居なかった。だから妹にとっちゃ、俺は唯一の頼りだったんだ。それを俺は見捨てた。面倒臭かったんだよ、正直言って。俺にはどうでもいいことだった。奈々子にとっては絶望的だったろうよ。アイツは一人で警察に行き、助けを求めた」

「ちょ、ちょっと待ってくれ!」

俺は男の話を遮った。

「気持ち悪くなったか?そうだろうな。クソの肥溜めの話だ。無理も無い」

男はポケットからタバコを取り出し、口に咥えた。

さっきまで人を嘲るように笑っていた男の顔は、深海のような冷たい表情だった。

話の内容よりも俺は、この男の表情に恐怖を感じていた。

「いいか?続けるぜ?」

俺は無言で頷いた。なるべく男の顔を見ないように気を付けた。

「奈々子は警察に助けを求めたが、全て無視された。親父はクソだが、精神科医としてはエリートだった。警察にも協力していたし、署の幹部とも仲が良かった。奈々子は対応した警察官に、人格ごと全てを否定されて追い返されたんだよ。更に絶望した奈々子は、遂に精神を病んで、精神病院に入院した。しかも、親父の病院にな。そこでも奈々子は酷い扱いを受けた。警察に訴えた奈々子を、親父は許さなかった。奈々子の担当の看護師に言いつけて、奈々子を毎日のように暴行させた。信じられるか?それをやらしたのが実の父親なんだぜ?そして奈々子は自殺した。どこからか持って来たロープで首を吊ってな。そこで俺は初めて泣いたよ」

黙って俺は男の話を聞いていた。

男の家族と俺の家族。まるで正反対の家族だった。

「奈々子は自殺した後、この世を彷徨い、俺の所に来た。奈々子には才能はあったが、俺のような能力はなかった。だから、俺に復讐の話を持ちかけたんだ。俺に協力しろってな。勿論、それを俺は断ることも出来た。だが俺は、奈々子が死んでから初めて気付いた感情に逆らえなかった。俺は奈々子を愛していた。自分勝手な話だがな」

「俺は奈々子に協力し、親父と警察官、それと看護師を殺した。俺はそれで奈々子が満足すると思っていた。だがそれは違った。俺は霊というものに対する知識を、中途半端に持っていたに過ぎない。どんなに復讐を遂げても、奈々子はもう死んでいる。俺の目の前に居る悪霊と化した奈々子は、奈々子であって奈々子じゃない。ただの情念の塊だ。情念の塊が満足して消えることなんて絶対に無い。俺は落胆したよ。親父も含めて三人も殺したのに、ただ奈々子の形をした悪霊が増大しただけだった。そんな時にお前が現れた。ただの復讐の情念の塊だったはずの奈々子が、お前に魅かれた。俺にとっては驚きだったよ。もしかしたら、と変な希望まで持っちまった。だが、奈々子は死んでいる。普通の生き人とは一緒に居られない」

「それで俺を殺そうと思ったのか?ふざけるな」

「ああ、今思えば愚かもいい所だ。だが、俺にとっては希望だった。お前と居れば、奈々子は奈々子として戻れるんじゃないか、とな」

男の話に俺は納得がいかなかった。

「ただ殺すだけなら、お前には何時でも俺を殺すことは出来たはずだ。何故すぐにやらなかった?何故あんな回りくどいことをする?」

俺は男に問いただした。男の表情に変化はない。

「単純にすぐに殺しても、霊はこの世に留まらない。すぐに消えてしまう。苦しめて、追い詰めて、不条理を与えることで、霊はこの世に強い情念を残し、長く留まる。お前には未来永劫、奈々子と一緒に居て欲しかった」

男の言葉に、俺は全身が震えた。

「北海道から帰ったお前は交通事故を起こし、重症を負った。あれも俺の仕業だ。お前の会社の人事部長の脳に侵入して、解雇通知を書かせたのも俺だ。左腕の骨折だけ治りが遅かっただろ?あれも俺だ。その他諸々。お前には色々、仕掛けたな」

俺は震える拳を押さえた。

「殴っても良いんだぜ?そこで我慢するのは、元サラリーマンの悲しい性か?」

俺は男の左頬を全力で殴った。男は椅子から転げ落ち、地面に平伏した。

「まあ、一発くらいは殴らせないとな……」

男はそう言うと椅子を元の位置に戻し、再び腰掛けた。

俺は怒りで全身が熱くなっていた。

「落ち着けってのは無理な話かもしれないが、話は最後まで聞け。俺はお前に感謝しているんだ」

「感謝だと!?」

「最後にお前が奈々子と一緒に居たときの話だ。あの時、俺はオカマの部下に押さえつけられ、床に平伏していた。事の終わりを見届けろとオカマに言われ、俺はお前たちを見ていた。あの時……、俺は眼前の光景に我が眼を疑った。俺は奇跡を見ていた。ただの復讐の情念の塊だった奈々子は、そこには居なかった。お前も見ただろ?あの奈々子が本当の奈々子だ。生前の頃の奈々子だったんだ。アイツはただのか弱い女だった。あれが本当の奈々子の姿だったんだ。俺は泣いた。奇跡を前に、俺は子供のように泣く事しか出来なかった。最初は光に群がる虫のように、奈々子はお前に魅かれただけだった。それが何時しか、本当にお前のことを好きになっちまっていたんだ」

俺は震える拳を降ろし、黙り込んだ。

「お前も薄々気付いていたんじゃないか?」

そう言う男の顔からは、深海のような冷たさが消えていた。

最後に見たあの女の顔を、俺は思い出していた。

気が付くと、俺の眼からは涙が流れていた。

「泣いてくれるのか?」

男はそう言うと静かに俯いた。

「お前は優しい男だな。あんな事をした奈々子のために泣いてくれるなんてよ。お前は本当にしぶとい奴だった。俺はお前の勇気に驚かされ続けたよ。そして、家族の愛情に恵まれた、優しい男だ。今なら奈々子の気持ちが俺にも判る。俺たちは愛情に飢えていた。本当にお前が羨ましい。奈々子は生前、誰かを好きになることなんて一度もなかった。こんな形じゃなく、奈々子が生きている間にお前と出会えていたら……お前のように俺にも勇気があれば、こんなことにはならなかった」

俺は泣いた。あの女を思い、泣いていた。

あの女は敵だ。あの女が俺に何をしたのかは忘れない。

それでも、俺の眼から流れる涙は止まらなかった。

男は椅子から立ち上がると、天を仰いだ。

「俺も奈々子も、散々人を苦しめた。天国には行けねぇ。奈々子も地獄に落ちたよ。アイツは生まれ変わっても、また辛い人生を送る。でもよ……、もし、お前がアイツに再び出会ったなら……その時は……」

男は踵を返し、背を向ける。

「……自分勝手にも程があるか……」

男は静かにうなだれる。

その背中には、悲しみが色濃く映し出されていた。

俺は事の顛末を知った。俺には泣くことしか出来なかった。

男とあの女の悲しい過去。俺の知らない家族の話。

全てが俺の胸に突き刺さり、涙を溢れさせていた。

俺はただただ悲しかった。

「じゃあな」

男はそう言うと、俺から離れていく。

「これから、お前はどうする気なんだ?」

俺の問いに男は足を止める。

「俺には初めから守護霊なんてものはいない。自分の身は自分で守ってきた。だが、俺はもう能力を封印する。俺がお前を苦しめたように、今度は俺が苦しむ。もう、お前とは会うこともねぇ。俺の行き着く先は妹や親父と同じ所さ」

そう言うと男は、俺の目の前から消えた。

俺はレストランのトイレに戻ってきていた。

トイレの洗面所で泣き腫らした顔を洗った。

俺はあの男の言葉を思い出していた。

『俺の行き着く先は妹や親父と同じ所さ』

あの家族に救いは訪れないのだろうか。

一度人は道を外すと、元には戻れないのだろうか。

俺は世の無常を感じていた。

トイレから出た俺は、家族の待つテーブルに帰ってきた。

幸せな光景。あの家族は、この光景を一度も見たことは無いのだろうか。

俺の胸は切なさでいっぱいだった。

「ちょっとぉ、なにボーとしてるのよ」

姉の声に俺は我に返る。

「ああ、悪い。ちょっと考え事しててさ」

「さっきから、あんたの携帯、鳴りっ放しだったよ。なんか、出ても悪いかなぁと思って放置してたけど」

俺は自分の携帯を見た。確かに5件も着信履歴が在る。

相手はジョンの携帯だった。

何の用だろうか。俺はリダイヤルした。

「もしもし。お兄さんですか?」

「ああ、なんだ、ジョン?何回も着信履歴が入っていたけど、急ぎの用事か?」

「いやぁ、俺がお兄さんに対して、急ぎの用事って訳じゃないんですけどね。社長が今すぐ事務所に来いって」

「社長が!?」

俺は携帯を切ると家族に謝り、レストランを飛び出した。

社長を待たせること程怖いことは無い。

全力で走り抜け、俺は社長の待つ探偵事務所に辿り着いた。

「ご……御用件は……はぁ……はぁ……なんですか、社長……はぁ……はぁ」

社長はタバコを灰皿に押し付けた。

「はぁはぁ気持ちが悪い!先ず呼吸を整えろ馬鹿!」

俺の目の前に一杯の水が差し出された。

「お兄さん、飲んでください」

ジョンだった。

「ああ……、ありがとう。ジョン」

ジョンは優しく微笑んだ。

ジョンのくれた水を俺は一気に飲み干し、呼吸を整えた。

「良いか?とりあえず、この書類に眼を通せ」

社長の差し出した書類を俺は見た。

そこには『内定通知書』と書かれていた。

「これは……、なんですか、社長?」

俺は唐突な書類の内容に戸惑った。

「見て判らないか?お前を我が社に採用すると言っているのだ。お前は未だに無職なのだろう?私がお前を雇ってやる」

社長の言葉に驚いた俺はジョンの顔を見る。

ジョンは笑顔でサムズアップをしていた。

「え!?いや、嬉しい!けど……ど、どういうことですか、社長?突然で……」

「戸惑っているのか?」

社長は妖しく微笑む。

「実を言うとな。お前の敵だった、あの男に頼まれたのだ」

「あの男に!?」

俺は驚いた。あの男が社長に頼みごとを?

「私も驚いたよ。我が社の口座にいきなり1000万円も振り込んで、お前を雇ってくれと頼み込んできた。せめてもの罪滅ぼしとでも思ったのか。それともお前が気に入ったのか。1000万円もあれば、どんなペーペーでも一流に育つ。私は快諾したよ。その気持ちを受け取るかどうかは、お前次第だがな」

俺は迷うことなく、「御願いします」と言い頭を下げた。

「お前には霊能の才能が欠片しかないから、探偵として雇うことになる。言っとくが、甘くは無いぞ。覚悟しておけよ?」

そう言うと社長は微笑んだ。ジョンも笑っていた。

俺は探偵として生きていくことを決めた。

俺の物語はここで終わる。

探偵として歩み始めた俺には、様々な出来事が起きる。

でも、それはクライアントの物語。守秘義務の関係上、これ以上は書けない。

あの騒動で俺は強くなった気がする。

今でも時折、あの女のことを思い出す。

あの女は、今もどこかで苦しんでいるのだろうか?

もし、再びアイツと出会ったなら……俺はその時……

アイツを助けてやりたいと思う。

(了)

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