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霧に消えた影

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七年前、私が勤めていた会社が倒産し、就職難の中で運転手に転身した時のこと。

最初は小さい2トン車での仕事だったが、運転手に転身して一年も経つと4トン車に乗るようになり、県内だけでなく県外にも足を延ばすようになった。

五年ほど前の雨の夜、隣県から帰るために県境の峠道を走っていたときのことだ。尿意を覚えた私は、山頂の少し手前の広い場所にトラックを停めて用を足した。雨は小雨程度だったが、霧が出ていて、交通量もまばらな峠道にいつになく嫌な雰囲気を感じた。

しかし、用を足してスッキリした私はトラックに戻ろうと振り向くと、助手席側に人が立っているのに気がついた。一瞬身を固くする。こんな真夜中に峠で人が?恐る恐る観察すると、その人影は若い女性だった。

彼女は肩までくらいの髪をしており、どこかの会社の制服らしき衣類がすべて雨で濡れていた。思わず声をかけようとした私より先に、彼女が言葉を発した。「峠を降りたところまで乗せてください」と小さくか細い声で言った。しかし、その声ははっきりと聞き取れるものだった。

女の申し出に、一瞬よく耳にする様々な怪談話を思い出したが、その女の何とも哀しそうな顔への同情が恐怖を上回った。「いいですよ、どうぞ。」そう言って助手席のドアを開けてやり、女に乗るように促した。

ステップを踏み手摺りに手をかけて女が乗り込む時、ふと彼女の足元を見て、やっぱりなと感づいた。助手席側や運転席側のドアを開けると室内灯が点くようにしてあったが、光があたれば物体は必ず影を残すはずなのに、彼女には影がなかった。だが、不思議と恐怖を感じないままに、彼女が助手席に座るとそっとドアを閉め、運転席へと乗り込み車を走らせた。

車を走らせながら、私は彼女の横顔をちらちらと横目で伺った。

最初と変わらない寂しげな横顔のまま、言葉もなくただ俯き加減に座っている。意を決して私は彼女に、独り言のように話しかけた。「悲しいこととか色々あったりしましたか?辛いこと、悲しいこと、何があったのか僕には分かりませんけど、こんな所に居ては駄目です。行くべき所があなたにはあるんじゃないですか?僕にはしてあげられない事かもしれませんが。」

彼女は反応を見せなかった。この峠を下り、彼女の望む所までにはまだ二十分はかかる。その間も私は構わず一方的な会話を続けた。「そこにはあなたの何かがあるのかな?そこに行ってその後どうするんですか?またあの峠に戻ってしまうのですか?繰り返しては駄目だと思います。次へ進まないと。」

彼女はただ俯いたまま黙っている。聞いているのかさえ分からないまま、私は話しかけ続け、ようやく峠を下った。突然彼女は前方を指差し、「あそこで」とだけ言った。

何の変哲もない住宅街への交差点だった。私はハザードランプを点けトラックを停めると、彼女の方を見た。「ありがとうございました。」微かに聞こえる声だけ残して彼女は消えてしまった。そしてもう一言、どこからともなく聞こえた「行きます」の声に、私は安堵のため息を吐き出し、再び車を走らせ無事に会社に帰った。

後日、私はあの峠で起きた事件を同僚から聞いた。

十年前、情事のもつれから当時二十二歳の女性が絞殺され、死体が遺棄されていたのだという。当時の彼女が住んでいた町こそ、私が彼女を降ろした住宅街だったそうだ。

その後、あの峠で彼女を見ることもなく、私は三年前に子供をもうけ幸せに暮らしていた。生まれた女の子も大きな病気や怪我もなく明るい元気な子で、私は溺愛し、娘も父親を慕っていた。

そして今年、峠の彼女のことも記憶から忘れていた私は、再び彼女と再会する。九月の半ば、夜中に目を覚ました私は喉の渇きを覚え、台所で茶を飲み寝室に戻った時だった。妻の横で寝ている愛娘が、布団から飛び出して寝ていた。

なんて寝相だと苦笑しながら娘を布団に戻したその時、娘が眠ったまま私の手を握り、「ありがとう、あなたがあの時助けてくれたから私は今生きています。本当にありがとう」と言った。彼女の声で、娘の口で。生まれ変わりなのか、娘の口を借りただけなのか分からなかったが、恐怖は感じず、不思議な温もりを覚えた出来事だった。

その後も私は家族と共に平穏に過ごしている。峠の彼女との不思議な邂逅は、私にとって忘れられない出来事となったが、今はただ幸せを感じている。何も不幸は訪れず、平穏な日々が続いている。

この話を通じて、私は人との出会いの不思議さ、そしてその縁がどのように巡り巡ってくるのかを感じるようになった。恐怖を越えて、人の温もりを感じられる経験をしたことに、深い感謝を覚えている。

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