短編 岡本綺堂

【岡本綺堂 傑作選】異妖編(一)新牡丹燈記

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異妖編

(一) 新牡丹燈記

剪燈新話のうちの牡丹燈記を翻案した、かの山東京伝の浮牡丹全伝や、三遊亭円朝の怪談牡丹燈籠や、それらはいずれも有名なものになっているが、それらとはまたすこし違ってこんな話が伝えられている。

嘉永初年のことである。四谷塩町の亀田屋という油屋の女房が熊吉という小僧をつれて、市ヶ谷の合羽坂下を通った。それは七月十二日の夜の四つ半(午後十一時)に近いころで、今夜はここらの組屋敷や商人店を相手に小さい草市が開かれていたのであるが、山の手のことであるから月桂寺の四つの鐘を合図に、それらの商人もみな店をしまって帰って、路ばたには売れのこりの草の葉などが散っていた。
「よく後片付けをして行かないんだね。」

こんなことを言いながら、女房は小僧に持たせた提灯の火をたよりに暗い夜路をたどって行った。町家の女房がさびしい夜ふけに、どうしてここらを歩いているかというと、それは親戚に不幸があって、その悔みに行った帰り路であった。本来ならば通夜をすべきであるが、盆前で店の方も忙しいので、いわゆる半通夜で四つ過ぎにそこを出て来たのである。月のない暗い空で、初秋の夜ふけの風がひやひやと肌にしみるので、女房は薄い着物の袖をかきあわせながら路を急いだ。

一時か半時前までは土地相応に賑わっていたらしい草市のあとも、人ひとり通らないほどに静まっていた。女房がいう通り、市商人は碌々に後片付けをして行かないとみえて、そこらにはしおれた鼠尾草や、破れた蓮の葉などが穢ならしく散っていた。唐もろこしの殻や西瓜の皮なども転がっていた。その狼藉たるなかを踏みわけて、ふたりは足を早めてくると、三、四間さきに盆燈籠のかげを見た。それは普通の形の白い切子燈籠で、別に不思議もないのであるが、それが往来のほとんどまん中で、しかも土の上に据えられてあるように見えたのが、このふたりの注意をひいた。
「熊吉。御覧よ。燈籠はどうしたんだろう。おかしいじゃないか。」と、女房は小声で言った。

小僧も立ちどまった。
「誰かが落して行ったんですかしら。」

落し物もいろいろあるが、切子燈籠を往来のまん中に落して行くのは少しおかしいと女房は思った。小僧は持っている提灯をかざして、その燈籠の正体をたしかに見届けようとすると、今まで白くみえた燈籠がだんだんに薄あかくなった。さながらそれに灯がはいったように思われるのである。そうして、その白い尾を夜風に軽くなびかせながら、地の上からふわふわと舞いあがっていくらしい。女房は冷たい水を浴びせられたような心持になって、思わず小僧の手をしっかりと掴んだ。
「ねえ、お前。どうしたんだろうね。」
「どうしたんでしょう。」

熊吉も息を呑み込んで、怪しい切子燈籠の影をじっと見つめていると、それは余り高くも揚がらなかった。せいぜいが地面から三、四尺ほどのところを高く低くゆらめいて、前に行くかと思うと又あとの方へ戻ってくる。ちょっと見ると風に吹かれて漂っているようにも思われるが、かりにも盆燈籠ほどのものが風に吹かれて空中を舞いあるく筈もない。ことに薄あかるくみえるのも不思議である。何かのたましいがこの燈籠に宿っているのではないかと思うと、女房はいよいよ不気味になった。

今夜は盂蘭盆の草市で、夜ももう更けている。しかも今まで新ぼとけの前に通夜をして来た帰り路であるから、女房はなおさら薄気味わるく思った。両側の店屋はどこも大戸をおろしているので、いざという場合にも駈け込むところがない。かれはそこに立竦んでしまった。
「人魂かしら。」と、かれはまたささやいた。
「そうですねえ。」と、熊吉も考えていた。
「いっそ引っ返そうかねえ。」
「あとへ戻るんですか。」
「だって、お前。気味が悪くって行かれないじゃあないか。」

そんな押問答をしているうちに、燈籠の灯は消えたように暗くなった。と思うと、五、六間さきの方へゆらゆらと飛んで行った。
「きっと狐か狸ですよ。畜生!」と、熊吉は罵るように言った。

熊吉はことし十五の前髪であるが、年のわりには柄も大きく、力もある。女房もそれを見込んで今夜の供につれて来たくらいであるから、最初こそは燈籠の不思議を怪しんでいたが、だんだんに度胸がすわって来て、かれはこの不思議を狐か狸のいたずらと決めてしまった。かれは提灯のひかりでそこらを照らしてみて、路ばたに転がっている手頃の石を二つ三つ拾って来た。
「あれ、およしよ。」

あやぶんで制する女房に提灯をあずけて、熊吉は両手にその石を持って、燈籠のゆくえを睨んでいると、それがまたうす明るくなった。そうして、向きを変えてこっちへ舞いもどって来たかと思うと、あたかも火取り虫が火にむかってくるように、女房の持っている提灯を目がけて一直線に飛んで来たので、女房はきゃっといって提灯を投げ出して逃げた。
「畜生!」

熊吉はその燈籠に石をたたきつけた。慌てたので、第一の石は空を打ったが、つづいて投げつけた第二の礫は燈籠の真っ唯中にあたって、確かに手ごたえがしたように思うと、燈籠の影は吹き消したように闇のなかに隠れてしまった。そのあいだに、女房は右側の店屋の大戸を一生懸命に叩いた。かれはもう怖くてたまらないので、どこでも構わずにたたき起して、当座の救いを求めようとしたのであった。一旦消えた燈籠は再びどこからか現れて、あたかも女房が叩いている店のなかへ消えていくように見えたので、かれはまたきゃっと叫んで倒れた。

叩かれた家では容易に起きて来なかったが、その音におどろかされて隣りの家から四十前後の男が半裸体のような寝巻姿で出て来た。かれは熊吉と一緒になって、倒れている女房を介抱しながら自分の家へ連れ込んだ。その店は小さい煙草屋であった。気絶こそしないが、女房はもう真っ蒼になって動悸のする胸を苦しそうに抱えているので、亭主の男は家内の物を呼び起して、女房に水を飲ませたりした。ようやく正気にかえった女房と小僧から今夜の出来事をきかされて、煙草屋の亭主も眉をよせた。
「その燈籠はまったく隣りの家へはいりましたかえ。」

たしかにはいったと二人が言うと、亭主はいよいよ顔をしかめた。その娘らしい十七八の若い女も顔の色を変えた。
「なるほど、そうかも知れません。」と、亭主はやがて言い出した。「それはきっと隣りの娘ですよ。」

女房はまた驚かされた。かれは身を固くして相手の顔を見つめていると、亭主は小声で語った。
「隣りの家は小間物屋で、主人は六年ほど前に死にまして、今では後家の女あるじで、小僧ひとりと女中一人、小体に暮らしてはいますけれど、ほかに家作なども持っていて、なかなか内福だということです。ところが、お貞さんというひとり娘……ことし十八で、わたしの家の娘とも子供のときからの遊び友達で、容貌も悪くなし、人柄も悪くない娘なのですが、半年ほど前にもこんなことがありました。

なんでも正月の暗い晩でしたが、やはり夜ふけに隣りの戸を叩く音がきこえる、わたしは眼ざといもんですから、何事かと思って起きて出ると、侍らしい人が隣りのおかみさんを呼出して何か話しているようでしたが、やがてそのまま立去ってしまったので、わたしもそのままに寝てしまいました。すると、あくる日になって、となりのお貞さんが家の娘にこんなことを話したそうです。わたしはゆうべぐらい怖かったことはない。なんでも暗いお堀端のようなところを歩いていると、ひとりのお侍が出て来て、いきなり刀をぬいて斬りつけようとする。逃げても、逃げても、追っかけてくる。それでも一生懸命に家まで逃げて帰って、表口から転げるように駈け込んで、まあよかったと思うと夢がさめた。そんなら夢であったのか。どうしてこんな怖い夢を見たのかと思う途端に、表の戸を叩く音がきこえて、おっ母さんが出てみると、表には一人のお侍が立っていて、その人のいうには、今ここへくる途中で往来のまん中に火の玉のようなものが転げあるいているのを見た……。」

聞いている女房はまたも胸の動悸が高くなった。亭主は一と息ついてまた話し出した。
「そこでそのお侍は、きっと狐か狸がおれを化かすに相違ないと思って、刀を抜いて追いまわしているうちに、その火の玉は宙を飛んでここの家へはいった。ほんとうの火の玉か、化物か、それは勿論判らないが、なにしろここの家へ飛び込んだのを確かに見届けたから、念のために断って置くとかいうのだそうです。となりの家でも気味悪がって、すぐにそこらを検めてみだが、別に怪しい様子もないので、お侍にそう言うと、その人も安心した様子で、それならばいいと言って帰った。お貞さんも奥でその話を聞いていたので、寝床から抜出してそっと表をのぞいてみると、店先に立っている人は自分がたった今、夢の中で追いまわされた侍そのままなので、思わず声をあげたくらいに驚いたそうです。

お貞さんは家の娘にその話をして、これがほんとうの正夢というのか、なにしろ生れてからあんなに怖い思いをしたことはなかったと言ったそうですが、お貞さんよりも、それを聞いた者の方が一倍気味が悪くなりました。その火の玉というのは一体なんでしょう。お貞さんが眠っているあいだに、その魂が自然にぬけ出して行ったのでしょうか。その以来、家の娘はなんだか怖いといって、お貞さんとはなるたけ附合わないようにしているくらいです。そういうわけですから、今夜の盆燈籠もやっぱりお貞さんかも知れませんね。小僧さんが石をぶつけたというから、お貞さんの家の盆燈籠が破れてでもいるか、それともお貞さんのからだに何か傷でもついているか、あしたになったらそれとなく探ってみましょう。」

こんな話を聞かされて、女房もいよいよ怖くなったが、まさかに、ここの家に泊めてもらうわけにもいかないので、亭主にはあつく礼をいって、怖々ながらここを出た。家へ帰り着くまでに再び火の玉にも盆燈籠にも出逢わなかったが、かれの着物は冷汗でしぼるようにぬれていた。

それから二、三日後に、亀田屋の女房はここを通って、このあいだの礼ながらに煙草屋の店へ立寄ると、亭主は小声で言った。
「まったく相違ありません。隣りの家の切子は、石でも当ったように破れていて、誰がこんないたずらをしたんだろうと、おかみさんが言っていたそうです。お貞さんには別に変ったこともないようで、さっきまで店に出ていました。なにしろ不思議なこともあるもんですよ。」
「不思議ですねえ。」と、女房もただ溜息をつくばかりであった。

この奇怪な物語はこれぎりで、お貞という娘はその後どうしたか、それは何にも伝わっていない。

(完)

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