若い頃の顧問が一人で中国山地を歩いたときの話だ。
昔は村や集落が点在していたが、今では地図から消えた名前ばかりになった山域で、彼は廃村の痕跡を写真に残すつもりだった。古い地図と新しい地図を突き合わせ、消えた集落の位置に目星をつけ、獣道のような踏み跡を辿っていった。
しばらく進むと、道とも言えない草分けの先に、唐突に開けた場所が現れた。そこには古い立て札が立っていて、顧問が探していた廃村の名前と距離が、はっきりと書かれていた。風雨に晒されたにしては文字が妙にくっきりしていたという。
もう少しだと思い、その方向へ進むと、雑草に覆われていた道が次第に踏み固められ、砂利まで敷かれたような状態に変わっていった。まるで誰かが最近になって手を入れたかのようだった。山奥でそんなはずはないと頭では分かっていたが、足は自然と前に出た。
やがて視界の先に家並みが見えた。瓦屋根の家、物置、畑の跡。電柱まで立っている。廃村どころか、今も人が暮らしていそうな村だった。地図には載っていないはずなのに、現実のほうが地図を否定していた。
村に入ると、生活の気配は濃厚だった。干し竿があり、農具が立てかけられ、畑には最近まで人が入ったような跡がある。それなのに、人影だけがなかった。日曜日の昼前だというのに、誰一人として姿を見せない。風の音と、自分の足音だけが村を満たしていた。
顧問は村を見下ろせる場所なら誰か見えるだろうと考え、地図に記されていた高台の神社へ向かった。村外れの石段を登り、境内に足を踏み入れた瞬間、視界の端に人影が立っているのに気づいた。
小学校低学年ほどの女の子だった。
安堵する間もなく、女の子のほうから声をかけてきた。
「おまえ、外の人間か」
妙に年寄りじみた口調だった。顧問が町から来たこと、この村を見に来たことを告げると、女の子は一度だけ頷き、はっきりと言った。
「ここは廃村だ。すぐ帰れ。昼になると大人が帰ってくる。そうなったら、おまえは帰れん」
意味が分からず問い返すと、女の子はそれ以上説明しなかった。ただ、神社の裏に続く細い道を指し示し、そこから戻れと繰り返した。その表情は子供のものではなく、焦りと諦めが混じったような硬さがあったという。
促されるまま裏道に入ると、先ほどまで整っていた道は急に荒れ、木の根が露出し、下り坂が続いた。振り返っても村も神社も見えない。ただの山道だった。
気づけば、最初に踏み込んだ獣道の入口に戻っていた。時間を確認すると、山に入ってからほとんど経っていなかった。麓に下りたとき、さきほどまで見ていたはずの村の位置を振り返っても、そこには山肌しかなかった。
後日、顧問はその村を調べた。記録上、その集落は昭和の半ばに完全に廃村となり、以後人は住んでいないことになっていた。神社も、参道も、最後の記録以降は存在しない。
それでも顧問は廃村巡りをやめなかった。
理由を尋ねると、彼は笑いもせずに言った。
「山中異界って言うじゃろ。あれは珍しい話じゃない。山に入る以上、誰でも一度は踏み込む」
その言い方は、過去形ではなかった。今もどこかで、同じ昼が続いているような口ぶりだった。
[出典:146 :元登山者:2007/02/17(土) 17:29:08 ID:JkiOv8vj0]