夜は、底から静かに満ちてくる。
嫁が夜勤でいない週末だった。
車で出て、代行で帰る。それだけの話だった。
二軒目に入ったのは、顔なじみのラウンジだ。元はパチンコ屋で知り合った女がやっている。今は新しい男と一緒に店を回しているらしい。噂では本職の幹部だと言われていたが、確かめたことはない。
俺は何本かボトルを入れていたし、行けば顔も通る。
十時半。店は混んでいた。
夏なのに長袖の男が数人、奥のボックスに固まっている。視線を上げた瞬間、空気で分かった。
関わらない。それだけだ。
俺はカウンターで隣の客と飲み始めた。焼酎が進み、酔いが回る。背後で椅子が引かれた音がした。
長袖の連中が立ち上がる。
出ていく。
そのうちの一人が、扉の前で振り返った。
目が合った。
一瞬だが、確実に。
三十分も経たないうちに、入り口が騒がしくなった。従業員の女が俺の前に来る。
「今日は閉めるけ、帰って」
まだ十二時を少し回っただけだ。代行も呼んでいないと言うと、女は首を振った。
「この辺、ガサあるって聞いたけ。早よ閉めたいんよ」
目が笑っていなかった。
理由はそれではないと分かったが、追及する空気ではなかった。
俺は外に出された。
自販機で缶コーヒーを買い、ビルの陰で代行を待つ。
来ない。
三十分。四十分。
ようやく電話がつながる。
「検問で混んどるんですわ」
一時間後、車が来た。
運転手は言った。
「この近くの公園で、刺されたらしいですよ」
検問に差しかかる。
警官がライトを車内に向ける。
「車内、見せてください」
笑っているが、目は動かない。
トランクまで開けさせられた。
帰宅は一時半。
いつもと同じ時刻だった。
翌朝、ニュースを確認する。
何もない。
昼も、夜も、翌日も。
公園での刺傷事件は存在しなかった。
警察署に電話する。
「昨夜、検問ありましたよね」
「していません」
即答だった。
「公園で何か――」
「事件はありません」
否定ではない。空白だった。
二週間後、ラウンジは消えた。
看板も、電話番号も、何も残っていない。
しばらくして、元従業員から連絡が来た。新しい店で働いているという。
あの夜の話を振ると、沈黙が落ちた。
「入り口で話しよった客ね、白いトレーナーやったんよ」
声が低くなる。
「戻ってきたとき、ピンクのマーブルになっとった」
――「これ、ハイターつけとけや」
――「なにしたん」
――「土手っ腹いったった」
女は続ける。
「それで、あんたの方見て言うたんよ」
――「あそこで飲みよる奴、聞いとるな」
――「あいつも片付けるけ」
だから閉めたのだと。
俺は思い出す。
あの振り返った目。
あれは確認だった。
俺が聞いていたかどうか。
検問はなかったと言われた。
事件もなかったと言われた。
店も消えた。
だが俺は、車を止められた。
ライトは眩しかった。
トランクも開けた。
あの検問は、何を探していたのか。
今も時々、あの公園の前を通る。
土手は何も変わらない。
変わっていないのは、俺の方かもしれない。
あの夜、店を追い出されたのは保護だったのか。
それとも、俺を外に出したかっただけなのか。
検問は、俺を守るためだったのか。
それとも、俺を見つけるためだったのか。
あの目が、まだ終わっていない気がする。
[出典:24 2011/06/13(月) 23:19:00.56 ID:oT4cCN6v0]