中学時代の同級生から聞いた話。
小さな町の、古びたコンクリート校舎の中で起こった出来事だという。
雨に濡れた黒板の匂いがまだ残るような、そんな時代の話。
授業中にふと消えるノート。体育のあと気づけばなくなる教科書。廊下で浴びる飛び膝蹴り。
声を上げても、大人たちは信用しなかった。忘れ物が多いと叱責され、平手打ちを受けた。
怒りと屈辱で目の奥が焼けるようだったが、何を言っても「嘘つき」の烙印を押されるだけ。
あの瞬間、目の前に立ちはだかる大人もクラスメイトも、すべてが敵に見えたらしい。
それでも黙っていた。二ヶ月ものあいだ。
消える持ち物を追わず、屋上の給水塔近くに捨てられたノートさえ拾わずに放置した。
「いつか取り返しのつかない瞬間が来る」
そう信じて、ただ耐え続けた。
その日が訪れたのは財布が消えたときだった。
体育の授業の間に消え、教師は取り合わなかった。
だが彼は公衆電話へ走り、警察を呼んだ。
はじめは一人の警官が気怠げに対応しただけだったが、イジメグループの挙動が不自然で、増援が呼ばれた。ロッカーからの指紋採取。校舎内を見回る制服の影。
教室中に走る緊張は、あの瞬間だけ彼の武器だった。
やがて女子トイレの詰まりで、糞尿にまみれた財布が見つかった。
その場に立ち会った警官の顔は朱に染まり、教頭の顔は蒼白に沈んだという。
持ち物を捨てたのは、例のグループに脅された女子生徒だった。
彼が裏拳を誤って当ててしまったあの子だった。
「あなたのこと、嘘つきだって言った」
小さな声で吐かれた告白は、教室を冷たく揺らした。
それからの流れは一気に崩れた。
親が学校に怒鳴り込み、警察が指紋の一致を突きつけ、イジメグループの名は点呼で呼ばれなくなった。八人のうち、次々と自白と謝罪に追い込まれた。
頭を踏まれ、泣き崩れる親子。
土下座の額を尻に敷いたとき、父親から頬を張られた。なぜ止められたのか、その時は理解できなかったらしい。
最後に残った者たちも、証拠と噂と村八分に追いつめられて転居を余儀なくされた。
かつて笑っていた者たちが泣き、逃げ、名前を呼ばれなくなる。
一方で、彼は泣けなかった。
ただ、婦警に抱きしめられた瞬間にだけ、制服に鼻水をこすりつけながら子供のように泣いた。
涙と嗚咽の果てにようやく笑えたとき、妙な高揚感だけが残った。
「もしあのとき、ほんの一歩違えていたら」
彼は今もそう言う。
暴力に走っていたかもしれない。命を奪っていたかもしれない。
だが現実に残ったのは、ただひとつ。
辛い目に遭うと、口元が勝手に緩んでしまう奇妙な癖だった。
それを知ったとき、背筋にひやりとした感触が走った。
もしかすると、この物語に出てくる「彼」そのものが、いま語っている誰かなのかもしれない。
笑いながら。
(了)