舅は、地方の小さな観光バス会社で長年ハンドルを握っている。
観光バスと名は付くが、実際の仕事の大半は観光ではない。葬儀屋から火葬場、寺への送迎。いわゆる葬儀送迎が主な仕事だ。観光シーズン以外はそれがなければ会社が成り立たないと、本人は淡々と話していた。
私は詳しくないが、そういう仕事は、行き先も乗せる人も、どこか空気が違うらしい。舅自身は霊感などまったくなく、幽霊話にも興味がない人間だ。それでも、付き合いのある寺の住職から、冗談とも忠告ともつかない言葉を何度か言われたことがある。
「今日は連れてきているから、気をつけなさいよ」
舅はそれを笑って聞き流していた。何を連れてきているのか、あえて聞き返したこともない。仕事柄、深く考えないほうが楽だと思っていたのだろう。
その日の送迎も、いつもと同じだった。
葬儀場から火葬場を経て、寺へ向かう。乗っているのは遺族と親族。誰も声を張らず、車内は静かだった。エンジン音とタイヤが路面を噛む音だけが、妙に大きく感じられたという。
丁字路を直進していたときのことだ。
舅はいつもの癖で、クラッチを踏み、ギアを切り替えようとした。ところが、ギアが入らない。ニュートラルから動かない。中古車だから、たまに機嫌の悪い日もある。そう思って、もう一度しっかりクラッチを踏み込み、ギアレバーを操作した。
それでも入らない。
「おかしいな」
舅は独り言のように呟いた。焦りはなかったという。ただ、いつも通りの動作が通らない、その感触だけが気になった。
次の瞬間だった。
左側から、一時停止を無視した乗用車が、勢いよく飛び出してきた。もしギアが入っていたら、バスは交差点に進み、正面からぶつかっていた位置だった。
急ブレーキの音。
車内から小さな悲鳴が上がる。
「危なかったな」
「今の、ぶつかってたよ」
乗客たちが口々に言った。舅は何も答えなかった。ただ、ギアに手をかけたまま、しばらくレバーを見ていたという。事故を避けた直後だというのに、胸の高鳴りよりも、奇妙な違和感が先に来ていたらしい。
そのまま目的地の寺に着いた。
拝みが終わり、遺族たちが降りていく。舅が車外に出たところで、住職が何気ない口調で声をかけてきた。
「運転手さん、今日はひとり、乗せてきましたね」
舅は一瞬、意味がわからなかった。
住職は、舅の肩口を見たまま、特に表情も変えずに続けた。
「ずっと、そこにいましたよ」
それ以上は言わなかった。
舅も聞き返さなかった。事故の話も、ギアの話も、しなかった。言葉にした途端、何かが決まってしまう気がしたからだ。
その日以降、舅は仕事を続けている。
ただ、以前よりも、ギアが入らない瞬間が増えたと言う。必ずしも危険な場面ではない。信号待ちの直前だったり、見通しの悪い道に差しかかる手前だったりする。
整備士に見せても、異常は見つからない。
同じ車両でも、他の運転手が乗ると何事もなく走る。
舅は、それを誰にも話さない。
ただ、あの住職の言葉だけは、今でも耳に残っているらしい。
「今日は連れてきている」
誰を。
どこまで。
それが降りたのかどうかは、誰も確認していない。
[出典:12 :可愛い奥様:2009/11/08(日) 21:46:02 ID:cvOCgK/T0]