平成初期、携帯電話が普及する前のことだった。大学のサークル仲間と山奥の「消えた村」へ探検に出かけることになった。寺田が古書店で見つけた郷土史には、村人たちが一夜にして消えた理由が「霊的な災厄」とだけ記されていた。その曖昧な記述に寺田は異様な執着を見せ、「ぜひ確かめたい」と言って譲らなかった。
一緒に行ったのは寺田のほか、無鉄砲な永田、そして冷静で頼りになる中野だ。僕は、彼らの熱意に押される形で参加したが、どこか不安を抱えていた。だが、どこか非日常に足を踏み入れる期待もあった。
車を降り、山道を進むと次第に周囲の空気が変わった。獣道を抜けるころには、木々が不気味にねじれ、昼間のはずの光は森に吸い込まれるように薄れていた。嫌な湿気が肌を覆い、足元の土はまるで冷たく湿った舌のようにぬるりとしていた。
視界が開けた先に廃村が現れた。朽ち果てた家々の間には草が生い茂り、中央には異様な石畳が鎮座していた。円形の石畳は不気味なほどに整然とし、刻まれた文様は複雑に絡み合い、見る者をどこか異世界へ引き込むようだった。
「これが儀式場か……」寺田がそうつぶやいた。
石畳の周囲には、供物らしき古びた壺や割れた器が散らばっていた。風も吹いていないのに、広場には何か目に見えない重さがあった。永田が無神経な笑みを浮かべる。「ここで生贄とかやってたんだろうな」
だがその冗談に笑う者はいなかった。中野が低い声で言う。「どうしてこんな場所に村があったんだ?」
その疑問に答えられる者は誰もいなかった。
夜になり、僕たちは崩れた家の一つに集まった。冷たい風が窓のない隙間を吹き抜ける中、寺田が提案した。「儀式を再現してみないか?」
その言葉に、中野が眉をひそめる。「やめとけ。悪い冗談だ」
だが寺田は興奮したように言葉を続けた。「これだけの場所なんだ。試してみる価値があるだろう?」
永田が興味を示し、僕も流されるように同意してしまった。最終的に中野も渋々ながら折れた。
蝋燭を並べ、粉状の石灰を撒き、寺田が古書に従って呪文を唱え始めた。森の静けさが奇妙に耳に響く。その中で寺田の声だけが、森にこだまするように聞こえた。すると突然、遠くから「ザッ、ザッ」という足音がした。
「誰かいるのか?」永田が叫ぶ。返事はない。ただ足音は近づいてくる。
そのときだ。蝋燭の火が一斉に消えた。暗闇が一気に広がり、体温が急激に奪われるような寒気が襲った。
「やめよう、帰ろう」中野がそう言ったが、寺田は首を振った。「途中でやめるほうが危険だ!」
足音は次第に近づき、そして森の奥から白い影が現れた。
白い影は長い衣をまとい、顔は影に隠れて見えない。ただその姿から冷たく重い空気が広がり、僕たちを圧倒していた。僕は体を動かそうとしたが、足が地面に貼りついたように動かない。
「近寄るな!」寺田が叫ぶ。だが影は止まらず、ゆっくりと近づいてきた。
その瞬間、僕の耳元で冷たい囁き声がした。
「お前らも――消えるのか?」
その声に反応するかのように、足元が崩れ始めた。地面が裂け、そこから無数の白い手が這い上がり、僕たちの足を掴もうとする。冷たく骨ばった手が一斉に伸びてきたとき、僕たちは恐怖の叫びをあげ、必死にその場を飛び出した。
森の中をどれだけ走ったのか分からない。廃村から抜け出したはずなのに、目の前の景色は何も変わらない。木々はねじれ、夜の闇が深く僕たちを飲み込んでいく。そして背後から声が響く。
「帰れない」「ここに残れ」
声は低く、どこからともなく聞こえてくる。僕たちはただ前へ走り続けた。空が白み始めたころ、ようやく麓の村に辿り着いた。どうやって廃村から脱出したのか、その記憶はぼんやりとしている。ただ、あの白い影と無数の手が迫った瞬間だけは、今でも鮮明だ。
後日、寺田はぽつりとつぶやいた。「あの儀式場で、何かを解放してしまったのかもしれない」
それ以上は誰も口を開かなかった。あの村で何が起きたのか、儀式が何を引き寄せたのか。その答えは永遠に失われたままだ。
ただ、夜にふと目を閉じると、今でも耳に蘇る声がある。
「お前らも消えるのか――」