土佐の侍で大塚という者があった。
格はお馬廻り位であったらしいが、確かなことは判らない。その大塚は至って殺生好きで、狩猟期になるといつも銃を肩にして出かけていった。某日、ある晴れた秋の午後、大塚は雑木の紅葉した山裾を回ってとある谷へ向かった。薩摩藷(さつまいも)などを植えた切畑が谷の入口に見えていた。大塚はその山畑の間の小径を通って、色づいた雑木に夕陽の燃えついたように見える谷の窪地の方へ向かおうとした。
一匹の灰色の兎が草の中から飛びだして大塚の前を横切って走った。獲物を見つけた大塚は、肩にしていた銃をそそくさと下ろして撃とうとしたが、兎は何処へ行ったかもう見えなかった。大塚は銃を控えて右を見たり左を見たり、また木の下方を透かして見たりしたが、兎はとうとう見つからなかった。
(せっかくの獲物を逃してしまった。何か大きなものを獲りたいぞ)
大塚はこんなことを言いながら歩きだした。彼は今朝早くから谷から谷をあさっていたが、腰の袋に一羽の山鳥を獲っているだけで他に何も獲っていなかったので、何か一、二匹良い獣を獲りたかった。兎は彼の目から離れなかった。彼はもしやその辺りに隠れているのではないかと思い、注意深く歩いた。
大塚は谷の窪地の隅に行き着いた。山畑はそこで終わり、それから勾配のきつい登り坂になる。兎はとてもいないと思い、銃を元の通り肩に掛けて二、三歩進んだ。と、その時、彼の身体は不意に脚下の穴の中へ落ちていった。水の少ないその山畑を作る人の掘ったものであろう、二丈余りある深い山井戸であった。大塚は驚いて薄暗い穴の中を見回した。幸いにしてこぼれ土のために水のある場所は埋まってしまい、わずかに草鞋の端が濡れる程度の水しか湧いていなかった。
(古井戸に落ち込んだぞ、上へ上がらねばならんが、上がれるかしら)
大塚は苔の生えた穴の周囲を注意したが、手掛かりにするような場所は見つからなかった。上の方を見ると穴の入口にうっすらとした陽の光があった。
(とても、あそこまでは出て行けない。それに人家が遠いから、いくら大声を立てたところで、聞きつけてやって来る者もない。こいつは困ったことになった。腰にはまだ一回分の握飯は持っているが、とてもそんなことで命を支えられるはずのものではない。こうなるのも前世の約束ごとだろう。仕方がない、井戸の中で餓死にするのは武士の恥だ、思い切って切腹しよう、餓死することは、武士の恥だ)
大塚は肩にしていた銃を下ろし、土に背をもたせ腕組みして考え込んだ。
(ここで俺がこのまま切腹したとしたなら、家の女房や、子供はどうなるだろう)
彼はもう自殺をするものとして死後のことについて考えていた。考えているうちに何か不意に注意を促されたものがあった。彼は顔をあげて井戸の口の方を見た。井戸の口に赤い顔が見えた。
(誰か覗いているぞ、人が来てくれたか、人が)
赤い顔の周囲には白い毛並みがあった。茶色の二つの眼が光っていた。それは猿であるらしい。
(猿だ。人間なら引き上げてもらえるが、猿では仕方がない)
大塚はがっかりしたように言った。覗いていた赤い顔がきゃっきゃっと二、三回声を立てたかと思うと、もう見えなくなってしまった。
(人間の真似ができると言っても、やっぱり猿は畜生だ)
大塚はまた腕を組んで考え込んだ。彼はまた己の死後のことをそれからそれへと考えていた。その大塚の耳に微かな音が入って来た。井戸の口のあたりで風でも吹いているような、どうどうという音であった。大塚はまた目を開けて井戸の口の方を見た。
一掴みばかりの枝屑がぱらぱらと落ちて来た。大塚は顔を伏せてその塵を目に入れまいとした。枝屑は首筋にも当たって落ちた。大塚はまた目を開けた。一匹の獣が井戸の上を飛び越えた。その影がかすかに入口に射している日の光に綾をなした。二、三枚の枯葉がまたちらちらと落ちて来た。
(初めのは確かに猿であったが、今のは何であろう)
大塚はこう思いながらちょっとまた目をつむって考えた。
(ついすると、猿の群れが集まって来ているかもしれん。薩摩藷でも採りに来ているのだろうが、何しろ猿では助けてもらうことはできんのだ)
大塚はもう自殺するより他に道がないと決心した。決心したものの、なるべくなら犬死はしたくなかった。彼の心の底には何かしら己の危難に陥っているのを知って助けに来てくれる者があるような気がして、刀に手をかけるまでには至らなかった。
(誰か来そうだぞ、誰か助けに来るような気がするぞ)
彼はこんな気持ちでまた上の方に目をやった。綱のようなものが一尺ほど井戸の口から垂れていた。
(不思議なものが見えて来たぞ、何だろう、誰かいるのだろうか)
綱のようなものは三尺近くも垂れて来た。
(確かに綱だ。誰か俺が落ちたことを知って、助けてくれるために、綱を垂れているのだろうか。下がる、下がる、下がって来た)
綱のようなものはもう五、六尺も下がって来た。それは藤葛のような大きな葛であった。葛はもう一丈以上も下へ下がって来た。
(それでは、初めに猿と思った赤い顔は、猿ではなくこのあたりの人であったのか。これで俺は助かった)
大塚は穴の上の方を喜びに満ちた目で見上げた。赤い顔がまた覗いている。それはさっきの顔であったが、赤い目鼻の周囲に白い毛の生えた大猿の顔であった。
(確かに猿だ。人間ではない。では猿がこんなことをしてくれるだろうか。そう言えば、さっき井戸の上を飛び渡った獣は、どうも猿らしかった。では猿の群れが俺がここに落ちたことを知って、助けてくれようとしているのか)
藤葛はもう二丈余りも下がって大塚の頭へ届きそうになって来た。
(猿でも構わん、助けてくれるなら、助けてもらおう。この井戸の中から出してもらおう)
大塚は下ろしてあった銃を肩にかけて藤葛が手頃になるのを待っていた。藤葛は次第に下りて来た。大猿の顔はまだ見えていた。大塚はその藤葛を手にしてその端を帯に差してそれを折り返した。きゃっ、きゃっと猿の鳴き声が聞こえた。それは井戸の口にいる大猿の叫びであった。大塚は手拭を出して二重になった藤葛を縛りつけ、それが済むと両手を藤葛に持ち添えて、引き上げてくれるのを待っていた。
(猿の力で、この身体が上がるだろうか)
大塚は身構えしながら疑っていた。と、藤葛が張りあって来た。やがて彼の身体が宙に浮いた。
(これで俺も助かるらしいぞ。猿に助けられるとは不思議なことだ)
大塚の身体は刻々に上へ上へ上げられた。大塚は一生懸命に藤葛にすがっていた。そうして、二丈余りも上へ上げられて井戸の口に近くなると、その口になった岩に両手を掛けた。そして、一段一段と身体を上へと持ち上げて行った。
数千匹もいるであろう多くの猿が、五、六間先の楢の木の根元に仕掛けた藤葛にすがりついてそれを引っ張っていた。大塚の姿が見えると猿たちは藤葛を捨ててそのあたりへ散らばった。大塚はその数多の猿を見て驚いた。その驚きとともに猿に対する感謝の気持ちを忘れてしまい、猟好きな好奇心が頭をもたげて来た。井戸の口から覗いていたらしい白毛の大猿が、すぐ横手の草の上に座って大塚の方を見ていた。
(あの猿だな、先に覗いていたのは。立派な猿だ。良い猿だ。今日は別に何の猟もなかったが、あの猿なら良いな)
大塚はその大猿に注意を向けた。彼は銃を下ろすとすぐに大猿を狙い、火縄を火のついた状態にした。強い銃声とともに大猿は倒れた。と、猿たちの間に非常な混乱が起き、蜘蛛の子を散らすように八方へ逃げて行った。
残忍な大塚は大恩ある猿を獲物にして家へ帰って来た。帰って来るとその猿を庭の鉤に吊し、手足を洗って明るい行灯の下で暖かな夕食を喫していた。
「今日は大変なことがあった」
大塚は古井戸に落ちた話から、猿に助けられた話を女房や婢に聞かせていた。そして、何かの拍子に行灯の傍を見ると、白い大猿が前足をついて座っていた。
「猿が…」
大塚は鬼魅悪い声を立てて倒れた。大塚はその夜から病気になり、「猿が、猿が」と叫んでいたが、とうとう死んでしまった。この大塚家では代々猿ということを口にしなかった。もしそれを忘れて口にする者があれば、必ず不思議なことがあったと伝えられている。
後日談
その後、大塚の死からしばらくして、彼の家族はその猿の報復にさらされることとなった。ある晩、大塚の娘が寝ていると、何かが彼女の枕元を歩く音で目が覚めた。彼女が目を開けると、白い大猿が彼女をじっと見つめていた。その目は冷たく光り、まるで人間のような怒りを宿していた。
娘は恐怖で声を上げられず、ただ猿の視線に釘付けになっていた。猿は静かに彼女の枕元に座り、その赤い顔を彼女に近づけた。その瞬間、大塚の娘は体がすくみ上がり、全身が凍りつくような感覚に襲われた。猿は何も言わず、ただ彼女を見つめ続けた。
その後、家族の中で奇妙な出来事が頻発するようになった。家の中に置かれた物が勝手に動いたり、夜中に足音が聞こえたりするのは日常茶飯事となった。そして、何よりも不気味だったのは、家族の誰もが同じ夢を見るようになったことだった。その夢には、井戸の中から白い大猿が這い上がってくる様子が描かれており、夢の中でその猿は家族全員に向かって「お前たちを許さない」と低い声で囁くのだった。
やがて、家族はこの異常な状況に耐えられなくなり、祈祷師や霊能者を招いて家を浄めようとした。しかし、どの祈祷師もこの猿の霊を追い払うことができず、むしろその存在はますます強力になっていった。最終的に、家族はこの家を離れる決断をした。しかし、家を離れた先でも、白い大猿の姿は彼らを追い続けた。
ある日、大塚の孫が街の図書館で古い書物を読んでいると、偶然にも「猿の報復」と題された古文書を発見した。その文書には、猿の群れに恩を仇で返した人間がその後どうなったかが記されており、その結末はどれも恐ろしいものであった。大塚の孫は、この文書を読んで初めて、家族が受けている呪いの原因を知った。
大塚の孫は、祖父の行いを謝罪し、猿たちに対して真摯に償うための方法を探し始めた。彼は、猿の霊を鎮めるための儀式を行い、祖父が奪った命を弔うための祠を建てることにした。その儀式は長く困難なものであったが、ついに白い大猿の霊は静かに消え去った。
その後、大塚家には再び平穏が訪れた。家族は二度と猿を傷つけることなく、彼らと共存する道を選んだという。