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【柳田國男】山の人生:23【青空文庫・ゆっくり朗読】

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二三 山男にも人に近づかんとする者あること

山人も南九州の山に住む者が、特に無害でありまた人なつこかったように思われる。山中をさまようて危害の身に及ぶに心づかず、しばしば里の人の仮小屋かりごやを訪問して、それほどまでに怖れ嫌われていることを知らなかったという例は、主として霧島連峯中の山人の特質であった。なお同じ方面の出来事として、水野葉舟君からまた次のような話も教えられた。
日向南那珂ひゅうがみなみなか郡の人身上千蔵君曰く、同君の祖父某、四十年ばかり以前に、山に入って不思議な老人に行逢うたことがある。白髪にして腰から上は裸、腰には帆布ほぬののような物を巻きつけていた。にこにこと笑いながら此方を向いて歩んでくる様子が、いかにも普通の人間とは思われぬ故に、かねて用心のために背に負う手裏剣しゅりけん用の小さい刀のつかに手を掛け、近く来ると打つぞと大きな声でどなったが、老翁は一向に無頓着むとんちゃくで、なお笑いながら傍へ寄ってくるので、だんだん怖ろしくなって引返してげてきた。ところがそれから一月ばかり過ぎてまた同じ山で、村の若者が再び同じ老人に逢った。一羽の雉子きじを見つけて鉄砲のねらいを定め、まさに打ち放そうとするときに、不意に横合よこあいから近よってこの男の右腕を柔かに叩く者があった。振向いて見ればその白髪の老人で、やはりにこにこと笑って立っている。白髪のはしには木の葉などがついていたという。これを見ると怖ろしさのあまり気が遠くなり、鉄砲をげたままで立ちすくんでいたのを、しばらくしてから村の人に見つけられ、正気になってのちにこの話をしたそうだ。眼の迷いとかまぼろしとか、言ってしまうことのできない話で、しかも作り話としては何の曲もなく、かつ二度の実見が一致していた。何かは知らずとにかくにそんな人が、この辺の山には正しくいたのである。

山人が我々を目送したという話もおりおり聞く。そうして甚だ気味の悪いことに、これを解説するのが普通であった。気味の悪くないこともあるまいが、彼らは元来が真の有閑階級だから、じつははっきりとした趣意もなく、ただ眺めていた場合もあったかも知れぬ。ただし少年や女には、これを怖れる理由は十分にあった。前年前田雄三君から聴いた話は、越前丹生にう三方みかた大字杉谷の、勝木袖五郎という近ごろまで達者でいた老人、今から五十余年前に十二三歳で、秋の末に枯木を取りに村の山へ往った。友だちの中に意地の悪い者があって、うそをついて皆は他の林へ往ってしまい、自分一人だけ村の白山神社の片脇の、堂ヶ谷というところで木を拾っているとき、ふと見れば目の前のカナギ(くぬぎ)の樹にもたれて、大男の毛ずねがぬくと見えた。見上げると目の届かぬほどに背が高い。怖ろしいからすぐに引返して、それからほど近い自分の家に戻り、背戸口に立って再び振り返って見ると、その大男はなおもとの場所に立ち、すごい眼をしてじっと此方を見ていたので、その時になって正気を失ってしまったそうである。この堂ヶ谷は宮からも人家からも、至って近い低い山であった。こんなところまで格別の用もないのに、まれには山人が出向いてきて人を見ていたのである。神隠しの風説などの起りやすかったゆえんである。
それから少なくとも我々に対して、常に敵意は持ってはいなかったという証拠もある。小田内通敏おたうちみちとし氏の示された次の一文は、何かの抄録らしいがもとの書物は同氏も知らぬという。津軽での話である。
「中村・沢目・蘆谷あしのや村と云ふは、岩木山のふもと[#「山+卑」、U+5D25、217-8]にして田畑も多からねば、炭を焼き薪をきこりて、活計の一助となす。此里に九助といふ者あり。常の如くおのを携へて山奥に入り、柴立しばだちを踏分け渓水たにみずを越え、二里ばかりものぼりしが、寥廓りょうかくたる平地に出でたり。年頃としごろ此山中を経過すれども、未だ見たること無き処なれば、始めて道に迷ひたることを悟り、かつは山の広大なることを思ひ、歎息してたゝずみしが、※(二の字点、1-2-22)たまたまあたりの谷蔭に人語の聴えしまゝ、其声を知るべに谷を下りて打見やりたるに、身のたけ七八尺ばかりの大男二人、岩根のこけを摘み取る様子なり。背と腰には木葉をつづりたるものをまとひたり。横の方を振向ふりむきたる面構つらがまへは、色黒く眼円く鼻ひしげ蓬頭ほうとうにしてひげ延びたり。其状貌じょうぼう醜怪しゅうかいなるに九助大いに怖れを為し、是やかねて赤倉に住むと聞きしオホヒトならんと思ひ急ぎ遁げんとせしが、過ちて石につまずき転び落ちて、かえりて大人の傍に倒れたり。仰天し慴慄しゅうりつして口は物言ふことあたはず、あしは立つこと能はず、ただ手を合せて拝むばかり也。かの者等は何事か語り合ひしが、やがて九助を小脇こわきにかゝへ、嶮岨けんそ巌窟がんくつの嫌ひなく平地の如くに馳せ下り、一里余りも来たりと思ふ頃、其まゝ地上に引下して、たちまち形を隠し姿を見失ひぬ。九助は次第に心地元に復し、始めて幻夢のめたる如く、首を挙げて四辺を見廻みめぐらすに、時は既にさるの下りとおぼしく、太陽巒際らんさいに臨み返照へんしょう長く横たはれり。其時同じ業の者、手に/\薪を負ひて樵路しょうろを下り来るに逢ひ、顛末を語り介抱せられて家に帰り着きたりしが、心中鬱屈うっくつし顔色憔悴しょうすいして食事も進まず、妻子等色々と保養を加へ、五十余日して漸く回復したりと也。」

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