これは俺の口から出る限り、ただの独り言だ。誰かに聞かせるためじゃない。
ただ自分の中で燻って腐りかけているものを、どうにか吐き出して空気にさらさなければ、夜も眠れないからだ。
俺が地元の零細企業に勤めていた頃の話だ。学校を出て数年。まだ社会人というものの足取りに慣れきっていなかった時分。会社は小さく、給料も安いが、人間関係は悪くなかった。年上の同僚たちの会話から、学校では学べなかった「世間の温度」を感じることができたし、酒を酌み交わせば笑い声が響く。大人になったという手応えを初めて覚えたのも、その職場だった。
あの夜までは。
きっかけは飲み会だった。居酒屋の油で曇ったガラス、酔いに赤らむ顔、くだらない冗談で盛り上がっていた最中、あの一言が飛んだ。虻川という先輩社員が、年上の長谷山さんの仕事ぶりを「杜撰だ」とからかった。酒の席だ。誰もが笑い飛ばすと思った。だが長谷山さんの眼だけは笑っていなかった。
彼は元・極道だったという噂は、俺も耳にしていた。ただの噂と思っていたが、あの眼を見て、妙に納得してしまった。だが聞いていた話によれば、彼は人に優しすぎて組を外されたのだという。スジを通す気質はあっても、人を斬る冷徹さはなかった。だから組長に「お前はカタギの方が向いている」と追い出され、今の職場にいる……そんな経歴の人だった。
なのに、その優しさの反対側に、烈火のような怒りを秘めていることを、俺はその時初めて知った。
長谷山さんの怒りはその晩だけでは鎮まらず、むしろ熱を孕んで翌日から膨れ上がっていった。彼は虻川の過去の仕事上の不正を暴き立て始めたのだ。しかもその不正は、虻川ひとりではない。岩井川、佐沢、八柳……幾人もの同僚を巻き込んでいた。
長谷山さんは証拠を握っていた。そして「会社にすべて公表する」と息巻いた。
俺は愕然とした。俺自身はその不正には関わっていなかったが、もし本当に暴露されれば億単位の賠償が発生するのは目に見えていた。会社は潰れる。無関係な社員やその家族が、仕事も生活も失うだろう。
「やめた方がいい」と俺は言った。正義感からか、それとも単なる打算だったのか、今でも自分の気持ちが判然としない。結局のところ、俺は自分の居場所を守りたかっただけかもしれない。
その夜、彼は少し落ち着きを取り戻し、家に帰っていった。俺は胸を撫でおろした。だがそれは嵐の前の静けさだった。
次の晩、電話が鳴った。発信者は虻川だった。
「長谷山さんと和解することになった。中立の立場で立ち会ってくれないか」
和解――その言葉に俺は救われた気がした。すぐに承諾し、迎えに来た佐沢の車に乗った。
だが走る車が向かったのは市街地ではなく、闇の深い山林だった。夜の湿った空気が窓の隙間から入り込み、肌にまとわりつく。佐沢は無言で、ラジオもつけなかった。胸の奥がじりじりと熱くなり、同時に冷たい汗が背を伝っていた。
木々のざわめきに包まれた山の奥、落ち葉が厚く積もった広場に出ると、そこにいたのは正座する長谷山さん、そしてそれを取り囲む虻川、岩井川、八柳、そして見知らぬ男たち数人。まるで芝居の舞台の中央に放り出されたような光景だった。
長谷山さんは泣きじゃくっていた。嗚咽混じりに「やめてくれ」と訴えながら、頭を下げ続けていた。その姿は酒席で見せた怒りの人間とはまるで別人だった。
「遺書を書け」
誰かがそう言った。声は低く、冷ややかだった。
「できません……書けません……」
長谷山さんは涙をぬぐい、掠れた声で拒んだ。
その瞬間、俺の記憶は断片的にしか残っていない。途切れ途切れの映像が脳裏に貼りついている。家族を人質に取るような恫喝の言葉。誰かの靴音。押し殺した呻き声。長谷山さんの背中が、ぐらつきながらも何度も地面に叩きつけられる姿……。
そして気がつくと、俺は自分の家の前で車から降ろされていた。時計を見た記憶はない。どうやって玄関を開けたのかも覚えていない。布団に潜り込むように眠った。
翌朝、会社に行くと同僚から知らされた。
「長谷山さん、山林で自殺したんだって」
俺は黙った。昨夜のことを言えるはずがなかった。声を漏らした瞬間、俺も同じ場所に立たされる気がした。
通夜の席で、未亡人となった奥さんが「お手数をかけてすみませんでした」と俺に頭を下げた。胸が裂けそうになった。俺は何も返せず、ただうつむいた。
それから年月が経った。俺は地元を離れ、都会で仕事をしている。だが上司のくだらない嫌がらせを見るたびに、あの夜を思い出す。どんな人間でも、どんなに「普通の人」でも、裏に何を抱えているのかはわからない。虻川も佐沢も岩井川も八柳も、普段は家庭を大切にする、ごく普通の人間だった。それがいっそう恐ろしい。
彼らの笑顔と、あの夜の冷たい声が、同じ顔から出ていたのだ。
人を裁くのは法律でもなく、倫理でもなく、もっと暗くて不可解なものだと、今では思う。だから俺は、誰かの地雷を踏まないように、言葉を慎重に選んで生きている。
あの夜の記憶は、今も眠りの中で断片となって蘇る。落ち葉を踏みしめる音、湿った土の匂い、すすり泣き、そして――闇に溶けるような声。
俺が聞いた最後の言葉がなんだったのか、いくら思い出そうとしても、いつも途中で目が覚める。だが確かに、俺の名を呼んだ気がするのだ。
もしそれが幻聴でなければ、俺はあの夜、共犯者として名を刻まれたのだろう。
――だから今もこうして、誰にも届かないように独り言を並べ続けている。
(了)
[出典:163 :名無しさん@おーぷん :2014/11/11(火)22:14:20 ID:17ndlsgLL]