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【柳田國男】山の人生:31-山人考【青空文庫・ゆっくり朗読】

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山人考

大正六年日本歴史地理学会大会講演手稿

 

私が八九年以前から、内々山人の問題を考えているということを、喜田きだ博士が偶然に発見せられ、かかる晴れがましき会に出て、それを話しせよとおおせられる。一体これは物ずきに近い事業であって、もとより大正六年やそこいらに、成績を発表する所存をもって、取掛かったものではありませぬ故に、一時は甚だ当惑しかつ躊躇ちゅうちょをしました。しかし考えてみれば、これは同時に自分のごとき方法をもって進んで、果して結局の解決をうるに足るや否やを、諸先生から批評していただくのに、最もい機会でもあるので、なまじいにまかり出でたる次第でございます。

現在の我々日本国民が、数多の種族の混成だということは、じつはまだ完全には立証せられたわけでもないようでありますが、私の研究はそれをすでに動かぬ通説となったものとして、すなわちこれを発足点といたします。
わが大御門おおみかどの御祖先が、始めてこの島へ御到着なされた時には、国内にはすでに幾多の先住民がいたと伝えられます。古代の記録においては、これらを名づけてくにかみと申しておるのであります。その例は『日本書紀』の「神代巻」出雲の条に、「やつかれれ国つ神、脚摩乳あしなずち我妻号わがつまのな手摩乳てなずち云々」。また「高皇産霊神たかみむすびのかみ大物主神おおものぬしのかみに向ひ、汝若いましもし国つ神をて妻とせば、われなおうとき心りとおもはん」と仰せられた。「神武紀」にはまた「やつかれれ国つ神、名を珍彦うずひこふ」とあり、また同紀吉野の条には、「臣は是れ国つ神名を井光いひかす」とあります。『古事記』の方では御迎いに出た猿田彦さるたひこをも、また国つ神と記しております。
りょう神祇令じんぎりょうには天神地祇という名を存し、地祇は『倭名鈔わみょうしょう』のころまで、クニツカミまたはクニツヤシロとみますが、この二つは等しく神祇官において、常典によってこれを祭ることになっていまして、奈良朝になりますと、新旧二種族の精神生活は、もはや名残なく融合したものと認められます。『延喜式えんぎしき』の神名帳には、国魂郡魂くにたまこおりたまという類の、神名から明らかに国神に属すと知らるる神々を多く包容しておりながら、天神地祇の区別すらも、すでに存置してはいなかったのであります。

しかも同じ『延喜式』の、中臣なかとみ祓詞はらえことばを見ますると、なお天津罪あまつつみと国津罪との区別を認めているのです。国津罪とはしからば何を意味するか。『古語拾遺こごしゅうい』には国津罪は国中人民犯すところの罪とのみ申してあるが、それではこれに対する天津罪は、誰の犯すところなるかが不明となります。右二通りの犯罪を比較してみると、一方は串刺くしざし重播しきまき畔放あはなちというごとく、主として土地占有権の侵害であるに反して、他の一方は父と子犯すといい、獣犯すというような無茶なもので明白に犯罪の性質に文野の差あることが認められ、すなわち後者は原住民、国つ神の犯すところであることがわかります。『日本紀』景行天皇四十年のみことのりに、「東夷ひがしのひな中蝦夷うちえみしもっとこわし。男女まじ父子かぞこわかち無し云々」ともあります。いずれの時代にこの大祓の詞というものはできたか。とにかくにかかる後の世まで口伝えに残っていたのは、興味多き事実であります。
同じ祝詞のりとの中には、また次のような語も見えます。曰く、「国中に荒振神等あらぶるかみたちを、かみはしに問はしたまひかみはらひに掃ひたまひて云々」。アラブルカミタチはまた暴神とも荒神とも書してあり、『古語拾遺』などには不順鬼神ともあります。これは多分右申す国つ神の中、ことに強硬に反抗せし部分を、古くからそういっていたものと自分は考えます。

前九年・後三年の時代に至って、ようやく完結を告げたところの東征西伐は、要するに国つ神同化の事業を意味していたと思う。東夷に比べると西国の先住民の方が、問題が小さかったように見えますが、豊後・肥前・日向等の『風土記ふどき』に、土蜘蛛つちぐも退治の記事の多いことは、常陸・陸奥等に譲りませず、更に『続日本紀しょくにほんぎ』の文武天皇二年の条には太宰府だざいふちょくして豊後の大野、肥後の鞠智きくち、肥前の基肄きいの三城を修繕せしめられた記事があります。これはもとより海※かいこう[#「寇」の「攴」に代えて「攵」、U+21A25、272-6]の御備えでないことは、地形を一見なされたらすぐにわかります。土蜘蛛にはまた近畿地方に住した者もありました。『摂津風土記せっつふどき』の残篇にも記事があり、大和にはもとより国樔くずがおりました。国樔と土蜘蛛とは同じもののように、『常陸風土記』には記してあります。
北東日本の開拓史をみますると、時代とともに次々に北に向って経営の歩を進め。しかも夷民の末と認むべき者が、今なお南部津軽の両半島の端の方だけに残っているために、通例世人の考えでは、すべての先住民は圧迫を受けて、北へ北へと引上げたように見ていますが、これは単純にそんな心持がするというのみで、学問上証明をげたものではないのです。少なくとも京畿以西に居住した異人等は、今ではただ漠然と、絶滅したようにみなされているがこれももとよりなんらの根拠なき推測であります。
種族の絶滅ということは、血の混淆こんこうないしは口碑の忘却というような意味でならば、これを想像することができるが、実際に殺され尽しまた死に絶えたということは「景行天皇紀」にいわゆる撃てばすなわち草に隠れ追えばすなわち山に入るというごとき状態にある人民には、とうていこれを想像することができないのです。『播磨風土記』を見ると、神前かみさき郡大川内、同じく湯川の二処に、異俗人三十許口みそたりばかりありとあって、地名辞書にはこれも今日の寺前・長谷二村の辺に考定しています。すなわち汽車が姫路に近づこうとして渡るところの、今日市川と称する川の上流であって、じつはかく申す私などもその至って近くの村に生れました。和銅・養老の交まで、この通り風俗を異にする人民が、その辺にはいたのであります。
右にいう異俗人は、果していかなる種類に属するかは不明であるが、『新撰姓氏録しんせんしょうじろく』巻の五、右京皇別佐伯直さへきのあたいの条を見ると、「此家の祖先とする御諸別命みもろわけのみこと、成務天皇の御宇ぎょうに播磨の此地方に於て、川上より菜の葉の流れ下るを見て民住むと知り、求め出し之を領して部民と為す云々」とあって、或いはその御世から引続いて、同じ者の末であったかも知れませぬ。
この佐伯部は、自ら蝦夷のの神宮に献ぜられ、のちに播磨・安芸・伊予・讃岐および阿波の五国に配置せられた者の子孫なりと称したということで、すなわち「景行天皇紀」五十一年の記事とは符合しますが、これと『姓氏録』と二つの記録は、ともに佐伯氏の録進に拠られたものと見えますから、この一致をもって強い証拠とするのは当りませぬ。おそらくは『釈日本紀しゃくにほんぎ』に引用する暦録れきろくの、佐祈毘(叫び)が佐伯となまったという言い伝えとともに、一箇の古い説明伝説と見るべきものでありましょう。
サヘキの名称は、多分は障碍しょうがいという意味で、日本語だろうと思います。佐伯の住したのは、もちろん上に掲げた五箇国にはとどまりませぬが、果して彼らの言の通り、蝦夷と種を同じくするか否かは、これらの書物以外の材料を集めてのちに、平静に論証する必要があるのであります。

国郡の境を定めたもうということは、古くは成務天皇の条、また允恭天皇の御時おんときにもありました。これもまた『姓氏録』に阪合部朝臣さかあいべのあそんおおせを受けて境を定めたともあります。阪合は境のことで、阪戸さかと阪手さかて阪梨さかなし(阪足)などとともに、中古以前からの郷の名・里の名にありますが、今日の境の村と村とのさかいかくするに反して、昔は山地と平野との境、すなわち国つ神の領土と、あまつ神の領土との、境を定めることを意味したかと思います。高野山の弘法大師などが、猟人の手から霊山の地をい受けたなどという昔話は、恐らくはこの事情を反映するものであろうと考えます。古い伽藍がらん地主神じぬしがみが、猟人の形で案内をせられ、またとどまって守護したもうという縁起えんぎは、高野だけでは決してないのであります。
「天武天皇紀」の吉野行幸の条に、※(「けものへん+臈のつくり」、第3水準1-87-81)かりびと二十余人云々、または※(「けものへん+臈のつくり」、第3水準1-87-81)者之首などとあるのは、国樔くずのことでありましょう。国樔は「応神紀」に、其為人そのひととなりはなはだ淳朴也などともありまして、佐伯とは本来同じ種族でないように思われます。『北山抄ほくざんしょう』『江次第ごうしだい』の時代を経て、それよりもまた遙か後代まで名目を存していた、新春朝廷の国栖くずの奏は、最初には実際この者が山を出でて来り仕え、御贄みあえを献じたのに始まるのであります。『延喜式』の宮内式くないしきには、もろもろ節会せちえの時、国栖十二人笛工五人、合せて十七人を定としたとあります。古注には笛工の中の二人のみが、山城綴喜つづき郡にありとあります故に、他の十五人は年々現実に、もとは吉野の奥から召されたものでありましょう。『延喜式』のころまでは如何かと思いますが、現に神亀三年には、召出されたという記録が残っているのであります。
また平野神社の四座御祭、園神そのがみ三座などに、出でて仕えた山人という者も、元は同じく大和の国栖であったろうと思います。山人が庭火の役を勤めたことは、『江次第』にも見えている。祭の折に賢木さかきって神人に渡す役を、元は山人が仕え申したということは、もっとも注意を要する点かと心得ます。

ワキモコガアナシノ山ノ山人ト人モ見ルカニ山カツラセヨ

これは後代の神楽歌かぐらうたで、衛士えじが昔の山人の役を勤めるようになってから、用いられたものと思います。ワキモコガはマキムクノのなまり、纏向穴師まきむくのあなしは三輪の東にそばだつ高山で、大和北部の平野に近く、多分は朝家の思召おぼしめしもとづいて、この山にも一時国樔人の住んでいたのは、御式典に出仕する便宜のためかと察しられます。
しからば何が故に右のごとき厳重の御祭に、山人ごときが出て仕えることであったか。これはむつかしい問題で、同時にまた山人史の研究の、重要なるかぎでもあるように自分のみは感じている。山人の参列はただの朝廷の体裁装飾でなく、或いは山から神霊を御降し申すために、欠くべからざる方式ではなかったか。神楽歌の穴師の山は、もちろんのちに普通の人を代用してから、山かずらをさせて山人と見ようという点に、新たな興味を生じたものですが、『古今集』にはまた大歌所おおうたどころものの歌としてあって、山人の手に持つさかきの枝に、何か信仰上の意味がありそうに見えるのであります。

山人という語は、この通り起原の年久しいものであります。自分の推測としては、上古史上の国津神くにつかみが末二つに分れ、大半は里に下って常民に混同し、残りは山に入りまたは山に留まって、山人と呼ばれたと見るのですが、後世に至っては次第にこの名称を、用いる者がなくなって、かえって仙という字をヤマビトとませているのであります。
自分が近世いうところの山男山女・山童山姫・山丈山姥などを総括して、かりに山人と申しておるのは必ずしも無理な断定からではありませぬ。単に便宜上この古語を復活して使って見たまでであります。昔の山人の中で、威力に強いられ乃至ないしくだされ物を慕うて、遙に京へ出てきた者は、もちろん少数であったでしょう。しからばその残りの旧弊な多数は、ゆくゆくいかに成りいたであろうか。これからがじつは私一人の、考えて見ようとした問題でありました。
自分はまず第一に、中世の鬼の話に注意をしてみました。オニは鬼の漢字をてたのはずいぶん古いことであります。その結果支那から入った陰陽道おんようどうの思想がこれと合体して、『今昔物語』の中の多くの鬼などは、人の形をそなえたり具えなかったり、孤立独往して種々の奇怪きっかいを演じ、時としては板戸に化けたり、油壺あぶらつぼになったりして人を害するを本業としたかの観がありますが、終始この鬼とは併行して、別に一派の山中の鬼があって、往々にして勇将猛士に退治せられております。斉明天皇の七年八月に、筑前朝倉山のがけの上にうずくまって、大きな笠を着てあごを手で支えて、天子の御葬儀を俯瞰ふかんしていたという鬼などは、この系統の鬼の中の最も古い一つである。酒顛童子しゅてんどうじにせよ、鈴鹿山すずかやまの鬼にせよ、悪路王・大竹丸・赤頭にせよいずれも武力の討伐を必要としております。その他吉備津の塵輪じんりん三穂さんぼ太郎も、鬼とはいいながらじつは人間の最も獰猛どうもうなるものに近く、護符や修験者しゅげんじゃ呪文じゅもんだけでは、煙のごとく消えてしまいそうにもない鬼でありました。
また鬼という者がことごとく、人を食い殺すを常習とするような兇悪な者のみならば、決して発生しなかったろうと思う言い伝えは、自ら鬼の子孫と称する者の、諸国に居住したことである。その一例は九州の日田附近にいた大蔵氏、系図を見ると代々鬼太夫などと名乗り、しばしばおおやけの相撲の最手ほてに召されました。この家は帰化人の末と申しています。次には京都に近い八瀬の里の住民、俗にゲラなどと呼ばれた人々です。このことについては前に小さな論文を公表しておきました。二三の顕著なる異俗があって、誇りとして近年までこれを保持していました。黒川道祐などはこれを山鬼の末と書いています。山鬼は地方によって山爺のことをそうもいい眼一つ足一つだなどといった者もあります。一方ではまた山鬼護法と連称して、霊山の守護に任ずる活神いきがみのごとくにも信じました。安芸の宮島の山鬼は、おおよそ我々のよくいう天狗と、する事が似ていました。秋田太平山の三吉権現も、また奥山の半僧坊はんぞうぼうや秋葉山の三尺坊の類で、地方に多くの敬信者を持っているが、やはりまた山鬼という語の音から出た名だろうという説があります。
それよりも今一段と顕著なる実例は、大和吉野の大峯山下の五鬼ごきであります。洞川どろかわという谷底の村に、今では五鬼何という苗字みょうじの家が五軒あり、いわゆる山上参りの先達職せんだつしょくを世襲し聖護院しょうごいんの法親王御登山の案内役をもって、一代の眉目びもくとしておりました。吉野の下市の町近くには、善鬼垣内ぜんきかいとという地名もあって、この地に限らず五鬼の出張が方々にありました。諸国の山伏やまぶしの家の口碑には、五流併立を説くことがほとんと普通になっています。すなわち五鬼は五人の山伏の家であろうと思うにかかわらず、前鬼後鬼ぜんきごきとも書いてえん行者ぎょうじゃの二人の侍者じしゃの子孫といい、従ってまた御善鬼様などと称して、これを崇敬した地方もありました。
善鬼は五鬼の始祖のことで、五鬼のほかに別に団体があったわけではないらしく、古くは今の五鬼の家を前鬼というのが普通でありました。その前鬼が下界と交際を始めたのは、戦国のころからだと申します。その時代までは彼らにも通力があったのを、浮世の少女と縁組をしたばかりに、のちにはただの人間になったという者もありますが、実際にはごく近代になるまで、一夜の中に二十里三十里の山を往復したり、くれると言ったら一畠ひとはた茄子なすをみな持って行ったり、なお普通人を威服するに十分なる、力を持つ者のごとく評判せられておりました。
とにかくに彼らが平地の村から、移住した者の末ではないことは、自他ともに認めているのです。これと大昔の山人との関係は不明ながら、山の信仰には深い根を持っています。そこでこの意味において、今一応考えてみる必要があると思うのは、相州箱根・三州鳳来寺、近江の伊吹山・上州の榛名山、出羽の羽黒・紀州の熊野、さては加賀の白山等に伝わる開山の仙人の事蹟であります。白山の泰澄大師たいちょうだいしなどは、奈良の仏法とは系統が別であるそうで、近ごろ前田慧雲師はこれを南洋系の仏教と申されましたが、自分はいまだその根拠のいずれにあるかを知らぬのであります。とにかくに今ある山伏道も、さかのぼって聖宝僧正以前になりますと、教義も作法もともに甚だしく不明になり、ことに始祖という役小角えんのおづのに至っては、これを仏教の教徒と認めることすら決して容易ではないのです。仙術すなわち山人の道と名づくるものが、別に存在していたという推測も、なお同様に成立つだけの余地があるのであります。

土佐では寛永の十九年に、高知の城内に異人が出現したのを、これ山みこという者だといって、山中に送り還した話があります。ミコは神に仕える女性もしくは童子どうじの名で、山人をそう呼んだことの当否は別として、少なくとも当時なおこの地方には、彼らと山神とのなんらかの関係を、認めていた者のあったという証拠にはなります。山の神の信仰も維新以後の神祇官じんぎかん系統の学説に基づき、名目と解釈の上に大なる変化を受けたことは、あたかも陰陽道が入ってオニが漢土の鬼になったのと似ております。今日では山神社の祭神は、大山祇命おおやまつみのみことかその御娘の木花開耶姫このはなさくやひめと、報告せられておらぬものがないというありさまですが、これを各地の実際の信仰に照してみると、なんとしてもそれを古来の言い伝えとはみられぬのであります。
村に住む者が山神をまつり始めた動機は、近世には鉱山の繁栄を願うもの、或いはまた狩猟のためというのもありますが、大多数は採樵さいしょうと開墾の障碍なきをいのるもので、すなわち山の神に木を乞う祭、地を乞う祭を行うのが、これらの社の最初の目的でありました。そうしてその祭を怠った制裁は何かというと、怪我けがをしたり発狂したり死んだり、かなり怖ろしい神罰があります。東北地方には往々にして路のほとりに、山神と刻んだ大きな石塔が立っている。建立の年月日人の名なども彫ってありますが、如何して立てたかと聴くと、必ずその場処に何か不思議があって、臨時の祭をした記念なること、あたかも馬が急死するとその場処において供養を営み、馬頭観音ばとうかんのんもしくは庚申塔こうしんとうなどを立てるのと同じく、しかも何の不思議かと問えば、たいていは山の神に不意に行逢うた、怖ろしいので気絶をしたという類で、その姿はまぼろしにもせよ、常に裸の背の高い、色のあかい眼の光の鋭い、ほぼ我々が想像する山人に近く、また一方ではこれを山男ともいっているのであります。
天狗てんぐを山人と称したことは、近世二三の書物に見えます。或は山人を天狗と思ったという方が正しいのかも知れぬ。天狗の鼻を必ず高く、手には必ず羽扇を持たせることにしたのは、近世のしかも画道の約束みたようなもので、『太平記』以前のいろいろの物語には、ずいぶん盛んにこれを説いてありますが、さほど鼻のことを注意しませぬ。仏法の解説ではこれを魔障とし善悪二元の対立を認めた古宗教の面影を伝えているにもかかわらず、一方には天狗の容貌服装のみならず、その習性感情から行動の末までが、仏法の一派と認めている修験しゅげん山伏やまぶしとよく類似し、後者もまたこれを承認して、時としてはその道の祖師であり守護神ででもあるかのごとく、崇敬しかつ依頼する風のあったことは、何か隠れたる仔細しさいのあることでなければなりませぬ。恐らくは近世全く変化してしまった山の神の信仰に、元は山人も山伏も、ともに或る程度までは参与していたのを、平地の宗教がだんだんにこれを無視しまたは忘却して行ったものと思っております。
今となってはわずかに残る民間下層のいわゆる迷信によって、切れ切れの事実の中から昔の実情を尋ねて見るのほかはないのであります。一つの例をあげてみますれば、山中には往々魔所と名づくる場処があります。京都近くにもいくつかありました。入って行くといろいろの奇怪があるように伝えられ、従って天狗の住家すみかか、集会所のごとく人が考えました。その奇怪というのは何かというと、第一には天狗礫てんぐつぶて、どこからともなく石が飛んでくる。ただし通例はあたって人をきずつけることがない。第二には天狗倒し、非常な大木をゴッシンゴッシンとる音が聴え、ほどなくえらい響を立てて地に倒れる。しかも後にその方角に行って見ても、一本も新たにった株などはなく、もちろん倒れた木などもない。第三には天狗笑い、人数ならば十人十五人が一度に大笑いをする声が、不意に閑寂の林の中から聴える。害意はなくとも人のきもを寒くする力は、かえって前二者よりも強かった。その他にやや遠くから実験したものにはふえ太鼓たいこはやしの音があり、また喬木きょうぼくこずえの燈の影などもあって、じつはその作者を天狗とする根拠は確実でないのですが、天狗でなければ誰がするかという年来の速断と、天狗ならばしかねないという遺伝的類推法をもって、別に有力なる反対者もなしに、のちにはこうして名称にさえなったのであります。
しかも必ずしも魔所といわず、また有名な老木などのない地にも、やはり同様の奇怪はおりおりあって、或る者は天狗以外の力としてこれを説明しようとしました。例えば不思議の石打ちは、久しく江戸の市中にさえこれを伝え、市外池袋の村民を雇入れると、氏神が惜んでこの変を示すなどともいいました。また伐木坊きりきぼうという怪物が山中に住み、毎々大木を伐倒す音をさせて、人を驚かすという地方もあり、たぬきが化けてこの悪戯をするという者もありました。深夜にいろいろの物音がきこえて、所在を尋ねると転々するというのは、広島で昔評判したバタバタの怪、または東京でも七不思議の一つにかぞえた本所の馬鹿囃子ばかばやしの類です。単に一人が聴いたというのなら、おまえはどうかしていると笑うところですが、現に二人三人の者が一所にいて、あれ聴けといって顔を見合せる類のいわゆるアリュシナシオン・コレクチーブであるために、迷信もまた社会化したのであります。
私の住む牛込の高台にも、やはり頻々ひんぴんと深夜の囃子の音があると申しました。東京のはテケテンという太鼓だけですが、加賀の金沢では笛が入ると、泉鏡花君は申されました。遠州の秋葉街道で聴きましたのは、この天狗の御膝元おひざもとにいながらこれを狸の神楽と称し現に狸の演奏しているのを見たとさえいう人がありました。近世いい始めたことと思いますが狸は最も物真似に長ずと信じられ、ひとり古風な腹鼓はらづつみのみにあらず、汽車が開通すれば汽車の音、小学校のできた当座は学校の騒ぎ、酒屋が建てば杜氏とじの歌の声などを、真夜中に再現させて我々の耳を驚かしています。しかもそれを狸のわざとする論拠は、みながそう信ずるという事実より以上に、一つも有力なものはなかったのです。
これらの現象の心理学的説明はおそらくさして困難なものでありますまい。常は聴かれぬ非常に印象の深い音響の組合せが、時過ぎて一定の条件のもとに鮮明に再現するのを、その時また聴いたように感じたものかも知れず、社会が単純で人の素養に定まった型があり、外から攪乱こうらんする力の加わらぬ場合には、多数が一度に同じ感動を受けたとしても少しもさしつかえはないのでありますが、問題はただその幻覚の種類、これを実験し始めた時と場処、また名づけて天狗の何々と称するに至った事情であります。山に入ればしばしば脅かされ、そうでないまでもあらかじめ打合せをせずして、山の人の境を侵すときに、我と感ずる不安のごときものと、山にいる人の方が山の神に親しく、農民はいつまでも外客だという考えとが、永く真価以上に山人を買いかぶっていた、結果ではないかと思います。

そこで最終に自分の意見を申しますと、山人すなわち日本の先住民は、もはや絶滅したという通説には、私もたいていは同意してよいと思っておりますが、彼らを我々のいう絶滅に導いた道筋についてのみ、若干の異なる見解を抱くのであります。私の想像する道筋は六筋、その一は帰順朝貢に伴なう編貫へんかんであります。最も堂々たる同化であります。その二は討死うちじに、その三は自然の子孫断絶であります。その四は信仰界を通って、かえって新来の百姓を征服し、好条件をもってゆくゆく彼らと併合したもの、第五は永い歳月の間に、人知れず土着しかつ混淆こんこうしたもの、数においてはこれが一番に多いかと思います。
こういう風に列記してみると、以上の五つのいずれにも入らない差引残さしひきざん、すなわち第六種の旧状保持者、というよりも次第に退化して、今なお山中を漂泊しつつあった者が、少なくとも或る時代までは、必ずいたわけだということが、推定せられるのであります。ところがこの第六種の状態にある山人の消息は、きわめて不確実であるとは申せ、つい最近になるまで各地独立して、ずいぶん数多く伝えられておりました。それは隠者か仙人かであろう。いや妖怪か狒々ひひかまたは駄法螺だぼらかであろうと、勝手な批評をしても済むかも知れぬが、事例は今少しく実着でかつ数多く、またそのようにまでして否認をする必要もなかったのであります。
山中ことに漂泊の生存が最も不可能に思われるのは火食の一点であります。一旦その便益を解していた者が、これを抛棄ほうきしたということはありえぬように思われますがとにかくに孤独なる山人には火を利用した形跡なく、しかも山中には虫魚鳥小獣のほかに草木の実と若葉と根、または菌類きのこるいなどが多く、なまで食っていたという話はたくさんに伝えられます。木挽こびき炭焼すみやきの小屋に尋ねてきて、黙って火にあたっていたという話もあれば、川蟹かわがにを持ってきて焼いて食ったなどとも伝えます。塩はどうするかという疑いのごときは疑いにはなりませぬ。平地の人のごとく多量に消費してはおられぬが、日本では山中に塩分を含む泉いたって多く、また食物の中にも塩気の不足を補うべきものがある。また永年の習性でその需要は著しく制限することができました。吉野の奥で山に遁げこんだ平地人が、山小屋に塩を乞いにきた。一握ひとつかみの塩を悦んで受けてこれだけあれば何年とかは大丈夫といった話が、『覊旅漫録きりょまんろく』かに見えておりました。
それから衣服でありますが、これも獣皮でも樹の皮でも、用は足りたろうと思うにかかわらず多くの山人は裸であったといわれております。恐らくは裸体であるために人が注意することになったのでしょうが、わが国の温度には古今の変は少なかろうと思うのに、国民の衣服の近世甚だしく厚くるしくなったのを考えますと、らせば無しにも起臥きがしえられてこの点はあまり顧慮しなかったものと見えます。不思議なことには山人の草鞋わらじと称して、非常に大形のものを山中で見かけるという話がありますが、それは実用よりも何か第二の目的、すなわち南日本の或る海岸の村で、今でも大草履おおぞうり魔除まよけとするごとく、彼ら独特の畏嚇法いかくほうをもってなるべく平地人を廻避した手段であったかも知れませぬ。
交通の問題についても少々考えてみました。日本は山国で北は津軽の半島の果から南は長門の小串こくしさきまで少しも平野に下り立たずして往来することができるのでありますが、彼らは必要以上に遠くへ走るような余裕も空想もなかったと見えて、居るという地方にのみいつでもおりました。全国の山地で山人の話の特に多いところが、近世では十数箇処あって、互いに隔絶してその間の聯絡れんらくは絶えていたかと思われ、気をつけてみると少しずつ、気風習性のごときものが違っていました。今日知れている限りの山人生息地は、北では陸羽の境の山であります。ことに日本海へ近よった山群であります。それから北上川左岸の連山、次には只見川ただみがわの上流から越後秋山へかけての一帯、東海岸は大井川の奥、次は例の吉野から熊野の山、中国では大山山彙さんいなどが列挙しえられます。飛騨は山国でありながら、不思議に今日はこの話が少なく、青年の愛好する北アルプスから立山方面、黒部川のいりなども今はもう安全地帯のようであります。これに反して小さな離島はなれじまでも、屋久島はいまなお痕跡があり、四国にも九州にももちろん住むと伝えられます。四国では剣山の周囲ことに土佐の側には無数の話があり、九州は東岸にやや偏して、九重山くじゅうさん以南霧島山以北一帯に、最も無邪気なる山人が住むといわれております。海が彼らの交通を遮断しゃだんするのは当然ですが、なお少しは水を泳ぐこともできました。山中にはもとより東西の通路があって、老功なる木樵・猟師は容易にこれを認めて遭遇を避けました。夜分やぶんには彼らもずいぶん里近くを通りました。その方がみちが楽であったことは、彼らとても変りはないはずです。鉄道の始めて通じた時はさぞ驚いたろうと思いますが、今では隧道トンネルなども利用しているかも知れませぬ。火と物音にさえ警戒しておれば、平地人の方から気がつくおそれはないからであります。
山男・山姥が町の市日いちびに、買物に出るという話が方々にありました。果してそんな事があったら、衣服風体なども目に立たぬように、済ましてただの田舎者の顔をするのだから、山人としては最も進んだ、すぐにも百姓に同化しうる部類で、いわば一種の土着見習生のごときものであります。それ以外にはつとめて人を避けるのがむしろ通例で、自分の方から来るというはよくよくの場合、すなわち単なる見物や食物のためではなかったらしいのです。しかも人類としては一番強い内からの衝動、すなわち配偶者の欲しいという情は、往々にして異常の勇敢を促したかと思う事実があります。
もっとも山人の中にも女はあって、族内の縁組も絶対に不可能ではなかったが、人が少なく年が違い、久しい孤独を忍ばねばならぬ際に、堪えかねて里に降って若い男女を誘うたことも、稀ではなかったように考えます。神隠しと称する日本の社会の奇現象は、あまりにも数が多く、その中には明白に自身の気の狂いから、何となく山に飛び込んだ者も少なくないのですが、原因の明瞭めいりょうになったものはかつてないので、しかも多くは還って来ず、一方には年を隔てて山中で行逢うたという話が、決して珍しくはないから、こういう推測が成立つのであります。世中よのなかが開けてからは、かりに著しくその場合が減じたにしても、物憑ものつ物狂ものぐるいがいつも引寄せられるように、山へ山へと入って行く暗示には、千年以前からの潜んだ威圧が、なお働いているものとみることができます。
それをまた他の方面から立証するものは、山人の言語であります。彼らが物を言ったという例は、ほとんとないといってよいのであるが、平地人のいわゆる日本語は、たいていの場合には山人に理解せられます。ずいぶんと込み入った事柄でも、呑込のみこんでその通りにしたというのは、すなわち片親の方からその知識が、だんだんに注入せられている結果かと思います。それでなければ米の飯をひどく欲しがりまた焚火たきびを悦び、しばしば常人に対して好意とまではなくとも、じっと目送したりするほどの、平和な態度をとったという話が解せられず、ことに頼まれて人を助け、市に出て物を交易するというだけの変化の原因が想像しえられませぬ。多分は前代にあっても最初は同じ事情から、耕作の趣味を学んで一地に土着し、わずかずつ下流の人里と交通を試みているうちに、自他ともに差別の観念を忘失して、すなわち武陵桃源ぶりょうとうげんの発見とはなったのであろうと思います。
これを要するに山人の絶滅とは、主としては在来の生活の特色のなくなることでありました。そうして山人の特色とは何であったかというと、一つには肌膚の色の赤いこと、二つにはたけ高く、ことに手足の長いことなどが、昔話の中に今も伝説せられます。諸国に数多き大人おおひとの足跡の話は、話となって極端まで誇張せられ、加賀ではあの国を三足であるいたという大足跡もありますが、もとは長髄彦ながすねひこもしくは上州の八掬脛やつかはぎぐらいの、やや我々より大きいという話ではなかったかと思われます。北ヨーロッパでは昔話の小人というのが、先住異民族の記憶の断片と解せられていますが、日本はちょうどその反対で、現に東部の弘い地域にわたり、今もって山人のことを大人と呼んでいる例があるのです。
私は他日この問題がいますこし綿密に学界から注意せられて、単に人類学上の新資料を供与するに止らず、日本人の文明史において、まだいかにしても説明しえない多くの事蹟がこの方面から次第に分ってくることを切望いたします。ことに我々の血の中に、若干の荒い山人の血を混じているかも知れぬということは、我々にとってはじつに無限の興味であります。

(完)

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