母は往々にして不当に疑われた。似ておらぬからわが子でないという単純に失した推断は必ずしも独り五葉山中の山人のみの専売でもなかったのである。至って平和なる里中にも親に似ぬ子は鬼子という俚諺は、今もって行われていて、時々はまたこれを裏書するような事件が、発生したとさえ伝えられるのである。
「日本はおろかなる風俗ありて、歯の生えたる子を生みて、鬼の子と謂ひて殺しぬ」と、『徒然慰草』の巻三には記してある。江戸時代初め頃の人の著述である。なおそれよりも遙かに古く、『東山往来』という書物の消息文の中にも、家の女中が歯の生えた児を生んだ。これ鬼なり山野に埋むるにしかずと近隣の者が勧めるが、いかがしたものだろうかという相談に答えて、坊主にするのが一番よろしかろうといっている。すなわち以前は相応に頻々と、処々にこのような異様の出来事があったかと思われるのである。
けだし人はとうてい凡庸を愛せずにはおられなかった者であろうか。前代の英雄や偉人の生い立ちに関しては、いかなる奇瑞でも承認しておりながら、事一たび各自の家の生活に交渉するときは、寸毫も異常を容赦することができなかった。近世に入ってからも、稀には歯が生えて産れるほどの異相の子を儲けると、たいていは動顛して即座にこれを殺し、これによって酒顛童子・茨木童子の如き悪業の根を絶った代りには、一方にはまた道場法師や武蔵坊弁慶の如き、絶倫の勇武強力を発揮する機会をも与えなかった。これ恐らくは天下太平の世の一弱点であったろう。
しかも胎内変化の生理学には、今日なお説き明かしえない神秘の法則でもあるのか。このような奇怪な現象にも、やはり時代と地方とによって、一種の流行のごときものがあった。詳しく言うならば、鬼を怖れた社会には鬼が多く出てあばれ、天狗を警戒していると天狗が子供を奪うのと同様に、牙ありまた角ある赤ん坊の最も数多く生まれたのは、いわゆる魔物の威力を十二分に承認して、農村家庭の平和と幸福までが、時あって彼らによって左右せられるかのごとく、気遣っていた人々の部落の中であった。
鬼子の最も怖ろしい例としては、明応七年の昔、京の東山の獅子が谷という村の話が、『奇異雑談集』の中に詳しく報ぜられている。『玄同放言』三巻下には全文を引用しているが、記事にはあやふやな部分がちっともなく、少なくとも至って精確なる噂の聞書である。その大要のみを挙げると、この家の女房三度まで異物を分娩し四番目に産んだのがこの鬼子であった。生まれ落ちたとき大きさ三歳子のごとく、やがてそこらを走りあるく故に、父追いかけて取りすくめ膝の下に押しつけてみれば、色赤きこと朱のごとく、両眼の他に額になお一つの目あり、口広く耳に及び、上に歯二つ下に歯二つ生えていた。父嫡子をよびて横槌を持ってこいというと、鬼子これを聞いて父が手に咬みつくのを、その槌をもって頻りに打って殺してしまった。人集まりてこれを見ること限りなしとある。その死骸は西の大路真如堂の南、山際の崖の下に深く埋めた。ところがその翌日田舎の者が三人、梯子をかたげてこの下を通り、崖の土の少しうごもてるを見て、土竜鼠がいるといって朸のさきで突いて見ると、ひょっくりとその鬼子が出た。三人大いに驚いてこれは聞き及んだ獅子が谷の鬼子だ。ただ早く殺すがよいと、朸を揮うて頻に打ち、ついにこれを叩き殺した。それを惨酷な話だが、繩をつけて京の町まで曳いてくると途中多くの石に当ったけれども、皮膚強くして少しも破れずとまで書いてある。この事常楽時の栖安軒琳公幼少喝食の時、崖の下にて打ち殺すをまのあたり見たりといえりとあって、事件の当時から約九十年後の記述である。
何故に親が大急ぎで、牙の生えた赤子を殺戮せねばならなかったかは、じつは必ずしも明瞭ではない。家の外聞とか恥とかいうのも条理に合わなかった。殺してこれを清める望みはなかったのみならず、匿し終おせた場合さえ少なかった。しからば活かして置いて何が悪いかと尋ねてみると、これまた格別のことはなかったのである。兇暴無類の評ある大江山の酒顛童子、その子分か義兄弟のごとく考えられた茨木童子なども、単に今まで見ず知らずの他人に対して残忍であったというのみで、翻ってその家庭生活を検すれば、思いのほかなるものがあった。『越後名寄』巻三十三その他の所伝によれば、酒顛童子はこの国西蒲原郡砂子塚、または西川桜林村の出身と称しておのおのその旧宅の址があった。附近の和納という村にも後に引越してきたといって今なお榎の老木ある童子屋敷、下名を童子田と呼ぶ水田もあった。童子幼名を外道丸と名づけられ美童であった。父の名は否瀬善次兵衛俊兼、戸隠山九頭竜権現の申し児であって、母の胎内に十六箇月いたというだけが、親に迷惑をかけたといえばかけたのである。和納の楞厳寺で文字を習い、国上の寺に上って侍童となるまでは不良少年でも何でもなかった。茨木童子の故郷も摂津にある方が正しいのかも知れぬが、これまた越後にも一箇処あって、今の古志郡荷頃村大字軽井沢、茨木善次右衛門はその生家と称し、連綿として若干の記憶を伝えていた。例えば家の背後に童子が栖んだという岩屋、それは崩れてその跡に清き泉湧き、流の末には十坪ばかりの空地あって、童子出生の地と称して永く耕作をさせなかった。悪人に対する記念ではなかったのである。
摂州川辺郡東富松の部落においては、すでに茨木童子の家筋は絶えたかわりに、更に一段と心を動かすべき物語が残っていた。『摂陽群談』巻十に曰う。童子生まれながらにして牙生い髪長く、眼に光あって強盛なること成人に超えし故に、一族畏怖してこれを茨木の辺に棄てたところ、丹波千丈岳の強盗酒顛童子拾い還りて養育して賊徒となす云々。しかも両親がのちに病に罹って同じ枕に寝ているのを、術をもって遙かにこれを知り、心配をして見舞に還ってきたというのは、やはり松崎の寒戸の婆などの例であろう。ただいまは京都に留まって、東寺の辺に安住している。人に怖ろしい姿を見せぬように、急いで還ろうと飛んで往ったという田圃路に、安東寺の字名などが残っており、その時親が悦んで団子を食わせた記念として、毎年同じ日に村では団子祭をするといっている。
戦いがなくなり国中が統一してしまうまでは、こういう義理固い無茶者は、求めても養って置く必要が時としてはあった。いわば百姓の家に生まれたのが損だったのである。肥後の川上彦斎の伝を見てもそう思うが、江戸幕府の初頭に刑せられたあぶれ者、大鳥一兵衛などについてはことにその感が深い。ほんのもう四十年か五十年早く生まれていたら、彼は大名になったかも知れぬのである。一兵衛自身の身の上話というのは、『慶長見聞集』巻六に出ている。「武州大鳥といふ在所に利生あらたかなる十王まします。母にて候ふ者子無きことを悲み、此十王堂に一七日籠り、満ずる暁に霊夢の告あり、懐胎して十八月にしてそれがし誕生せしに、骨柄たくましく面の色赤く、向ふ歯あつて髪はかぶろなり。立つて三足歩みたり。皆人是を見て悪鬼の生れけるかと驚き、既に害せんとせし処に、母之を見て謂ひけるやうは、なう暫く待ちたまへ思ふ仔細あり、是は十王への申し児なれば、其しるし有りて面の色赤し云々と申されければ、我を助け置き幼名を十王丸と謂へり」とある。祈る仏も多くあった中に、特に閻魔に児を申したというのは、別に近代の母親の相続せざる、一種戦国時代相応の理想があったためかと思う。そうではないまでも大王が事を好み、余計な迷惑を信徒に与えんとしたのでないことだけは、一般にこれを認めていたように見えるが、しかもそれは京都とその附近で、盛んに牙ある赤子を撲殺した時代よりも、またずっと後年の田舎の事であった。
内田邦彦君の『南総之俚俗』の中に、東上総の本納辺の慣習として、鬼子が生まれると歳神様へ上げた棒で叩くとある。これとよく似たことで今日弘く行われているのは赤ん坊があまり早く例えば一年以内にあるき始めると、大きな餅を搗いてこれを脊負わせ、それでもなおあるくと突き倒したりする親がある。鬼子というのは多分歯が生えて産れる子のことであろうが単に殺すことを許されぬ故にこんな方法をのちに代用したものとみても、なお歳神の棒ということには、考え出さねばならぬ深い意味がある。或いは本来はこのうえもない立派な児であるけれども凡人の家にとっては善過ぎるために、その統御を神に委ねるの意味ではなかったか。いずれにもせよ後世の民家で、怖れて殺したほどの異常なる特徴は、同時にまた上古の英傑勇士名僧等の奇瑞として、尊敬して永く語り伝えたものと一致し、さらに常理をもって判断しても、それがことごとく昔の個人生活の長処ばかりであったことを考えると、野蛮な風習だから大昔からあったろうと、手軽に推断することもできぬようである。人間の畸形にも不具と出来過ぎとが確かにある。大男も片輪のうちに算えるのは、いわゆる鎖国時代の平民の哀れな遠慮であろう。蝦夷のシャグシャインやツキノイ、南の小島では赤蜂本瓦や与那国の鬼虎のごとき、容貌魁偉なる者は多くは終りを全うしなかった。それを案じて家にこのような者の生まれるを忌んだのはおそらくは新国家主義の犠牲であった。部曲が対立して争闘してやまなかった時代には、いわゆる鬼の子はすなわち神の子で、それ故にこそ今も諸国の古塚を発くと、往々にして無名の八掬脛や長髄彦の骨が現れ、もしくは現れたと語り伝えて尊信しているのである。
沖繩の『遺老説伝』には次のような話がある。「昔宮古島川満の邑に、天仁屋大司といふ天の神女、邑の東隅なる宮森に来り寓し、遂に目利真按司に嫁して三女一男を生む。夫死して妻のみ孤児を養ふに、第三女真嘉那志十三歳、忽ち懐胎して十三月にして一男を坐下す。頭には双角を生じ眼は環を懸くるが如く、手足は鷹の足に似たり。容貌人の形に非ず。故に之を名づけて目利真角嘉和良と謂ふ。年十四歳の時、祖母天仁屋及び母真嘉那志に相随ひて、倶に白雲に乗りて天に升る。後年屡目利真山に出現して、霊験を示す。邑人尊信して神岳と為す」と。ツカサは巫女を意味しまた多くは神の名であった。カワラは沖繩の按司と同じく、また頭目のことである。先島の神人には角を名につくものが他にもある。すなわち神の子であり、のちまた神に隠されたる公けの記録が、かの島だけにはこれほど儼然として伝わっているのである。殺すということは少なくとも、古代一般の風習ではなかった。