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【柳田國男】山の人生:16【青空文庫・ゆっくり朗読】

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一六 深山の婚姻のこと

昔話の中にもおりおり同じ例を伝えているために、かえって信じうる人が少なかろうかと思うがこれはすでに十七八年も以前に筆記しておいた陸中南部の出来事であってこの小さな研究と深い因縁がある故に、今一度じっと考えて見ようと思うのである。或る村の農家の娘、栗を拾いに山に入ったままかえって来ず、親はもう死んだ者とあきらめて、まくら形代かたしろに葬送をすませてしまって、また二三年も過ぎてからの事であった。村の猟人かりうどの某という者が、五葉山ごようざんの中腹の大きな岩の陰において、この女に行逢ゆきあって互いに喫驚びっくりしたという話である。
あの日に山で怖ろしい人にさらわれ、今はこんなところにきて一緒に住んでいる。げて還ろうにも少しもすきがない。そういううちにもここへくるかも知れぬ。どんなことをするか分らぬというのでろくに話も聞かずに早々に立退たちのいてしまったということである。その男というのは全体どんな人かと猟人が尋ねると、自分の眼には世の常の人間のように見えるが、人はどう思うやらわからぬ。ただ眼の色が恐ろしくて、せいがずんと高い。時々は同じような人が四五人も寄り集まって、何事か話をしてまたいずれへか出て行く。食べ物なども外から持って還るのをみると、町へも買物に行くのかも知れぬ。また子どもはもうなんべんか産んだけれども、似ていないからおれの児ではないといって、殺すのかてるのか、みないずれへか持って行ってしまったと、その女が語ったそうである。
山が同じく五葉山であるから、一つの話ではないかとも思うが或いはまた次のように話す者もあった。女は猟人に向かって、お前とこうして話しているところを、もしか見られると大変だから、早く還ってくれといったが、出逢であってみた以上は連れて還らねばすまぬと、いて手を取って山を下り、ようやく人里ひとざとに近くなったと思うころに、いきなり後から怖ろしい背の高い男が飛んできて、女を奪い返して山の中へ走り込んだともいっている。維新前後の出来事であったらしく、まだその娘の男親だけは、生存しているといって、家の名まで語ったそうである(佐々木君報)。これだけ込入こみいったかつ筋の通った事件は、一人の猟人の作為に出たと思われぬはもちろん、よもや突然の幻覚ではなかろうと思うが、それを確認させるだけの証拠も、残念ながらもう存在せぬのである。ただ少なくとも陸中五葉山のふもとの村里には、今でもこれを聴いて寸毫すんごうも疑いあたわざる人々が、住んでいることだけは事実である。そうして彼らがほぼ前の話を忘れようとするころになると、また新たに少し似たような話が、どこからともなく伝わってくることに、これまではほとんときまっていたのである。
右の珍しい実例の中でことに自分たちが大切な点と考えるのは、不思議なる深山の婿の談話の一部分が女房にも意味がわかっていたということと、その奇怪な家庭における男の嫉妬しっとが、極端に強烈なものであって、わが子をさえ信じえなかったほどの不安を与えていたこととである。すなわち彼らはもし真の人間であったとしたらあまりにも我々と遠く、もしまた神か魔物かだったというならば、あまりにも人間に近かったのであるが、しかも山の谷に住んだ日本の農民たちが、これを聴いてありうべからずとすることができなかったとすれば、そは必ずしも漠然ばくぜんたる空夢ではなかったろう。誤ったにもせよなんらかの実験、なんらかの推理のあらかじめ素地そじをなしたものが、必ずあったはずと思う。現代人の物を信ぜざる権利は、決してこれによって根強い全民衆の迷信を、無視しうるまでの力あるものではないのである。

かつて三河の宝飯ほい郡の某村で、たぬきが一人の若者にいたことがあった。狐などよりは口軽く、むやみにいろいろのことをしゃべるのが、この獣の特性とせられているが、この時も問わず語りにおれはこの村の誰という女を、山へ連れて往って女房にしているといった。でたらめかとは思ったが、実際ちょうどその女がいなくなって、しきりに捜している際であった故に、根ほり葉ほりして隠しておくという場処を問いただし、もしやというので山の中を捜して見ると果して岩穴の奥とかにその娘がいたということである。還ってきてから本人が、どういう風に顛末てんまつを語ったか。この話をしてくれた人も聞いてはおらず、また強いて詳しくその点を究めるまでもないか知らぬが、風説にもせよ世を避けて山に入って行く若い女を一種の婚姻のごとく解する習わしは弘く行なわれていうので、それが不条理であればあるだけに、底に隠れた最初の原因が、ことに学問として尋ねて見る価値を生ずるのである。猿の婿入むこいりの昔話は、前にすでに大要をべておいたが、これにも欺き終おせて無事に還ってきたという童話式のもののほかに、とうとう娘を取られたという因縁話も伝わっている。竜蛇の婚姻に至っては末遂すえとげて再び還らなかったという例がことに多い。黒髪長くまみ清らかなる者は何ぴともこれを愛好する。よわいさかりにして忽然こつぜんと身を隠したとすれば、人にあらずんば何か他の物が、これを求めたと推断するが自然である。特に山男の場合に限って、もくするに現実の遭遇をもってする理由はないのかも知れぬ。ましてや世界の諸民族に共通なる、いわゆるビートス・エンド・ビウティーの物語の、これが根原の動機をなすかのごとく、説かんとすることは速断に失するであろう。また今日までの資料では、強いてその見解を立てるだけの勇気は、自分たちにもまだないのだが、ただ注意してもよいことは日本という国には、近世に入ってからもこの類の話が特に数多く、またしばしば新たなる実例をもって、古伝を保障しようとしていたことである。普通の場合には俗に「みいられた」とも称し、女が何かの機会に選定を受けたことになっており、伊豆の三宅島みやけじまなどには山に住む馬の神がみいったという話もあって、過度に素朴なる口碑は諸国に多く、そうでなければ不思議な因縁がその女の生まれた時から附纏つきまとい、または新たなる親の約束などがあって、自然にその運命に向わねばならなかったように、語り伝えているに反して、別に我々が聴きえたる近年の例は、全く偶然の不幸から掠奪せられて山に入っている。そうしていかにも人間らしい強い執着をもって、愛せられかつ守られていたというのである。それを単なる昔話の列に押並おしならべて、空想豊かなる好事家こうずかが、勝手な尾鰭おひれ附添つきそえたかのごとく解することは、少なくとも私が集めてみたいくつかの旁証ぼうしょうが、断じてこれを許さないのである。

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