今年の夏、建設会社で短期バイトをした時の話だ。
経験不問、日給一万三千円。相場より明らかに高かった。理由を深く考えなかったのは、金に困っていたからだ。面接は雑で、履歴書もろくに見られず、その場で「明日から来い」と決まった。
初日の朝、現場事務所で作業員が集められた。そこで現場監督だという京谷という男に会った。坊主頭で顎髭、目の焦点が合っていない。紹介されると、俺の顔も見ずに言った。
「名前はええわ。どうせ続かんから」
笑いにもならなかった。そのまま、その男の現場に連れていかれた。
到着してすぐ、京谷は俺に言った。
「お前、今から三十分以内に猫の死骸拾うてこいや」
冗談だと思った。聞き返すと、同じ言葉を、同じ調子で繰り返された。
「昨日苦情が出たんや。そいつんちに投げ込むんや」
正気じゃないと思った。猫を殺せと言っている。拒否すると、京谷は舌打ちをして言った。
「あったりまえじゃ。お前が用意するんじゃ」
逃げるように現場を離れ、一時間ほど時間を潰した。戻って「見つかりませんでした」と言うと、京谷は少し苛立った顔で言った。
「じゃあ田んぼからカエル捕まえてこい」
周囲ではカエルが鳴いていた。嘘をつける空気じゃなかった。そこで完全に無理だと思い、バイト代を放棄して帰ると告げた。
京谷は何も言わなかった。ただ、俺の背中を見て、同じ声色で呟いた。
「逃げても一緒やけどな」

その日から携帯に何度も着信が入った。出なかった。アパートに戻ると、表札の名前を書き換えた。
夜、玄関を叩く音がした。ドンドン、と規則正しい音だった。インターホンは鳴らない。叩くだけ。三十分ほど続き、静かになった。
翌日から一週間、友人の家に避難した。
戻ってきて二週間、表向きは何もなかった。ただ、妙なことが一つあった。夜になると、どこからか湿った匂いがする。生臭い、土と血が混ざったような匂いだ。ベランダの下を覗いたが、何もない。
ある夜、夢を見た。京谷が同じ口調で言う。
「お前、猫の死骸拾うてこいや」
目が覚めると、玄関の外で何かを引きずる音がした。ドアの隙間から、黒い影が横切った。猫かどうかは見えなかった。ただ、影は途中で止まり、ドアの前で動かなくなった。
音が止んだまま、朝になった。
玄関を開ける勇気は出なかった。その日は会社を休み、夜まで部屋に籠もった。夜、また叩く音がした。同じリズムだった。
翌日、実家から電話があった。母の声だった。
「昨日ね、変な電話が来たの」
相手は名乗らず、ただ一言だけ繰り返したらしい。
「猫の死骸、まだか」
父は「絶縁状態だから知らん」と言って切ったという。
それから奇妙なことが続いた。近所の掲示板に「動物の死骸を見つけたら管理者まで」という張り紙が出た。ポストに入っていたチラシには、なぜか建設会社の名前と、見覚えのある日給額が印刷されていた。不問一万三千円。
友人の家に避難しても、同じ夢を見た。京谷かどうかわからない声が、同じ言葉を言う。
「猫の死骸拾うてこいや」
ある日、偶然ネットでその会社を検索した。ヒットしなかった。住所は実在するが、そこには空き地しか写っていない。
掲示板の過去ログを漁っていると、古い書き込みを見つけた。十年以上前の日付で、ほとんど同じ体験談だった。文面の中に、同じ台詞があった。
「名前はええわ。どうせ続かんから」
投稿者は、途中で逃げたと書いていた。その後の一文が、妙に引っかかった。
「結局、拾わされたのは俺じゃなかった」
意味がわからなかった。
今も夜になると、どこかで叩く音がする。自分の部屋じゃないかもしれない。隣かもしれない。下の階かもしれない。
ただ、最近気づいたことがある。
叩く音の間隔が、少しずつ短くなっている。
そして、夢の中の声が、俺の声に近づいてきている気がする。
今年の夏のことは、なかったことにしたい。
そう思っている間にも、誰かがどこかで、同じ指示を受けている。
[出典:193:本当にあった怖い名無し2016/09/22(木) 21:25:42.32ID:k6W3+mIJ0]