知人から聞いた怖い話があった。
団地の一室で、不可解な現象が起きていたのだ。
リカちゃん人形のような小さな右手が、何者かによってばらまかれていた。小指の爪ほどの大きさをした、人の手を模した繊細なパーツが、ころりとそこかしこに落ちている。まるで誰かが無機質なメッセージを残すかのように。
話を聞いた男は、当時まだ幼かった。貧しい家庭で育ち、おもちゃを持つ余裕はなかった。新聞紙やチラシ、牛乳パックが唯一の遊び相手だった。だからこそ、不気味な右手の存在が際立っていたのだろう。
そんな家に、ころりと右手が落ちている。
動物に例えられた家族構成は特異だった。ゴリラのような父、猿のような長男、熊のような次男、虎のような三男。そして彼は手のりカピバラと呼ばれていた。母は亡くなっていたが、ナマケモノにそっくりだったそうだ。
そんな男所帯の家に、愛らしいリカちゃん人形があるはずがない。にもかかわらず、右手だけが現れるのだ。
「毎回違うパーツが落ちてくるなら、まだ遊びようもあったのに」
「右手だけじゃなあ」
「いらねー」
大柄な兄たちは平気で拾ってゴミ箱に捨てていたが、小心者の弟は触れることすらできなかった。見つけると慌てて助けを求めた。
天井から大量の右手が降ってきた。
引っ越しの際、段ボールに荷物を詰めていると突然、頭上から何かが降り注いだ。大量の人形の右手だった。弟は悲鳴を上げて飛び退いた。
「うれし、うれし」
天井から、しわがれた声がした。主を探しても影すら見当たらなかったが、笑いを含んだ声は明らかにそこにあった。
「うれし、ねえ」
幽霊か、何者かが喜んでいるように聞こえた。弟が喜ぶと思ったのか、それとも弟の嫌がる様が愉しかったのか。あるいは、彼らが引っ越すことが嬉しかっただけなのか。
後日談
この出来事から数年が経った。彼はすっかり手フェチになっていた。理想の手は白く、ほっそりとしていて、均一な指の太さと縦長の爪。なめらかで柔らかい手が好みだという。これは天井から降ってきた人形の手を、幼い頃から無意識に求めていたからかもしれない。
あるいは、別の可能性がある。
引っ越しの際、何者かが残した言葉は「うれし」だった。喜ぶことを望んだのか、それとも喜びを感じていたのか。しかし、その正体は見えなかった。
もしかすると、それは"憑き物"だったのかもしれない。憑き物は人間を恐れさせるのが楽しみらしい。団地にいた頃から、彼にずっと憑いていたのかもしれない。
引っ越しの際、少しでもその魂を持ち去ろうとしたため、人形の右手をばらまいたのかもしれない。そして、弟が恐怖に怯えた姿を見て、喜んだのだろう。恐ろしい気質が徐々に弟の心を蝕んでいったとすれば、手フェチになったのも不思議はない。
彼は今も、理想の手を探し求めているのかもしれない。しかし、求めているものは憑き物の気まぐれなのかもしれない。もしかすると、憑き物に取り憑かれてしまったのかもしれないのだ。