これは、東京都内に住むAさん(仮名)から聞いた話だ。
Aさんの住む三階建ての小さなマンション。部屋数は少なく、住人同士の交流もほとんどない静かな場所だった。その日も、普段と変わらない平穏な朝を迎えていたはずだった。
きっかけは、ある朝、隣の空き部屋の玄関前に置かれていた一つのコッペパンだった。
ほんの小さな出来事に過ぎない。誰かの悪戯だろうと、Aさんは気に留めず通り過ぎた。しかし、翌日も同じ場所に新しいコッペパンが置かれているのを見たとき、彼の中に薄ら寒いものが広がった。
「誰かがここに毎日置いている?」
奇妙な予感を胸に、管理会社に相談してみるものの、対応はどこか淡白で、特段の進展はない。パンは管理会社に回収されても、翌日にはまた同じ場所に置かれている。置かれる時間もまるで狙ったかのように絶妙で、誰もその瞬間を目撃することができないのだ。
やがて、Aさんはコッペパンの出現が「何者か」による意図的なものだと確信する。週末の休みを利用して自ら監視することを決めた。しかし、一日中玄関に張り付いて見張っていても、何の変化もない。ただ、目をほんの数秒メールに奪われた隙に、パンは忽然と消え、気づけば再び目の前に現れていた。
「人の仕業じゃない……?」
思い浮かぶ可能性をひとつひとつ否定するたびに、不気味な確信が胸の奥に巣食っていく。管理会社に再び連絡を取るも、相手の対応もどこか疑念を含むものになりつつあった。
その後、数日間はコッペパンの出現がぱったりと止まった。Aさんは安堵する一方で、なぜかそれ以上に嫌な予感が募って仕方がなかった。
数日後の早朝、Aさんはある物音で目を覚ました。窓の外を見ると、階下の駐車場に停めていた車のルーフに何かが置かれているのが見える。急いで階段を降り、車に駆け寄ると――そこには、いくつものコッペパンが乱雑に積み上げられていた。
パンの山に埋もれるようにして、薄汚れた小さなメモが一枚挟まっているのが見えた。震える手で拾い上げると、そこには赤黒い文字でこう書かれていた。
「この家には誰もいない。でも、パンは好き。」
顔から血の気が引いていくのを感じた。その日を境に、Aさんはマンションを引き払い、行方知れずになったという。
後に聞いた話だが、そのマンションの空き部屋は数年前から、ずっと貸し手がつかない状態だったらしい。理由は誰も語りたがらなかったが、こう続ける人がいた。
「あの部屋、夜になると誰かがいる気配がするって……。でも、昼間見ても、誰もいないんだよね」
(了)