【オマージュ】田中貢太郎作/狸と同棲する人妻
山形県最上郡豊田村に、沓澤仁蔵という行商人がいた。仁蔵は若いながらも非常に熱心で、毎日のように村々を行商して回っていた。その妻、直は近隣でも評判の美しい女性で、夫婦仲は良好だった。昭和七年の二月、いつも通り家を出た仁蔵が、その日も翌日も帰らず、手紙一通も寄越さなかった。心配した直は心当たりを探し歩いたが、どこにも仁蔵の行方を知る者はいなかった。
四月の雪解けと共に戻った夫
四月に入り、山々の雪が解け始める頃、仁蔵が突如帰宅した。直はその姿を見るなり、「まあ、おまえさん」と叫び、仁蔵にすがって泣いた。仁蔵は「良い商売があったので、先から先へと進んでいた」と説明し、儲けた金を見せた。直はその言葉を信じ、安心した。仁蔵は再び行商に出るが、夕方には必ず帰宅するようになった。
ある日、いつものように夕飯を共にしていた二人の前に、突然、表の障子を蹴破って男が飛び込んできた。手には棍棒を握り、仁蔵に向かって殴りかかる。「な、なにをする」と驚いた直が無法者に立ち向かうと、その男は仁蔵に瓜二つだった。
謎の男と血まみれの狸
直は目を見張り、倒れている夫の仁蔵を見ると、そこには血まみれの大きな狸が倒れていた。直が四月以来同棲していたのは、実は狸だったのだ。一方、行商に出ていた本物の仁蔵は、夢遊病者のように各地を彷徨い、やっとのことで帰宅した。そこで見た光景は、妻の直が大きな古狸と仲睦まじく食事をしている姿だった。驚いた仁蔵は棍棒を掴み、飛び込んで狸を撲殺した。
直はその夜から病気になり、間もなく亡くなってしまった。
狸伝説の背景に潜む真実
豊田村には古くから狸に関する伝説が数多く伝わっていた。特に古狸は、時として人間に化けて村人を惑わすと信じられていた。江戸時代には、村の守護神として崇められる一方で、悪戯をする古狸もいたという記録が残っている。この地方の信仰や伝承は、他の地域にも影響を与え、狸を神聖視する風習が広がった。
アシモフの雑学によれば、狸が人間に化けるという話は、日本だけでなく世界中に存在しており、特にアジアの文化圏では一般的である。例えば、中国では狐が人間に化ける話が多く、韓国でも同様の伝説がある。このような話が生まれる背景には、動物と人間の関係性や、自然への畏敬の念が影響していると言われている。
後日談
仁蔵の帰宅後、村は静寂を取り戻したかに見えたが、その影には新たな謎が潜んでいた。直が亡くなった後、仁蔵は一人で生活を続けていたが、村人たちは次第に彼を避けるようになった。村の長老たちは、直の死因について奇妙な噂を口にし始めた。
ある日、村の祭りの夜、仁蔵は再び姿を消した。村人たちは捜索を始めたが、彼を見つけることはできなかった。その夜、村の外れにある古い神社で、不思議な現象が起こったという報告があった。神社の境内に突如として現れた巨大な狸の影が、月明かりの中で踊り狂っていたというのだ。
数日後、村の老人が古い巻物を持ち出し、村人たちに見せた。それは、江戸時代から伝わる狸の伝説が書かれたもので、巻物には「狸の魂は時折人間の魂と融合し、その魂は永遠に彷徨う」と記されていた。村人たちは、仁蔵の失踪とこの伝説を結びつけて考え始めた。
その後、村の若者たちは、仁蔵の足跡を追いかけるために探検隊を組織した。彼らは村を出て、山を越え、川を渡り、ついに仁蔵が最後に目撃された場所にたどり着いた。しかし、そこにあったのは古びた狸の像だけだった。
その夜、探検隊の一人が夢を見た。夢の中で、仁蔵が微笑みながら「私は今、狸と一つになった」と言い、山の奥へと消えていく姿が映し出された。目が覚めた若者は、この夢が意味するものに恐怖を感じながらも、村へと戻った。
村に戻った探検隊は、仁蔵の話を村人たちに伝えた。その後、村では再び古狸への信仰が復活し、仁蔵の霊を慰めるための祭りが行われるようになった。村の長老たちは、「仁蔵は今もなお、村を見守っている」と語り継いでいる。
こうして、豊田村の行商人と古狸の話は、永遠に村の伝説として語り継がれていくこととなった。