知人から聞いた話(伝聞)
知人の家には犬がいた。
大型の、ふかふかとした灰色の犬だ。しっぽが妙に長く、耳は垂れていた。犬はだいたい家の中で寝ていた。玄関、廊下、キッチンの床、リビングの窓際。そういうところに、ごろんと横になっていた。呼び掛けても返事はしない。気まぐれに長い尾を揺らすことはあったが、それに意味はないようだった。犬は彼女が小学生のころから、高校に上がるころまでの間、家にいた。
これだけ聞くとペットの話のようだが、もちろん違う。その犬は彼女の一家の飼い犬ではなかった。そもそも実在しない犬だった。犬は人が近づいてくると、億劫そうに顔をあげ、あるいは嫌そうに人の顔を見て、ふっと消えた。消える犬は、ただの犬ではない。「ありゃオバケ犬だよ」彼女の家族はそう言っていた。
「消えるくらいなら出てこなきゃいいのに、出てはくるんだから不思議だよね」
彼女は愚痴っぽくそう言った。
「出てくるならさ、触らせてくれたっていいと思わない? うちに勝手に住んでるんだし」
「家賃?」
「そう。家賃代わりにもふらせて欲しかった」
私も犬は好きなので、気持ちはわかる。
「一メートルくらいかな。そこまでは近づけるんだよ」
すぐ近くで見ている分には、消えないのだそうだ。触ろうとすると、嫌そうに消える。
「あとちょっとで触れそうなのに」
知人は触らせてもらえないことが、ひどく不満なようだった。
「なにが嫌ってさあ、床がほんのり暖かいんだよ。犬のいた場所だけ。ぬくもりだけ残してくの」
だから彼女は、たびたび犬のいたあとの廊下に寝転がって、そのぬくもりを全身で感じようとしていたそうだ。
こんなことをするのには、もちろん理由がある。彼女は無類の動物好きだが、動物全般にアレルギーがあり、動物は飼えない。もちろん犬も。
「あいつが触らせてくれたらよかったのになあ」
そうぼやく彼女は、心の底から残念そうだった。
ふかふかの灰色の犬の謎
ある日、知人の家族がその犬について調べ始めた。古い文献や地域の伝承を調べてみると、意外な事実が明らかになった。かつてその地域には、灰色の犬に関する奇妙な伝説が存在していたのだ。その犬は、ある時代に地域の守護神とされており、災厄を防ぐ存在として崇められていたという。犬の姿を見た者には、幸運が訪れるとされていたが、その犬に触れることは禁じられていた。触れようとすると消えてしまう、という話がまるで現実のように語られていた。
その伝説を聞いた彼女は、「まさか」と思った。しかし、伝説と自分の体験が一致することに驚き、ますますその犬の正体に興味を抱いた。知人の家族は、もっと詳しく調べることを決意し、地域の古老や歴史家に話を聞きに行った。
消える犬の真実
地域の歴史家によれば、その犬は「シルヴァンの守護犬」と呼ばれ、古代からその地域を守ってきた存在だという。シルヴァンとは、森の精霊や自然の神を指し、灰色の犬はその使者として、時折姿を現すのだという。歴史家の話では、犬が現れるときは必ず何か大きな変化や出来事が起こる前兆とされていた。
「この犬が現れたということは、あなたの家族や地域に何か特別なことが起こるのかもしれませんね」と歴史家は言った。それを聞いた彼女は、犬がただの幽霊ではなく、何か重要な意味を持っていると感じた。彼女はさらにその犬との接触を試みたが、相変わらず触れることはできなかった。しかし、犬の存在がもたらす温もりや安心感は確かなものであり、家族全員がその存在を受け入れ、共に暮らすようになった。
不思議な体験
ある晩、彼女は夢を見た。夢の中で、灰色の犬が彼女の前に現れ、ゆっくりと近づいてきた。犬は彼女の手のひらに顔を擦りつけるようにして、静かに座った。夢の中で彼女は、犬のふかふかした毛並みを感じ、温かさに包まれた。目が覚めたとき、彼女はその感触が現実のもののように感じた。
「これは何かの兆しなのかもしれない」と彼女は思った。その日から、彼女は犬の存在をさらに身近に感じるようになった。犬が現れる場所には、彼女の心が安らぎ、穏やかな気持ちになるのだ。彼女は犬が家族を守り、見守ってくれていると確信した。
後日談
その後、彼女の家族にはいくつかの変化が訪れた。父親の仕事が成功し、家族は経済的に安定した。母親の健康状態も改善し、家族全員が穏やかで幸福な生活を送るようになった。彼女自身も学業で優秀な成績を収め、希望する大学に進学することができた。
ある日、彼女が大学の研究室で古代の伝承について調べていると、ふとある文献に目が留まった。その文献には、シルヴァンの守護犬に関するさらなる詳細が記されていた。守護犬は、その家族に幸運をもたらすと同時に、大切な教訓を伝える存在だという。犬が現れる理由は、家族が困難に直面したとき、その困難を乗り越えるための力を与えるためであり、その存在を受け入れ、感謝することで、その力が発揮されるのだ。
彼女はその教訓に深く感銘を受けた。犬がただの幽霊や幻ではなく、家族にとっての守護者であり、導き手であることを再確認した。彼女は帰宅後、家族にその文献の内容を伝え、全員で犬の存在に感謝することにした。すると、さらに不思議なことに、犬の姿を見る頻度が増え、家族の絆がより強くなったのだ。
彼女は犬の存在を通じて、多くのことを学んだ。目に見えない存在の重要性や、感謝の気持ちの大切さ、そして家族の絆の力を。この不思議な体験は、彼女の人生に深い影響を与え、彼女はその教訓を胸に、新たな未来へと歩み始めた。犬の温もりは、いつまでも彼女の心に残り続けるだろう。