山人の丈の高いということは、古くからの話であったと見えて、オオヒトという別名も久しく行われていた。これもオオヒトというからには、ちっとやそっとでは承知ができず、見上げるような高い樹の幹に、皮を剥いだ痕があったとか、五六尺もある萱原に、腰から下だけが隠れていたとか、または山小屋を跨いでゆさぶったとか、いろいろな珍しい話を伝えているかと思うと、一方には我々とたいてい同じくらいの、やや頑丈なる体格であったといい、六尺より低いのは見たことがないという類の、穏健なる記録もまたいくらもあったので、きのこか何かででもない以上は、そのような大小不揃いの物があるわけはないから、すなわちこれも又聞きの場合の掛値であったことを、想像しえられるのである。
或いは雨後の泥の上や雪中に印した足跡を見て、その偉大なのに驚いたとも伝えられる。なかにはあんまりえらい大股であるくのを、やはり大昔から人が想像している通り、一本足で飛びまわるのが真らしいと考えていた人さえあった。それらの観察の精確を欠いていることは、論のない話であるが、もともと大きいが故にこれを山男の足跡だろうといった人があるとすれば、すなわち迷信の原因は別にすでにあったものと認めなければならぬ。
しかも日本は古くから、足跡崇敬の国であった。神明仏菩薩勇士高僧の多くが岩石などの上に不朽の跡を遺して、永く追慕を受けている国であった。いわば山人思想の宗教化ということには、正しく先蹤があったのである。我々平民の祖先は、国土平定というごとき記念すべき大事業を、太古の巨神の功績に帰していたのみならず、諸国の地方神に随従して神徳を宣伝したという眷属の小神にも、また大人の名を附与してその遺跡と口碑とを保存し、さらにオオヒトが山にいる異種人の別名なることを知った場合でも、なお単なる畏怖の念以上のものをもって、その強力の跡を拝もうとしていたのである。
東部日本の諸県において、オオヒトといったのは山人のことであった。もちろん大きいからの大人であろうが、その大きさが驚くべく一様でなかった。見た人が次第に少なく、語る人ますます多かりし証拠である。今に至っては実状を確かめることはむつかしいが、区々の異説は及ぶ限りこれを保存しておかねばならぬ。
一 陸奥と出羽との境なる吾妻山の奥に、大人と云ふものあり。蓋し山気の生ずる所なり。其長一丈五六尺、木の葉を綴りて身を蔽ふ。物言はず笑はず。時々村の人家に入来る。村人之を敬すること神の如く、其為に酒食を設く。大人は之を食はず、悉く包みて持帰る也。村の子供時として之に戯るゝことあれども、之を怒りて害を作せしことを聞かず。神保甲作の話なり(『今斉諧』巻四)。
二 上野黒竜山不動寺は、山深く嶮岨にして、堂宇其間に在り。魔所と言ひ伝へて怪異甚だ多し。山の主とて山大人と云ふものあり。一年に二三度は寺の者之を見る。其坐するとき膝の高さ三尺ばかりあり。偶足跡を見るに五六尺もありて、一歩に十余間を隔つと云へり(『日東本草図彙』)。
三 高田の大工又兵衛と云ふ者、西山本に雇はれありしが、一夜急用ありて一人山道を還りしに、岨路の引廻りたる処にて図らずも大人に行逢ひたり。其形裸身にして、長は八尺ばかり、髪肩に垂れ。眼の光星の如く、手に兎一つ提げて静かに歩み来る。大工驚きて立止れば、かの大人もまた驚けるさまにて立止りしが、遂に物も言はず、路を横ぎりて山に登り走りしとぞ(『北越雑記』巻十九)。
四 飛騨の山中にオホヒトと云ふものあり。長は九尺ばかりもあるべし。木の葉を綴りて衣とす。物をも言ふにや之を聞きたる人無し。或猟師山深く分け入りて獣多き処を尋ねけるが思はず此物に逢ひたり。走り来ること飛ぶが如し。遁るべきやうなければせん方無くせめては斯くもせば助からんかと、飢の用意に持ちたる団飯を取出で、手に載せて差出せしに、取食ひて此上無く悦べる様なり。誠に深山に自ら生れ出でたる者なれば、かの洪荒と云ふ世の例も思ひ出でられてかゝる物食ひたるは始めての事なるべしと思はる。暫くありて此者狐貉夥しく殺しもて来り与へぬ。団飯の恩に報いる也けり。猟師労無くして獲物多きことを悦び、それよりは日毎に団飯を包み行きて獣に換へ帰りたり。然るを隣なる猟師之を怪み、窃に窺ひ置きて、深夜に彼に先だち行きて待つに、思はず例の者に行逢ひたり。鬼とや思ひけん弾こめて打ちたり。打たれて遁げければ猟師も帰りぬ。前の猟師此事を聞きて、あな不便の事やとて、猶山深く尋ね入り峰より下を見たるに、此者谷底に倒れ伏し居たるを、同じ様なる者の傍に添ひたるは介抱するなるべし。若し近づきなば他に打たれし仇を、我に怨みやせんと怖しくなりて止みぬ。斯くて後には死にたるなるべしと、後に此事を人に語りしを、人の伝へたりし也。深き山にはかゝる者も有りけるよとて、細井知慎語れり(『視聴草』第四集巻六所録「荻生徂徠手記」)。
巨人の足跡を見て感動した例は、決して支那の昔話だけでない。小田内通敏君が聴いてきて教えてくれた話には、秋田市楢山に住む丹生某氏、狩が好きで方々をあるき、或る年仙北郡神宮寺山の麓の村で、人の家に一泊したところ、一つの紙袋に少しの砂を入れたのが、神棚に載せてあった。主人にそのわけを尋ねると、つい近いころに、山の下を流れる雄物川の岸で草を苅っていると、不意に大きな物音がして、山から飛降りた者がある。よく見たら山男であった。怖ろしいから茅の蔭に隠れていて、のちにその場所に行って見れば、川原に甚だ大きな足跡があった。あまり珍しいこと故、村の人たちを呼んできて見せると、一同は崇敬のあまり、その足跡の砂を取分けて各自の家に持還り、こうして神棚に上げておくのだと答えたそうである。
雪の上に大きな足跡を見たという話はまだ沢山ある。その二三をあげてみると、
一 遠州奥山郷白鞍山は、浦川の水源なり。大峰を通り凡そ四里、山中人跡稀なり。神人住めり。俗に山男と云ふ。雪中に其跡を見て盛大なることを知る。其形を見る者は早く死す(『遠江国風土記伝』)。
二 駿河安倍郡腰越村の山中にて、雪の日足跡を見る。大きさ三尺許、其間九尺ほどづゝ三里ばかり、小路に入りて続けり。又此村の手前に小川あり。此川を一跨ぎに渡りしと覚えしは、其川向二三間にも足跡ありしと。之を山男と謂ひ、稀には其糞を見当ることあるに鈴竹といふ竹葉を食する故糞中に竹葉ありといふ。右の村々は大井川の川上なり。府中江川町三階屋仁右衛門話したり(『甲子夜話』)。
三 小虫倉山、虫倉明神、公時の母の霊を祭る。因つて阿姥明神社とも云ふ。山姥の住めりしといふ大洞二つあり。近年下の古洞に、山居の僧住せしより、山女之を厭ひ去ると謂ふ。其以前は雪の中に、大なる足跡を見たり(『信濃奇勝録』巻二)。
四 文政中、高岡郡大野見郷島の川の山中にて、官より香蕈を作らせたまふとき雪の中に大なる足跡を見る、其跡左のみにて一二間を隔て、又右足跡ばかりの跡ありこれは一つ足と称し、常にあるものなり。香美郡にもあり(『土佐海』続編)。
土佐では山人を一般に山爺と呼んでいる。一本足でおまけに眼も一つだと信じ、これにあったという人さえあった。紀州熊野の深山でも、一たたら、または一本踏鞴などと伝え、かつて勇士に退治せられた話がある。その他の府県でも、山に一本足の怪物がいるという説は多いが、単に雪の上の足跡から、推測しうべきことではもちろんなかった。すなわち実験以前から、そういう言い伝えがすでにあったので、誤信ながらもそれにはまた、別途の説明があったのである。
また雪の上ではなくとも、足跡の不思議は久しい以前から、我々の祖先を驚かしていた。信州戸隠でも大雨ののち、畑などの土に二三尺の足跡のあるのをたびたび見たといい、越後の苗場山でも雨後に山上に登れば、長さ尺余の足跡を見ることがあると、『越後野志』巻六に書いている。播州揖保郡黒崎の荒神山に、萩原孫三郎の墓と伝うる古塚があって、石の祠が安置してあった。嘉永の初年とかに、或る人この辺を拓いて畑としたところが、一夜の中に踏荒して大きな人の足跡があった。そうしてその家は全家発狂してしまったと、『西讃府志』巻五十一に書いている。
『仙梅日記』には駿州梅ヶ島・仙ヶ俣の旅行において、一人の案内者が山中さんに話した。雪の後に山男の足跡を見ることがある。二尺ほどの大足である。門野というところの向う山には、山男が石に歩みかけた足跡がある。岩が凹んで足の形を印している。いかほどの強い力だろうかといったそうである。
こういう人々の心持では、巌石の上に不朽の痕跡を止めることも、大人ならば不可能でないと思ったのであろうが、親しく実際についてみると、ほとんとその全部が山男たちの関与するところではなかった。大人足跡という口碑は、すでに奈良朝期の『常陸風土記』大櫛岡の条にもある。丘壟の上に腰かけて大海の蜃を採って食ったといい、足跡の長さ四十余歩、広さは二十余歩とある。『播磨風土記』の多可郡の条にも巨人が南海から北海に歩んだと伝えて、その踰ゆる迹処数々沼を成すと記してある。そこで問題は我々の前代の信仰に別に大人と名づけた巨大の霊物があって、誤ってその名を山人に付与したのではないかということになるが、もしそうならばこれとともに足跡に関する畏敬の情までも、移して彼に与えたことになるのである。すなわち羽後の農民などが足跡の砂を大切にしたのはむしろ山人史末期の一徴候で、事蹟が不明になったためにかえって一層これを神秘化したものでないかとも思われるのである。
現在の大人足跡は中国に最も多く、四国・紀州等はこれに次ぎ、いずれも地名となって各国数十百を算する。しかし他の地方とても決して絶無ではなく、ことに偉大な足跡は到るところに散在しているが、その或るものは単純にこれを鬼の足跡ともいい、或いはまた大太法師とも唱えている。関東の各地でダイラボッチ、もしくはデエラ坊の話というのもこれで、多くはいわゆる足跡に伴なう伝説である。東京の近郊などにも現にいくつかあるが、全国を通じて大体にこれを二様に区別することができる。その一つは前の駿州仙ヶ俣の場合のごとく、岩石の上に跡を印したもので、不思議は主として石のごとく堅いものを踏み窪めたという点にあり、従って独り山人のみにあらず古来の偉人勇士例えば弁慶・曾我五郎という類の人々までが作者である故に、その形はさして大きくない。そうしてその石はたいてい崇拝せられている。これに反して第二の種類にはいくらでも大きなものがあって、従って鬼物巨霊にのみ托せられる。東京近くでは、京王電車の代田という停留所の辺には、昔大太法師が架けたという橋があり、それからわずか南東にある足跡は、足形こそしてはいるが、面積は約三町歩、内部は元杉林であったが、今では文化住宅でも建っているかも知れぬ。踵にあたるところには地下水の露頭があり、その傍には小さな堂もあった。それからまた東南方には二ヶ処の足跡あり、駒沢村にあるものは更に偉大であった。いずれも泉の噴出に起因する窪地で、形状は足跡とも見られぬことはなかった。上総の鶴枝村で見たものは、小川を隔てて双方の岡の上にあった。その一つはすでに崩れているが、他の一つは約一畝歩、四周の樹林地の中にこれだけが土地台帳で別筆となって、その分を開いて麦か何かが播いてあった。甲州信州辺のデエラボッチャも、たいていは孤立した湿地であったが、そうでない足跡もあるようである。何にしても附近と地形が違って、それがほぼ足形をしておれば、大人の跡といったのである。
大人は富士を脊負うて、いずれへか持って行こうとしたり、または一夜に大湖を埋めようとして簣を以て土を運んだ。その簣の目をこぼれた一塊が、あの塚だこの山だという話はどこにでもある。つまりは古くからの大話の一形式であるが、注意すべきはことごとく水土の工事に関聯し、ところによっては山を蹴開き湖水を流し、耕地を作ってくれたなどと伝え、すこぶる天地剖析の神話の面影を忍ばしむるものがある。古い言い伝えには相違ないのである。大きい行止まりは加賀国の大人の足跡、東は越中境栗殻山の打越に一つ、次には河北郡木越の光林寺の址という田の中、次には能美郡波佐谷の山の斜面、すなわちこの国を三足であるいた形である。いずれも指の跡までが分明で、下に岩でもあるものか、田の中ながらそこだけは草も生えない。それから壱岐の島の国分の初丘にあるもの、爪先北に向かって南北に十二間、幅は六間で踵のところが二間、これを大の足跡と呼んでいる。大昔に大という人、九州から対馬へ渡ろうとして、この中間の島に足を踏立てた。その跡であるという。少し窪んで水が出ている。こんなところは附近に多いと『壱岐名勝図誌』には記している。
大人は九州の南部では、大人弥五郎と称し、また大人隼人などともいっている。八幡神社の眷属のようにもいえば、また昔この大神に治伐せられた兇賊のごとくにも伝えて一定せぬが、一方には山作りや足跡の話もあれば、他の一方には祭の時に、人形に作って曳きあるいている。そうして隼人はまたこの地方では、征服せられたる先住民の総称である。隼人が上代の被征服者であるために、これを大人隼人などと呼んでいるのならば、我々の伝えんと欲する山の人も、オオヒトという別名をえた理由が別になおあったかも知れぬ。しかし考えて行くほどかえってだんだんにむつかしくなるらしいから、もうこの辺で一旦は話をやめておこう。