あの夜から、俺の生は別のものになった。
巡回の足を止めたのは、細く高い女の歌声だった。涙を含んだ声色が夜の庭に漂い、俺の耳を縫い留めた。
辿り着いた先で、白い衣の女が月光を纏い、宙に戯れるように舞っていた。
その瞬間、悟った。噂でしか知らなかった「月姫」――神の化身が、目の前に居たのだ。
声をかけられた時、舌が喉に貼り付いて動かなかった。
名を問われ、俺は名乗ったが、「姫様」と呼ぶと彼女は眉をひそめた。
「偉いのはあなたの方だ」と笑い、俺に命じた――「私を月と呼べ」と。
震える声で「月様」と返すと、呆れたように笑って許してくれた。
その夜から、俺たちは夜の片隅で言葉を交わすようになった。
月はある晩、自分の歌が恋と別れと生を讃える歌であることを話してくれた。
「けれど私はそんな恋をすることはない」と、微笑みながら泣くように言った。
この屋敷で殿の子を産み、生涯を終える。それが彼女の宿命だった。
俺はその場で誓った。必ず彼女をここから解き放つ、と。
だが殿様は俺を呼び、「二度と月姫に会うな」と命じた。
理由は「希望を与えてはならぬ」だった。
俺は食い下がった。殿様はしばし沈黙し、「命を賭けられるか」と問うた。
俺が即答すると、殿様は頷き、「ならばそばに居てやれ」と許した。
その日から、俺と月の時間は少しだけ増えた。
しかし、鬼――グマソが屋敷を襲った。
木戸は粉砕され、武士は咆哮一つで腰を抜かした。鉄のような皮膚は槍も矢も弾いた。
俺は月を抱き、部屋の中で鬼を待った。
斬りかかった刃は弾かれ、次の瞬間、鬼の手が俺を壁に叩き付けた。
意識が途切れる前、月の悲鳴と鬼の笑いが耳を焼いた。
目を覚ますと、女中が顔をそむけた。
殿様は言った。「月姫の救助は諦めろ。討伐隊など組まぬ」
グマソは精鋭も陰陽師も喰い殺し、殿様自身も糞尿を垂らし逃げ帰ったという。
それでも俺は願い、殿様はついに承諾した。
槍と、狐の尾を渡され、「鬼を討てたら月もやる」と告げられた。
鬼の住処の近くで、怪しい巫女装束の女と出会った。
彼女は札を槍に巻きつけ、俺の額に文字を書いた。
「鬼の皮膚を貫けるようにしてやった。月を頼む」と言い、霧のように消えた。
住処の奥で、縛られた月と鬼が俺を待っていた。
槍は確かに鬼の皮を貫いたが、殴られ、吹き飛ばされた。
目を抉り、隙を突き、何度も殴り合った。
鬼は逃げようとしたが、狐の尾に足を取られた。
槍を心臓に突き立てると、鬼は絶叫し崩れた。
月の縄を解いた瞬間、全身から力が抜け、俺は闇に落ちた。
目覚めた時、月が泣きながら抱きついていた。
彼女は、あの巫女が薬を置き、殿様の討伐隊を案内してくれたと教えてくれた。
殿様は「武門の恥だと思った」と言って、俺の後を追ったらしい。
傷が癒えると、盛大な婚礼が行われた。
諸国の代表が祝辞を述べ、武芸者が弟子入りを願った。
そして初夜、俺は言った。「夢みたいだ……」
月は微笑み、「あなたは誇るべきだ。あの鬼を倒したのだから」と返した。
俺は照れながら、「俺だけの力じゃない。月が見てくれていたからだ」と言った。
月は涙を浮かべ、「何も出来なかった自分を殺したいほど憎んだ」と告げた。
俺は彼女を抱き、「俺の恋人になってくれ」と言った。
月は「私もあなたの女になる」と答えた。
「これからは月と呼べ」と笑った彼女に、俺は「わかった、月」と返した。
そして、あの夜の歌を二人で歌った。悲しみの響きはもう無かった。
めでたし――そう言えば物語は締まる。
だが今、夜の闇に揺れる障子の向こうで、あの巫女の声がする気がする。
「まだ、終わってはいないぞ」
月は俺の肩に眠っている。
俺は目を閉じる。けれど、その声は耳の奥で、確かに笑った。
(了)