これは小学五年生の頃の話、一番恐ろしかった。
これ以上の体験は、後にも先にも無い。
内容が内容だけに信じてくれない人も居るが、俺は確かに見た、と思っている。
そして見たのは俺一人じゃない。
親の後に付いて山中の獣道を歩いてた。
季節は夏。周囲は夕闇が迫って来ていた。
陸自空挺レンジャー出身の親父が先導していたので、疲れはしていたけど恐怖は無かった。
頼れる親父であった。
聞こえる音といえば二人の歩く音と木々のざわめき、種類は分からないが鳥の鳴き声と、谷を流れる川の音…だけだと思っていた。
何か、人の声が聞こえた気がした。
でも、特に川の音などは人の声に聞こえる場合もある。
最初はそれだと思っていた。
けれども、気にすれば気にするほど、人の声としか思えなくなってきた。
「とうさん……誰かの声、聞こえない?」
「……」
「誰だろ、何言ってるんだろ?」
「いいから、歩け」
言われるままに、黙々と歩いた。だが、やっぱり声が気になる……どこからしているんだろう?
周囲をキョロキョロしながら歩ていると、谷底の川で何かが動いているのが見えた。
獣道から谷底までは結構な距離がある上に、木や草も多い。
そして夕闇が迫っているので、何かが居たとしてもハッキリ見える筈は無い。
ところが、ソイツはハッキリと見えた。
獣道と谷底の川は距離があるものの、並行したような形になっている。
そして、ソイツは谷底を歩きながら、ずっと我々に付いてきていた。
「お~い、こっちに来いよぉ~!」
谷底を歩く坊主頭の男は、我々に叫んでいた。
ゲラゲラ笑いながら、同じ台詞を何度も繰り返している。
それだけでも十分異様だったが、その男の風体も奇妙だった。
着ているものが妙に古い。時代劇で農民が着ているような服だ。
顔は満面の笑顔。だが、目の位置がおかしい。
頭も妙にボコボコしている。そして、結構な速度で移動している。
ゴツゴツした石や岩が多い暗い谷底を、ものともせず歩いている。
大体、こんな暗くて距離もあるのに、何故あそこまでハッキリ見えるんだろう?と言うより、白く光ってないか、あの人?
小学生の俺でも、その異様さに気付き、思わず足を止めてしまった。
「見るな、歩け!」
親父に一喝された。
その声で我に返る俺。途端に、恐ろしくなった。
しかし恐がっても始まらない。
後はもう、ひたすら歩くことだけに集中した。
その間も谷底からは、相変わらずゲラゲラ笑いながら呼ぶ声がしていた。
気付けば、俺と親父は獣道を出て、車両が通れる程の広い道に出ていた。
もう、声は聞こえなくなっていた。
帰りの車中、親父は例の男について話してくれた。
話してくれたと言っても、一方的に喋ってた感じだったけれど。
「七十八年位前まで、アレは何度か出ていた。でも、それからはずっと見なかったから、もう大丈夫だと思っていた。お前も見ると思わなかった」
「呼ぶだけで特に悪さはしないし、無視してれば何も起きない。ただ、言う事を聞いて谷底に降りたら、どうなるか分らない」
「成仏を願ってくれる身内も、帰る家や墓も無くて寂しいから、ああして来る人を呼んでるんだろう」
大体、こんな感じの内容だったと思う。
その後も、その付近には何度か行ったけれど、その男には会ってない。
今度こそ成仏したんだろうか?
(了)