羽後の田代岳に駆け込んだという北秋田の村の娘は、その前から口癖のように、山の神様の処へお嫁入りするのだと、いっていたそうである。古来多くの新米の山姥、すなわちこれから自分の述べたいと思う山中の狂女の中には、何か今なお不明なる原因から、こういう錯覚を起こして、欣然として自ら進んで、こんな生活に入った者が多かったらしいのである。
そうすると我々が三輪式神話の残影と見ている竜婚・蛇婚の国々の話の中にも、存外に起原の近世なるものがないとは言われぬ。例えば上州の榛名湖においては、美しい奥方は強いて供の者を帰して、しずしずと水の底に入って往ったと伝え、美濃の夜叉ヶ池の夜叉御前は、父母の泣いて留めるのも聴かず、あたら十六の花嫁姿で、独り深山の水の神にとついだといっている。古い昔の信仰の影響か、または神話が本来かくのごとくにして、発生すべきものであったのか、とにかくにわが民族のこれが一つの不思議なる癖であった。
近ごろ世に出た『まぼろしの島より』という一英人の書翰集に、南太平洋のニウヘブライズ島の或る農場において、一夜群衆のわめき声とともに、頻に鉄砲の音がするので、驚いて飛び出して見ると、若い一人の土人が魔神に攫まれて、森の中へ牽いて行かれるところであった。魔神の姿はもとより何ぴとにも見えないが、その青年が右の手を前へ出して踏止まろうと身をもがく形は、確かに捕われた者の様子であった。他の土人たちは声で嚇し、かつ鉄砲をその前後の空間に打ち掛けて、悪魔を追い攘おうとしたがついに効を奏せず、捕われた者は茂みに隠れてしまった。
翌朝その青年は正気に復して、戻って常のごとく働こうとしたけれども、仲間の者は彼が魔神と何か契約をしてきたものと疑い、畏れ憎んで近づかず、その晩のうちに毒殺してしまったと記している。わが邦で狐や狸に憑かれたという者が、その獣らしい挙動をして、傍の者を信ぜしめるのと、最もよく似た精神病の兆候である。
猿の婿入という昔話がある。どこの田舎に行ってもあまり有名であるために、かえって子供までが顧みようとせぬようになったが、じつは日本にばかり特別によく成育した話で、しかも最初いかなる事情から、こんな珍しい話の種が芽をくむに至ったかは、説明しえた人がないのである。三人ある娘の三番目がことに発明で、一旦は猿に連れられて山中に入って行くが、のちに才智をもって相手を自滅させ、安全に親の家に戻ってくることになっているのは、もとは明らかに魔界征服譚の一つであった。今でも落語家の持っている王子の狐、或いは天狗の羽団扇を欺き奪う話などと同様に、だんだんに敵の愚かさが誇張せられて、聴く人の高笑いを催さずには置かなかったのは、武勇勝利の物語に、負けて遁げた者の弱腰を説くのと、目的は一つであって、つまりは猿の婿も怖るるに足らずという教育の、かつて必要であったことを意味している。餅を搗いて臼ながら猿に負わせたり、臼を卸さずに藤の花を折らせたり、いろいろと無理な策略をもって相手を危地に陥れた話であるが、地方によっては瓢箪と針千本とを、親から貰い受けて出て行ったことになっているのは、すなわち蛇神退治の古くからの様式で、猿の方にはむしろ不用なことであった。変化か混同かいずれにしても、竜蛇の婿入の数多い諸国の例がこれと系統の近かったことだけは察せられるので、ただ山城蟹旛寺の縁起などにおいては、外部の救援が必要であったに反して、こちらはかよわい小娘の智謀一つで、よく自ら葛藤を脱しえた点を、異なれりとするのみである。
大和の三輪の緒環の糸、それから遠く運ばれたらしい豊後の大神氏の花の本の少女の話は、土地とわずかな固有名詞とをかえて、今でも全国の隅々まで行われているが終始一貫した発見の糸口は、衣裳の端に刺した一本の針であった。ところが後世になるにつれて、勝利は次第に人間の方に帰し蛇の婿は刺された針の鉄気に制せられ、苦しんで死んだことになっている例が多い。糸筋を手繰って窃かに洞穴の口に近づいて立聴きすると。親子らしい大蛇がひそひそと話をしている。だから留めるのに人間などに思いを掛けるから命を失うことになったのだと一方がいうと、それでも種だけは残してきたから本望だと死なんとする者が答える。いや人間は賢いものだ、もし蓬と菖蒲の二種の草を煎じてそれで行水を使ったらどうすると、大切な秘密を洩してしまったことにもなっている。たった一つの小さな昔話でも、だんだんに源を尋ねて行くと信仰の変化が窺われる。もとは単純に指令に服従して、怖しい神の妻たることに甘じたものが、のちにはこれを避けまたは遁れようとしたことが明らかに見えるのである。しかも或いは婚姻慣習の沿革と伴うものかも知らぬが、猿の婿入の話には後代の蛇婿入譚とともに、娘の父親の約諾ということが、一つの要件をなしている。そうでなくとも堂々と押しかけてきて一門を承知させたことになっていて、大昔の神々のごとく夜陰密かに通ってきて後に露顕したものではなかった。そうして天下晴れて連れて還ったことに話はできている。すなわち山と人界との縁組は稀有というのみで、想像しえられぬほどの事件ではなかったが、おいおいにこれを忌み憎むの念が普通の社会には強くなり、百方手段を講じてその弊害を防ぎつつ、なお十分なる効果を挙げえないうちに、国は次第に近世の黎明になったのである。
狒々という大猿が日本にも住むということはもう信ずることがむつかしくなった。出逢った見たという話は記事にも画にも残っているものが多いが、注意してみると、まるまる幻覚の産物でなければ、必ずただの老猿を誤ってそう呼んだまでである。従って岩見重太郎、もしくは『今昔物語』のちゅうさんこうやのごとき例は、すこしでも動物学の知識を損益するところはないわけである。しかも昔話にまでなって、このように弘く伝わっているのを見ると、猿の婿入は恐らくある遠い時代の現実の畏怖であった。少なくとも女性失踪の不思議に対する、世間普通の解釈であった。どうしてそんな愚かしい事が、信じえられたかと思うようであるが、他に真相の説明がつかなかった時代だから仕方がない。一種の精神病というがごとき漠然たる理由では、今日でもまだ承知する者は少ないのである。正月と霜月との月初めの或る日を、山の神の樹かぞえなどと称して、戒めて山に入らぬ風習は現に行われている。もしこの禁を犯せばいかなる制裁があるかと問えば、算え込まれて樹になってしまうというもあれば、山の神に連れて行かれるなどともいっているところがある。その山の神様はもとより神官の説くがごとき、大山祇命ではなかったのである。狼を山神の姿と見た言い伝えも多いが、猿はその一段の人間らしさから、かつては信仰の対象となっていた証拠もいろいろある。中世なんらか特別の理由があって、その地位は動揺したものらしい。その歴史を今少し考えて見ない以上、多くの昔話の意味がはっきりとせぬのも、やむをえざる次第である。
北国筋の或る大都会などは、ことに迷子というものが多かった。二十年ほど前までは、冬になると一晩としていわゆる鉦太鼓の音を聞かぬ晩はないくらいであったという。山が近くて天狗の多い土地だから、と説明せられていたようである。
東京でも以前はよく子供がいなくなった。この場合には町内の衆が、各一個の提灯を携えて集まり来たり、夜どおし大声で喚んで歩くのが、義理でもありまた慣例でもあった。関東では一般に、まい子のまい子の何松やいと繰り返すのが普通であったが、上方辺では「かやせ、もどせ」と、ややゆるりとした悲しい声で唱えてあるいた。子供にもせよ紛失したものを尋ねるのに、鉦太鼓でさがすというはじつは変なことだが、それは本来捜索ではなくして、奪還であったから仕方がない。
もし迷子がただの迷子であるならば、こんな事をしても無益なかわりに、たいていはその日その夜のうちに消息が判明する。二日も三日も捜しあるいて、いかにしても見つからぬというのが神隠しで、これに対しては右のごとき別種の手段が、始めて必要であったのだが、前代の人たちは久しい間の経験によって、子供がいなくなれば最初からこれを神隠しと推定して、それに相応する処置を執ったものである。
神隠しをする神はいかなる悪い神であったか。近世人の思想においては、必ずしもごく精確に知られてはなかった。通例は天狗・狗賓というのが最も有力なる嫌疑者であったが、それはこのように無造作なる示威運動に脅かされて、取った児をまた返すような気の弱い魔物ともじつは考えられていなかった。
狐もまた往々にして子供を取って隠す者と、考えられている地方があった。そういう地方では狐のわざと想像しつつも、やはり盛んに鉦太鼓を叩いたのであるが、今では単に狐はしばらくの間、人を騙し迷わすだけとして、これを神隠しの中にはもう算えない田舎がだんだんに多くなって行くかと思う。近年の狐の悪戯はたいていは高が知れていた。誰かが行き合わせて大声を出し、または背中を一つ打ったら正気がついたという風で、若い衆やよい年輩の親爺までが、夜どおし近所の人々に心配をかけ、朝になって見ると土手の陰や粟畠のまん中に、きょとんとして立っていたなどということも、またすでに昔話の部類に編入せられようとしているのである。
しかし寂しい在所の村はずれ、川端、森や古塚の近くなどには、今でも「良くない処だ」というところがおりおりあって、その中には悪い狐がいるという噂をするものも少なくはない。神隠しの被害は普通に人一代の記憶のうちに、三回か五回かは必ず聴くところで、前後の状況は常にほぼ一様であった。従って捜索隊の手配路順にも、ほぼ旧来のきまりがあり、事件の顛末も人の名だけが、時々新しくなるばかりで、各地各場合において、大した変化を見なかったようである。
しかも経験の乏しい少年少女に取っては、これほど気味の悪い話はなかった。私たちの村の小学校では、冬は子供が集まると、いつもこんな話ばかりをしていた。それでいて奇妙なことには、実際は狐につままれた者に、子供は至って少なく、子供の迷子は多くは神隠しの方であった。
子供のいなくなる不思議には、おおよそ定まった季節があった。自分たちの幽かな記憶では秋の末から冬のかかりにも、この話があったように思うが、或いは誤っているかも知れぬ。多くの地方では旧暦四月、蚕の上簇や麦苅入れの支度に、農夫が気を取られている時分が、一番あぶないように考えられていた。これを簡明に高麦のころと名づけているところもある。つまりは麦が成長して容易に小児の姿を隠し、また山の獣などの畦づたいに、里に近よるものも実際に多かったのである。高麦のころに隠れん坊をすると、狸に騙されると豊後の奥ではいうそうだ。全くこの遊戯は不安心な遊戯で、大きな建物などの中ですらも、稀にはジェネヴィエバのごとき悲惨事があった。まして郊野の間には物陰が多過ぎた。それがまたこの戯れの永く行われた面白味であったろうが、幼い人たちが模倣を始めたより更に以前を想像してみると、忍術などと起原の共通なる一種の信仰が潜んでいて、のち次第に面白い村の祭の式作法になったものかと思う。
東京のような繁華の町中でも、夜分だけは隠れんぼはせぬことにしている。夜かくれんぼをすると鬼に連れて行かれる。または隠し婆さんに連れて行かれるといって、小児を戒める親がまだ多い。村をあるいていて夏の夕方などに、児を喚ぶ女の金切声をよく聴くのは、夕飯以外に一つにはこの畏怖もあったのだ。だから小学校で試みに尋ねてみても分るが、薄暮に外におりまたは隠れんぼをすることが何故に好くないか、小児はまだその理由を知っている。福知山附近では晩に暗くなってからかくれんぼをすると、隠し神さんに隠されるというそうだが、それを他の多くの地方では狸狐といい、または隠し婆さんなどともいうのである。隠し婆は古くは子取尼などともいって、実際京都の町にもあったことが、『園太暦』の文和二年三月二十六日の条に出ている。取上げ婆の子取りとはちがって、これは小児を盗んで殺すのを職業にしていたのである。なんの為にということは記してないが、近世に入ってからは血取とも油取とも名づけて、罪なき童児の血や油を、何かの用途に供するかのごとく想像し、近くは南京皿の染附に使うというがごとき、いわゆる纐纈城式の風説が繰り返された。そうしてまだ全然の無根というところまで、突き留められてはいないのである。
しかし少なくともこの世評の大部分が、一種の伝統的不安であり、従って話であることは時過ぎて始めてわかった。例えば迷子が黙って青い顔をして戻ってくると、生血を取られたからだと解して悲んだ者もあったが、そんな方法のありえないことがもう分って、だんだんにそうはいわなくなった。秩父地方では子供が行方不明になるのを、隠れ座頭に連れて行かれたといい、またはヤドウカイに捕られたというそうだが、これなどは単純な誤解であった。隠れ座頭は弘く奥羽・関東にわたって、巌窟の奥に住む妖怪と信ぜられ、相州の津久井などでは踏唐臼の下に隠れているようにもいっていた。すなわち普通の人の眼に見えぬ社会の住民ではあったのだが、これを座頭としたのは右のごとき地底の国を、隠れ里と名づけたのが元である。隠れ里本来は昔話の鼠の浄土などのように、富貴具足の仙界であって、祷れば家具を貸し金銭を授与したなどと、説くのが昔の世の通例であったのを、人の信仰が変化したから、こんな恐ろしい怪物とさえ解せられた。多分は座頭の職業に若干の神秘分子が、伴うていた結果であろう。
それからヤドウカイはまたヤドウケと呼ぶ人もあった。文字には夜道怪と書いて子取の名人のごとく伝えられるが、じつはただの人間の少し下品な者で、中世高野聖の名をもって諸国を修行した法師すなわち是である。武州小川の大塚梧堂君の話では、夜道怪は見た者はないけれども、蓬髪弊衣の垢じみた人が、大きな荷物を背負うてあるくのを、まるで夜道怪のようだと土地ではいうから、大方そんな風態の者だろうとのことである。実際高野聖は行商か片商売で、いつも強力同様に何もかも背負うてあるいた。そうして夕方には村の辻に立って、ヤドウカと大きな声でわめき、誰も宿を貸しましょと言わぬ場合には、また次の村に向って去った。旅に摺れて掛引が多く、その上おりおりは法力を笠に着て、善人たちを脅かした故に、「高野聖に宿かすな、娘取られて恥かくな」などという、諺までもできたのである。だんだんこんな者が村に来なくなってから、単に子供を嚇す想像上の害敵となって永く残りその子供がまた成人して行くうちに、次第に新しい妖怪の一種にこれを算えるに至ったのは注意すべき現象だと思う。我々日本人の精神生活の進化には、こういう村里の隠し神のようなものまでが、取り残されていることはできなかったのである。
先頃も六つとかになる女の児が、神奈川県の横須賀から汽車に乗ってきて、東京駅の附近をうろついており、警察の手に保護せられた。大都のまん中では、もとより小児の親にはぐれる場合も多かったろうけれども、幼小な子供が何ぴとにも怪まれずに、こんなに遠くまできていたというは珍しい。故に昔の人もこれらの実例の中で、特に前後の事情の不可思議なるものを迷子と名づけ、冒涜を忌まざる者は、これを神隠しとも呼んでいたのである。
村々の隣に遠く野山の多い地方では、取分けてこの類の神隠しが頻繁で、哀れなることには隠された者の半数は、永遠に還って来なかった。私は以前盛んに旅行をしていたころ、力めて近代の地方の迷子の実例を、聞いて置こうとしたことがあった。伊豆の松崎で十何年前にあったのは、三日ほどしてから東の山の中腹に、一人で立っているのを見つけだした。そこはもう何度となく、捜す者が通行したはずだのにと、のちのちまで土地の人が不思議にした。なおそれよりも前に、上総の東金附近の村では、これも二三日してから山の中の薄の叢の中に、しゃがんでいたのをさがしだしたが、それから久しい間、抜け殻のような少年であったという。
珍しい例ほど永く記憶せられるのか、古い話には奇抜なるものが一層多い。親族が一心に祈祷をしていると、夜分雨戸にどんと当る物がある。明けて見るとその児が軒下にきて立っていた。或いはまた板葺き屋根の上に、どしんと物の落ちた響がして、驚いて出てみたら、気を失ってその児が横たわっていた、という話もある。もっとえらいのになると、二十年もしてから阿呆になってひょっこりと出てきた。元の四つ身の着物を着たままで、縫目が弾けて綻びていたなどと言い伝えた。もちろん精確なる記録は少なく、概して誇張した噂のみのようであった。学問としての研究のためには、更に今後の観察を要するはもちろんである。
愛知県北設楽郡段嶺村大字豊邦字笠井島の某という十歳ばかりの少年が、明治四十年ごろの旧九月三十日、すなわち神送りの日の夕方に、家の者が白餅を造るのに忙しい最中、今まで土間にいたと思ったのが、わずかの間に見えなくなった。最初は気にもしなかったが、神祭を済ましてもまだ姿が見えず、あちこちと見てあるいたが行方が知れぬので、とうとう近所隣までの大騒ぎとなった。方々捜しあぐんで一旦家の者も内に入っていると、不意におも屋の天井の上に、どしんと何ものか落ちたような音がした。驚いて梯子を掛けて昇ってみると、少年はそこに倒れている。抱いて下へ連れてきてよく見ると、口のまわりも真白に白餅だらけになっていた。(白餅というのは神に供える粢のことで、生の粉を水でかためただけのものである。)気の抜けたようになっているのを介抱して、いろいろとして尋ねてみると少年はその夕方に、いつのまにか御宮の杉の樹の下に往って立っていた。するとそこへ誰とも知らぬ者が遣ってきて彼を連れて行った。多勢の人にまじって木の梢を渡りあるきながら、処々方々の家をまわって、行く先々で白餅や汁粉などをたくさん御馳走になっていた。最後にはどこか知らぬ狭いところへ、突き込まれるようにして投げ込まれたと思ったが、それがわが家の天井であったという。それからややしばらくの間その少年は、気が疎くなっていたようだったと、同じ村の今三十五六の婦人が話をしたという(早川孝太郎君報)。
石川県金沢市の浅野町で明治十年ごろに起こった出来事である。徳田秋声君の家の隣家の二十歳ばかりの青年が、ちょうど徳田家の高窓の外にあった地境の大きな柿の樹の下に、下駄を脱ぎ棄てたままで行方不明になった。これも捜しあぐんでいると、不意に天井裏にどしんと物の堕ちた音がした。徳田君の令兄が頼まれて上って見ると、その青年が横たわっているので、背負うて降してやったそうである。木の葉を噛んでいたと見えて、口の端を真青にしていた。半分正気づいてから仔細を問うに、大きな親爺に連れられて、諸処方々をあるいて御馳走を食べてきた、また行かねばならぬといって、駆けだそうとしたそうである。尤も常から少し遅鈍な質の青年であった。その後どうなったかは知らぬという(徳田秋声君談)。
紀州西牟婁郡上三栖の米作という人は、神に隠されて二昼夜してから還ってきたが、その間に神に連れられ空中を飛行し、諸処の山谷を経廻っていたと語った。食物はどうしたかと問うと、握り飯や餅菓子などたべた。まだ袂に残っているというので、出させて見るにみな柴の葉であった。今から九十年ほど前の事である。また同じ郡岩田の万蔵という者も、三日目に宮の山の笹原の中で寝ているのを発見したが、甚だしく酒臭かった。神に連れられて摂津の西ノ宮に行き、盆の十三日の晩、多勢の集まって酒を飲む席にまじって飲んだといった。これは六十何年前のことで、ともに宇井可道翁の『璞屋随筆』の中に載せられてあるという(雑賀貞次郎君報)。
大正十五年二月の『国民新聞』に出ていたのは、遠州相良在の農家の十六の少年、夜中の一時ごろに便所に出たまま戻らず、しばらくすると悲鳴の声が聞えるので、両親が飛び起きて便所を見たがいない。だんだんに声を辿って行くと、戸じまりをした隣家の納屋の中に、兵児帯と褌をもって両手足を縛られ、梁から兎つるしに吊されていた。早速引卸して模様を尋ねても、便所の前に行ったまでは覚えているが、それから先のことは少しも知らぬ。ただふと気がついたから救いを求めたといっていた。奇妙なことには納屋には錠がかかって、親たちは捻じ切って入った。周囲は土壁で何者も近よった様子がなかったという。警察で尋ねてみたら、今少し前後の状況が知れるかも知れぬと思う。
不意に窮屈な天井裏などに入って倒れたということは、とうてい我々には解釈しえない不思議であるが、地方には意外にその例が多い。また沖繩の島にもこれとやや似た神隠しがあって、それを物迷いまたは物に持たるるというそうである。比嘉春潮君の話によれば、かの島でモノに攫われた人は、木の梢や水面また断崖絶壁のごとき、普通に人のあるかぬところを歩くことができ、また下水の中や洞窟床下等をも平気で通過する。人が捜している声も姿もはっきりとわかるが、こちらからは物を言うことができぬ。洞窟の奥や水の中で発見せられた実例も少なくない。こういう狭い場処や危険な所も、モノに導かれると通行ができるのだが、ただその人が屁をひるときはモノが手を放すので、たちまち絶壁から落ちることがある。水に溺れる人にはこれが多いように信じられているそうである。備中賀陽の良藤という者が、狐の女と婚姻して年久しくわが家の床下に住み、多くの児女を育てていたという話なども、昔の人には今よりも比較的信じやすかったものらしい。
変態心理の中村古峡君なども、かつて奥州七戸辺の実例について調査をせられたことがあった。神に隠されるような子供には、何かその前から他の児童と、ややちがった気質があるか否か。これが将来の興味ある問題であるが、私はあると思っている。そうして私自身なども、隠されやすい方の子供であったかと考える。ただし幸いにしてもう無事に年を取ってしまってそういう心配は完全になくなった。
私の村は県道に沿うた町並で、山も近くにあるのはほんの丘陵であったが、西に川筋が通って奥在所は深く、やはりグヒンサンの話の多い地方であった。私は耳が早くて怖い噂をたくさんに記憶している児童であった。七つの歳であったが、筋向いの家に湯に招かれて、秋の夜の八時過ぎ、母より一足さきにその家の戸口を出ると、不意に頬冠りをした屈強な男が、横合から出てきて私を引抱え、とっとっと走る。怖しさの行止まりで、声を立てるだけの力もなかった。それが私の門までくると、くぐり戸の脇に私をおろして、すぐに見えなくなったのである。もちろん近所の青年の悪戯で、のちにはおおよそ心当りもついたが、その男は私の母が怒るのを恐れてか、断じて知らぬとどこまでも主張して、結局その事件は不可思議に終った。宅ではとにかく大問題であった。多分私の眼の色がこの刺戟のために、すっかり変っていたからであろうと想像する。
それからまた三四年の後、母と弟二人と茸狩に行ったことがある。遠くから常に見ている小山であったが、山の向うの谷に暗い淋しい池があって、しばらくその岸へ下りて休んだ。夕日になってから再び茸をさがしながら、同じ山を越えて元登った方の山の口へきたと思ったら、どんな風にあるいたものか、またまた同じ淋しい池の岸へ戻ってきてしまったのである。その時も茫としたような気がしたが、えらい声で母親がどなるのでたちまち普通の心持になった。この時の私がもし一人であったら、恐らくはまた一つの神隠しの例を残したことと思っている。
これも自分の遭遇ではあるが、あまり小さい時の事だから他人の話のような感じがする。四歳の春に弟が生まれて、自然に母の愛情注意も元ほどでなく、その上にいわゆる虫気があって機嫌の悪い子供であったらしい。その年の秋のかかりではなかったかと思う。小さな絵本をもらって寝ながら看ていたが、頻りに母に向かって神戸には叔母さんがあるかと尋ねたそうである。じつはないのだけれども他の事に気を取られて、母はいい加減な返事をしていたものと見える。その内に昼寝をしてしまったから安心をして目を放すと、しばらくして往ってみたらもういなかった。ただし心配をしたのは三時間か四時間で、いまだ鉦太鼓の騒ぎには及ばぬうちに、幸いに近所の農夫が連れて戻ってくれた。県道を南に向いて一人で行くのを見て、どこの児だろうかといった人も二三人はあったそうだが、正式に迷子として発見せられたのは、家から二十何町離れた松林の道傍であった。折よくこの辺の新開畠にきて働いていた者の中に、隣の親爺がいたために、すぐに私だということが知れた。どこへ行くつもりかと尋ねたら、神戸の叔母さんのところへと答えたそうだが、自分の今幽かに記憶しているのは、抱かれて戻ってくる途の一つ二つの光景だけで、その他はことごとく後日に母や隣人から聴いた話である。前の横須賀から東京駅まできた女の児の話を聴いても、自分はおおよそ事情を想像し得る。よもやこんな子が一人でいることはあるまいと思って、駅夫も乗客もかえってこれを怪まなかったのだろうが、外部の者にも諒解しえず、自身ものちには記憶せぬ衝動があって、こんな幼い者に意外な事をさせたので、調べて見たら必ず一時性の脳の疾患であり、また体質か遺伝かに、これを誘発する原因が潜んでいたことと思う。昔は七歳の少童が庭に飛降って神怪驚くべき言を発したという記録が多く、古い信仰では朝野ともに、これを託宣と認めて疑わなかった。それのみならず特にそのような傾向ある小児を捜し出して、至って重要なる任務を託していた。因童というものがすなわちこれである。一通りの方法で所要の状態に陥らない場合には、一人を取囲んで多勢で唱え言をしたり、または単調な楽器の音で四方からこれを責めたりした。警察などがやかましくなってのちは、力めて内々にその方法を講じたようだが、以前はずいぶん頻繁にかつ公然と行われたものとみえて、今もまま事と同様にこれを模倣した小児の遊戯が残っている。「中の中の小坊主」とか「かアごめかごめ」と称する遊びは、正しくその名残である。大きくなって世の中へ出てしまうと、もう我々のごとく常識の人間になってしまうが、成長の或る時期にその傾向が時あって顕れるのは、恐らくは説明可能なる生理学の現象であろう。神に隠されたという少年青年には、注意してみれば何か共通の特徴がありそうだ。さかしいとか賢いとかいう古い時代の日本語には、普通の児のように無邪気でなく、なんらかやや宗教的ともいうべき傾向をもっていることを、包含していたのではないかとも考える。物狂いという語なども、時代によってその意味はこれとほぼ同じでなかったかと思う。