小学生の頃、うちに叔父が転がり込んできた。
父の弟にあたる人で、工場の職を失い、家賃を払えずアパートを追われた挙げ句、行く当てもなくなったらしい。
しょぼくれたスウェットの上下、ぺったんこのサンダル、伸びた髪と無精髭。最初のうちは気を遣っていたのだろう、父にペコペコと頭を下げていたが、月が変わる頃には玄関でゲップをかましながら焼酎のボトルをぶら下げるようになっていた。
だが俺には優しかった。
たまにスーパーでアイスを買ってくれたり、近所の林でクワガタを獲らせてくれたり、釣りに連れて行ってくれたり。
無職の大人が四六時中うちにいるという異物感はあったけど、小学生の俺はそれ以上に、ひとりの時間を割いてくれるこの奇妙なおじさんが好きだった。
ただ、母の態度は冷え切っていた。父も叔父の姿を目にすると眉間にしわを寄せ、台所の冷蔵庫をバンと閉める音が増えた。
その夜のことは、雨の音で始まった。
ぐずぐずと湿った風が襖を撫で、台所から階下に向けての怒鳴り声が聞こえてきた。父と叔父だった。
「いいかげんにせえ!」
「うるせぇ!わかっとるわい……」
そう叫び合ったかと思うと、ドンと何かが倒れる音、そしてドアが乱暴に閉まる音。
足音が階段を駆け上がり、俺は布団の中で息を殺した。来るなよ来るなよと心で唱えながら。
足音は俺の部屋の前を通り過ぎ、隣の仏間で止まった。
障子がピシャッと閉まった。
その翌日。日曜の昼下がり。
両親は店を開けに行ってしまい、家には俺と叔父のふたりきり。
俺は昨日の口論のことなど忘れたふりで、テレビの前に胡坐をかき、母の用意した唐揚げを箸でつまんでいた。
階段の軋む音。叔父が下りてきた。
「おじさん、おはよ〜」と声をかけると、「おう、うまそうやな」と言いながら俺の隣に腰を下ろした。
その笑顔が、どこか虚ろだったことに、このとき気づいていたのかどうか。
「ツトム、釣り行くか」
叔父がそう言ったとき、俺は少しでも叔父の気持ちを和らげたかった。
父に怒鳴られたであろう昨日の記憶がよぎったのだ。だから「うん」と答えた。
仕掛けの詰まった箱、バケツ、釣竿を二本。
俺と叔父は、いつもの滝壺へ向かった。
前夜の雨で川は膨らみ、濁った水が唸るように渦巻いていた。
「今日は釣れんかもね」
「いや、こういうときのほうが釣れるんや。ウナギとか出るぞ」
そう言いながら、叔父は滝壺の奥へ奥へと進んでいく。
俺は、こんなところまで行かなくても……とつぶやきかけたが、口には出さなかった。
「ここでええな」
大岩の前で立ち止まった叔父は、俺を抱き上げ、岩の上に乗せた。
「水の具合はどうや?」
岩の上から見下ろす水面は、乳濁色に濁っていて、魚影ひとつ見えなかった。
「魚、いっちょん見えんよ」
そう言いながら後ろを振り返ったとき、背筋に氷のようなものが這い上がってきた。
すぐ後ろに、叔父が立っていた。
まるで背中を押そうとするような姿勢で。
両手を自分の胸のあたりまで持ち上げ、膝をわずかに曲げ、こちらをじっと見つめていた。
無表情だった。
まばたきもせず、黒目が乾いたように揺れていた。
俺は声も出せず、その目を見つめ返すことしかできなかった。
耳では蝉が鳴いていた。でも、時間だけが止まっていた。
「……おじさん」
声にならない囁きのような言葉が喉から漏れた。
けれど叔父は動かない。
両手をそのままの位置に保ち、俺を見下ろす。
俺の中で何かが折れた。逃げなきゃと本能が叫んだとき――
藪が揺れた。
ザザッ……と音を立てて、ひとりの農夫が現れた。
草刈り鎌を片手に、こちらには目もくれず通り過ぎていった。
叔父の表情がほどけた。
まるで催眠が解けたかのように、目を瞬かせ、姿勢を崩した。
俺は岩を降りながら、「今日は釣れそうにないけん、先帰るね」とだけ言った。
一目散に逃げた。振り返らず、ひたすら駆けた。
まるで、あの目をした叔父が背後に張り付いているようで。
気がつくと泣いていた。
あれほど必死に走ったのは、後にも先にもあれきりだ。
俺は家には戻らず、定食屋を営む両親の店へ向かった。
父と母の顔を見た瞬間、俺の中で張り詰めていた糸がぷつんと切れた。
叔父はその晩、帰ってこなかった。
翌日、父が警察に連絡し、数日後、滝壺で水死体となって見つかった。
「足を滑らせて落ちたんだろう」
そう言って警官は淡々と報告した。
俺は一言も、滝壺でのことを話さなかった。
ただ、仕掛けの詰まった箱の中に、見覚えのある紙切れが入っていた。
叔父の字だった。
そこには、
《ツトムを連れて行く》
とだけ、書かれていた。
(了)