小学生の頃、うちに叔父が転がり込んできた。
父の弟で、工場を辞めさせられ、アパートも追われ、行き場を失ったらしい。最初は低い声で「世話になる」と言い、父の後ろを歩くようにして家に入ってきた。
だが一か月も経たないうちに、台所で勝手に冷蔵庫を開け、昼間から焼酎をあおるようになった。居間にはアルコールの匂いが残り、父の咳払いが増えた。母は何も言わなかったが、食器を置く音が硬くなった。
それでも俺には優しかった。近所のスーパーで安いアイスを二つ買い、一本を無言で差し出す。林に入ってクワガタを探し、網の持ち方を教える。川に連れていき、浮きの動きを一緒に見つめる。
大人の世界からこぼれ落ちた人間が、俺の隣でだけは機嫌よく笑っていた。俺はその笑顔を、どこか誇らしく思っていた。
雨の夜だった。二階の廊下まで湿気が上がり、襖がわずかに波打っていた。階下から怒鳴り声が響いた。
「いいかげんにせえ」
父の声だった。
「わかっとるわい」
叔父の声は濁っていた。何かが倒れ、椅子が床を擦る音がした。足音が階段を駆け上がる。俺は布団の中で息を止めた。足音は俺の部屋の前を通り過ぎ、隣の仏間で止まった。障子が閉まる音が、乾いていた。
翌日は日曜だった。両親は店を開けに出かけ、家には俺と叔父だけが残った。俺はテレビの前で唐揚げをつまんでいた。階段が軋み、叔父が降りてきた。
「おはよ」
「おう」
その顔はいつもと変わらないはずなのに、目の奥だけが空いていた。焦点が合っていないというより、どこにも向いていない。
「ツトム、釣り行くか」
一瞬ためらった。だが俺はうなずいた。昨日の怒鳴り声をなかったことにしたかった。叔父の機嫌を、俺だけは保っていたかった。
仕掛けの箱と竿を二本持ち、いつもの滝壺へ向かった。前夜の雨で川は増水していた。水は濁り、音が太くなっている。
「今日は危ないんじゃない」
そう言いかけたが、飲み込んだ。
「こういうときがええんや」
叔父は靴を濡らしながら奥へ進む。流れは速く、足元の石が見えない。
大岩の前で立ち止まり、俺を抱き上げて上に乗せた。岩は滑りやすく、足の裏がひやりとした。
「どうや、水」
「魚、見えん」
濁った水面には何も映らない。振り返った瞬間、体の内側が冷えた。
すぐ後ろに叔父が立っていた。岩の縁に足をかけ、両手を胸の前で上げている。押すための姿勢に見えた。目は俺をまっすぐに捉えているのに、何も映していない。
「……おじさん」
声は出なかった。蝉の声が遠く、川の音だけが近い。
叔父は動かない。瞬きもしない。時間が伸び、足の裏が岩に貼り付く。
そのとき、藪が鳴った。草を踏み分ける音がして、農夫が現れた。鎌を持ち、こちらを見もせずに川沿いを通り過ぎる。
叔父の肩が落ちた。目に光が戻ったように見えた。
「今日は釣れんかもしれんな」
そう言って笑った。いつもの顔だった。
俺は岩から降りた。「先、帰るね」とだけ言い、走った。川の音が背中に迫る。振り返らなかった。叔父が追ってくる気がして、息が切れても止まれなかった。
店に駆け込み、両親の顔を見た瞬間に泣いた。だが何も言わなかった。言えば、何かが決定してしまう気がした。
その晩、叔父は帰らなかった。翌日、父が警察に連絡した。数日後、滝壺で遺体が見つかった。
「足を滑らせたんやろう」
警官は淡々としていた。
俺はうなずいた。
仕掛けの箱は家に戻ってきた。泥が乾き、金具が錆びていた。父が片づけようとしたとき、中から折りたたまれた紙が落ちた。
叔父の字だった。
《ツトムを連れて行く》
それだけだった。
誰にも見せなかった。紙は俺の机の奥にしまった。何年も経ってから読み返しても、意味は変わらない。
あのとき、叔父は本当に俺を押そうとしたのか。それとも、抱き寄せようとしたのか。農夫が来なければ、どうなっていたのか。わからない。
ただひとつ確かなのは、滝壺の水は濁っていたが、叔父の目のほうがもっと濁っていたということだ。
そして今でも、川の音を聞くと、背中に両手の気配を感じる。押される直前の、あの距離。そこだけが、いまだに決着していない。
(了)