初対面の人に、ときどき「前に会ったことあるよね」と言われる。
社交辞令の一種だと思っていたし、実際そういう顔なのだろうとも思っていた。特徴がない。強い癖もない。記憶に残りやすい要素がない代わりに、誰かの記憶に紛れ込みやすい顔。
だから、子どものクラスに転校してきた子の母親に同じことを言われたときも、特に気に留めなかった。
「ああ、よく言われるんです」と、軽く笑って流すつもりだった。
ところが、その人は話を終わらせなかった。
「○○行きのバスの中ですよ。見かけました」
そう言って、少し首を傾げる。思い出すための仕草というより、確認のための角度だった。
「花束を持っていて、暑い日なのに薄い緑のコートを着ていたから、印象に残ってて」
その瞬間、胸の奥がひっくり返った。
花束。
薄い緑のコート。
それは、前の会社を退職した日の出で立ちだ。
送別会の帰り、形式だけの花束を抱えて、もう着ることはないと思っていた春物のコートを羽織っていた。理由は覚えていない。たしか、捨てるには惜しいと思っただけだ。
その日は蒸し暑く、汗ばんだ手で花の包装紙を何度も握り直しながら、駅まで歩いた。
そして、その会社への通勤には、彼女が言ったのと同じバスを使っていた。
ただし、それは七年前の話だ。
退職してからは一度も、その路線のバスに乗っていない。引っ越しもして、生活圏そのものが変わった。
そもそも、花束を持って外を歩くような用事もない。
「いつ頃の話ですか」
自分の声が、少しだけ低くなったのがわかった。
「引っ越してきてからです」
彼女は即答した。
「先週。平日の昼前でした」
曖昧さがなかった。記憶を捏ねて作った感じもない。
その場で思いついた嘘なら、少しは間が空くはずだ。日付をぼかすはずだ。
私はそれ以上、何も言えなかった。
話題は子どもの学校生活に戻り、彼女は何事もなかったように笑っていた。
家に帰ってから、あの緑のコートを探した。
クローゼットの奥、衣装ケースの中、季節外れの服をまとめた袋。
どこにもなかった。処分した記憶もない。誰かに譲った覚えもない。
数日後、スーパーのレジで並んでいると、後ろの女性に声をかけられた。
振り返ると、見覚えのない顔だった。
「そのコート、きれいな色ですね」
そう言われて、反射的に自分の服を見る。
私は黒いカーディガンを着ていた。緑ではない。
「いえ、前に見たときに」
彼女は言い直した。
「バスの中で。同じコートを着ていましたよね。花束も持っていて」
否定する言葉が、うまく出てこなかった。
彼女はそれ以上話を広げず、会計を済ませて去っていった。
それから、似たようなことが二度あった。
場所も人も違う。ただ、言われる内容だけが一致している。
○○行きのバス。
花束。
薄い緑のコート。
ある日、子どもを迎えに行った帰り、同じクラスの別の母親が何気なく言った。
「この前、あなたそっくりな人を見たんです」
軽い調子だった。噂話の一部のように。
「バス停で。遠くからだったけど、服まで同じでびっくりしました」
「緑のコートですか」
自分でも驚くほど、即座に言葉が出た。
「あ、そうそう。なんで知ってるんですか」
否定も説明もしなかった。
ただ、笑った。
その日の夜、眠れなかった。
七年前の退職の日を思い返す。あのとき、私は何を考えていたか。
会社を出たあと、まっすぐ家に帰ったか。途中でどこかに寄らなかったか。
記憶は、駅までで途切れている。
翌朝、バス停の前を通った。
使わなくなって久しい路線だ。
ベンチに、薄い緑のコートを着た女が座っていた。
顔は、はっきり見えなかった。
ただ、膝の上に花束が置かれていた。
声をかける前に、バスが来た。
女は立ち上がり、乗り込んでいった。
振り返らなかった。
その日以降、私はあのバス停を避けている。
けれど今朝、子どものクラスの別の母親から、何気ない世間話として聞いた。
「○○行きのバス、最近ちょっと不思議よね」
「毎回同じ人が乗ってるんだって。季節外れのコート着て、花束持って」
[出典:255 :可愛い奥様@\(^o^)/:2016/09/10(土) 21:29:16.99 ID:gTmKBJ530.net]