子供の頃、通っていた柔道場は、近隣ではかなり名の通った場所だった。
市内の大会で上位入賞は当たり前、日本代表経験者まで指導に来ることがあり、当時の自分にとっては、それが普通の世界だと思っていた。
けれど、今になって思い返すと、そこに二年間だけ現れた、ひとりの小柄な人物の存在だけは、どうしても説明がつかない。
初めて見たのは、まだ自分が小学校高学年の頃だったと思う。
十代半ば、背丈は百六十センチにも届かないくらい、体重は六十キロに満たない。
正直、見た目は冴えない。漫画の天才キャラのような華もなく、どちらかというと中年に近い顔立ちをした少年だった。
しかしその日、八十キロ超えの現役日本代表を、あっさりと投げ飛ばした。
驚いたのは、その投げ方だ。
速くもないし、力づくでもない。
それなのに、相手は「足がもつれた」「たまたまバランスを崩した」とでも言いたげに、何度も畳に背中を打ちつける。
一度や二度ではない。十回、二十回と、同じことが続くのだ。
あとで聞くと、その家は古い柔術の家系だという。
物心つく前から稽古をしていたらしいが、それにしたって、あの強さは尋常ではなかった。
ゲームもスポーツも平凡で、学校の体育は五段階評価で三。
運動能力が特別高いわけではないのに、なぜか畳の上だけは化け物じみた力を発揮する。
ある日、百三十キロの高校生が稽古に来た。県大会で三位の実力者だ。
その大きな身体が宙を舞った瞬間、道場が静まり返った。
畳に叩きつけられた音が、やけに生々しく響いた。
しかも、それが一度や二度ではなかった。
「崩す」というより、「すくい上げる」ように投げるのだ。
大腰――彼の得意技だった。
ただ、性格には癖があった。
年上の相手には無礼で、酒も平気で飲む。
道場に来た大学の先輩格の強化選手を、何度も足払いで倒しては笑い、途中で話を放り出して同年代と遊び出す。
一方で、自分のような年下の子供には、丁寧に敬語を使い、まるで同じ年頃の大人に話すように接してくれた。
それが妙にうれしく、同時に少し怖かった。
彼は二年ほどで道場に来なくなった。
「大学受かったんだってよ」
噂を耳にしたとき、自分はそれほど驚かなかった。
彼がどこに行っても通用するだろうことは、何となくわかっていたからだ。
だが、時が経ってから、その名字と古武術の流派名を思い出し、調べたときに背筋が冷たくなった。
武道史に名を残す名家。
その家系の何代目かは、あの宮本武蔵が戦いを避けた、と記されていた。
今でも、日本代表経験のある指導者と会うことがある。
彼にあの少年のことを尋ねると、必ず首をひねりながらも「強かったよ」とだけ答える。
その強さを讃えながら、なぜか目を伏せるのだ。
誰も彼をスカウトしなかった理由も、試合に出なかった理由も、結局わからないまま。
ただ、時々思う。
あれは本当に「柔道」だったのか、と。
相手の力を借り、崩して投げるのではない。
もっと根源的で、理屈では説明できない「何か」を使っていたのではないか。
見えない糸で相手の身体を操るような……あるいは、ほんの一瞬だけ時間を止めるような。
もし今、彼と再び畳の上で向き合うことになったら――
次に崩れるのは、相手ではなく自分の方だろう。
そう思うと、なぜか胸の奥がひやりと冷たくなる。
[出典:858 :本当にあった怖い名無し:2010/08/01(日) 03:23:54 ID:yijrwGOi0]