父は若い頃、遠洋航路の船に乗っていた。
港に着くたび、ひとりは船に残る決まりだった。
その日残ったのは、少し頭が弱いと陰で言われていた男だったという。
夕暮れ、桟橋の向こうから老人が現れた。
裸足で、ぼろをまとい、灯りに照らされても顔の輪郭がはっきりしなかったらしい。
「何か食べさせてはもらえんかのう」
男は自分の分の飯を差し出した。
飯と味噌汁と焼き魚。
老人は最後の一粒まで食べ、空になった椀を見つめたまま、男の肩に手を置いた。
「お前は――」
そこから先は、誰も覚えていない。
ただ、その日を境に、男の暮らしは変わった。
仕事を替え、商売を始め、気づけば広い家に住んでいた。
港町では珍しい洋館だったという。
父が再会したとき、男は笑っていた。
けれど、目だけがどこか遠くを見ていたらしい。
「長くは続かん」
それだけ言った。
数年後、家も財産も、家族も消えた。
理由は曖昧だ。
事故とも病とも噂されたが、はっきりしない。
ただ、あの夜のことを思い出すと、男は必ず口を閉ざしたという。
――
祖父の若い頃にも、似たことがあった。
戦後すぐ、商売で当てた祖父の家に、同じような老人が来た。
髪も髭も伸び放題で、足元はひび割れていた。
「何でもいいから、食べるものを」
祖父は台所で炊き立ての飯を出した。
老人は静かに食べ、立ち上がると、家の奥をじっと見つめた。
「……この家は、覚えておく」
祖父は意味がわからず追い返した。
一週間後、家は焼けた。
原因はわからない。
火元も、出火の時刻も、曖昧なままだった。
祖父はその後、何をしても歯車が噛み合わなくなった。
商売は崩れ、借金だけが残った。
――
父の同僚の男と、祖父の家を訪ねた老人。
年も姿も、声も似ていたという。
だが、誰も正体を言い当てようとしなかった。
なぜなら、二つの家には共通点があったからだ。
どちらも、老人が来る前から、妙に順調だった。
どちらも、老人に会う前から、どこか浮いていた。
そして、どちらの家も、その後、急に静かになった。
私は港町を歩くとき、背後に気配を感じることがある。
振り返らないようにしている。
だが、思い出す。
父が最後に言った言葉を。
「あの老人はな、呼ばれた家にしか現れんのや」
誰が呼ぶのかは、聞かなかった。
ただ、最近になって気づいた。
父はあの話を、決まって私の誕生日の前日にする。
そして今年も、もうすぐその日が来る。
[出典:384 :可愛い奥様@\(^o^)/:2014/08/07(木) 08:33:18.22 ID:4JyKYAWk0.net]