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短編 r+ ヒトコワ・ほんとに怖いのは人間

走る少女 r+5,222

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二十年前の夏、まだ美容師見習いだった頃の話だ。

当時、私は日本の五大都市の一つで修行していて、朝から深夜まで休みもほとんど無い日々を送っていた。ようやく年に二回だけ、お盆と正月に数日間の休暇が与えられる。故郷は近かったので、私はいつでも帰省できた。だからこそ、その年のお盆は、寮の先輩に誘われて一緒に彼の地元へ行くことになった。

最後の客を終えたのは夜十一時を回っていて、高速道路をひた走り、彼の地元に着いたのは午前二時を過ぎていた。周囲は畑と林ばかり。県道は舗装こそしていたが、外灯もほとんどなく、ただ車のヘッドライトだけが闇を切り裂いて進んでいく。

そのときだった。視界の端に、何か白いものが動いた。

最初は幻覚だと思った。けれど、ライトが照らし出したその正体を見たとたん、全身が凍りついた。

裸の少女が、側道をこちらと同じ方向に走っていた。

年齢は十七、八。髪は肩まで、痩せた体が夜の湿気をまとって光っている。後ろ姿だったが、はっきりと人間だった。私は絶句した。先輩も無言のまま車を減速させ、再びその姿が見える場所まで戻った。

「幽霊じゃないですよね……」と言うと、先輩が頷き、「ちょっと声かけてみよう」と呟いた。

窓を開けて、私は言った。

「ねえ、大丈夫?何してるの?危ないから、家に帰ったほうがいいよ」

少女は笑った。まるで花が開くような表情で、こう言った。

「こんばんは。気持ちいいですよ」

背筋に、薄く冷たい何かが流れた。

「気持ちいいって……なぜ裸なの?誰かに襲われたりしたら……」

彼女は小さく俯き、ぽつりと答えた。

「家出したんです。……それに、家がどこか分かりません」

近づいてみると、靴と靴下だけ履いていた。やけに白く、無垢に見えた。

先輩と私は彼女を車に乗せ、後部座席に座らせた。ちょうど先輩の彼女のワンピースが積んであり、それを着せた。少しほっとしたのも束の間、少女はとんでもないことを口にした。

「警察は嫌いです。お父さんの味方だから。ホテルのほうがいい。ホテルで私を抱いてください。私、処女なんです」

……言葉が、重く、部屋の空気を押しつぶすようだった。

若かった私たちでも、その言葉の異常さに気づいた。すぐに「無理だ」と伝えると、少女は一枚の紙を差し出してきた。そこには名前と電話番号、そして病院の名前が書かれていた。

それを見た先輩の顔色が変わった。

「……あぁ、あそこか……」

精神病院の名前だった。

電話すると、病院の警備員が出て、まもなく母親からポケベルが鳴った。当時はそれが普通の連絡手段だった。

電話口の母親は、泣きそうな声で何度も謝り続けた。少女の家は近かったが、先輩の実家とは方向が違っていた。

到着すると、母親は疲れきった顔で立っていた。少女は十八歳。十六のとき、実父にレイプされ、その数日後にカッターナイフで父を殺したという。

それ以来、病院に入院し続けている。脱走は三度目だった。

母親は頭を下げ、少女は静かにワンピースの裾を弄んでいた。帰り際、母親が尋ねた。

「……お怪我はありませんでしたか?」

「いえ、大丈夫です」

「……そうですか。よかった……」

何が「怪我」なのか、そのときは深く考えなかった。車に戻り、私たちは無言のまま先輩の家へ向かった。

三日後、仕事場に戻る日。駅まで先輩の妹を車に乗せた。途中で、妹が後部座席からこう言った。

「ねえ、これって……」

「ん?」

「なんで車にカッターナイフ積んでるの……?」

振り返ると、後部座席の足元、ワンピースの裾に、銀色の刃先が覗いていた。

まるで、そこにずっといたかのように。

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