小学六年生の立春の日のことだ。
その日は、暦の言葉とは裏腹に、指先がかじかむほど冷たい風が吹いていた。歌では南国と呼ばれる土地でも、冬はちゃんと冬の顔をする。校門を出てから家までの道は、畑と古い家がだらだら続くだけで、季節の変わり目を感じさせるものは何もなかった。
「〇〇ちゃん」
背中越しに声をかけられて振り返ると、祖母が自転車を押して立っていた。前かごには買い物袋。中身を盗み見しようとした私に気づいたのか、祖母は何も言わず、私の横に並んだ。
「今、帰りかえ」
「うん」
「一緒に帰ろう」
そう言って歩き出した祖母は、急に鼻を上に向けて、くん、と小さく息を吸い込んだ。
「まだやな」
何が、とは言わない。
「何が?」
「春」
私は思わず笑った。春など、どこにも来ていない。空は薄く白んで、風は冷たく、制服の隙間から冷気が入り込む。
「今日、立春やって先生が言いよった」
「人間が決めた日やな」
祖母はそう言いながら、また鼻を鳴らした。
「春はな、土の中におる」
「……虫みたい」
「虫より厄介かもしれん」
祖母は少し声を落とした。
「冬が終わりかけると、土の中に穴が開く。その穴から、ぬくい空気と一緒に、春が出てくる。それが春の穴や」
私は足を止めた。
「穴?」
「見えん。けど、匂いはする」
祖母はそう言って、もう一度深く息を吸った。
「草が腐ったような、湿った匂いや。ええ匂いではない」
「それ、春の匂いなん?」
「そうや」
私は真似をして鼻から息を吸い込んだが、冷たい空気が鼻の奥を刺すだけだった。
「わからん」
「今日はまだや」
祖母は断言した。
「穴がちゃんと開いとらん。近くに開いちょれば、その辺だけ、ほわっとぬくい」
歩きながら、祖母は何気ない口調で言った。
「昔な、春の穴の上に家を建ててしもうた人がおったそうや」
「どうなったん?」
「その家だけ、春が来ん」
冗談のように聞こえたが、祖母は笑っていなかった。
「年中寒くて、草も芽吹かん。理由は誰にも分からん。穴を塞いだからや、っち言う人もおる」
そのとき、ふいに風が止んだ。ほんの一瞬だったが、足元の空気だけが、妙にやわらいだ気がした。
「あれ」
「動くな」
祖母が、私の腕を掴んだ。
「今、吸い込むな」
私は訳が分からず、その場に立ち尽くした。祖母はじっと地面を見つめ、しばらくしてから、ゆっくり息を吐いた。
「……気のせいやった」
そう言って手を離したが、その表情は、どこか迷っているようだった。
家が見えてくる頃、私は鼻を鳴らしてみた。
「今日、カレーの匂いする」
「それは春やない」
祖母は小さく笑った。
「カレーの前じゃ、春も負ける」
その言葉で、その日の会話は終わった。
それから何年も経った。祖母はもういない。
けれど、冬の終わりが近づくと、私は無意識に鼻を動かしている。春の匂いを探しているのだと、あとから気づく。
ある年、仕事帰りに、ふと足を止めた場所があった。何の変哲もない空き地だったが、その一角だけ、空気がぬるかった。
匂いがした。
草が腐ったような、湿った匂い。いい匂いではない。むしろ、気分が悪くなる。
私は、その場から離れなかった。
なぜか、そこを離れてはいけない気がした。祖母が言っていた「吸い込むな」という言葉が、遅れて胸に浮かんだ。
それでも、私は深く息を吸った。
その翌年からだ。
毎年同じ場所だけ、妙に早く草が芽吹くようになった。周囲がまだ枯色のままでも、そこだけ若葉が出る。けれど、触れると冷たい。
別の変化もあった。
私の家だけ、春が来るのが早くなった。暖房を切っても寒くならない。逆に、外が暖かくなっても、家の中は妙にひんやりしている年もあった。
理由は分からない。
ただ、冬の終わりになると、家の中で、あの匂いがする。
祖母の言葉を思い出す。
春は、穴の周りから広がる。
私は最近、思う。
あのとき、私が吸い込んだのは、春だったのだろうか。
それとも、春が出ていく側だったのか。
[出典:怖い話&不思議な話の投稿掲示板/投稿者「凪 ◆gRc5iHyE」 2018/12/01]