嘘かとは思うが何郡何村の何某方と固有名詞が完全に伝わっている。今から三十年ほど以前に、愛媛県北部の或る山村で、若い嫁が難産をしたことがあった。その時腹の中から声を発する者があって、おれは鬼の子だが殺さぬなら出て遣る。もし殺すならば出て遣らぬがどうだと言う。活かして置くのは家の名折れとは思ったが、いつまでも産れないでは困る故に、皆で騙して決して殺さぬという約束をした。そうして待構えていて茣蓙で押えて殺してしまった。角の長さが二寸ばかり、秘密にしていたのを遠縁の親類の女が知って、ついにこの話の話し手にしゃべったのが私にも聴えた。ただしどうしてまたそのような怖ろしい物を孕んだかは、今に至るまで不明であるが、この近傍には鬼子の例少なからず、或る村の一家のごときは鬼の子の生まれる少し以前に、山中に入って山姥のオツクネという物を拾い、それから物持になったかわりに、またこういう出来事があったという。オツクネとは方言で麻糸の球のこと、山姥の作ったのは人間の引いたのとは違って、使っても使ってもなくならぬ。すなわちいわゆる尽きぬ宝であった。
また大隅海上の屋久島は、九州第一の高峯を擁して、山の力の今なお最も強烈な土地であるが、島の婦人は往々にして鬼の子を生むことありと、『三国名勝図会』には記している。「山中に入りたる時頻りに睡眠を催し、異人を夢みることあれば必ず娠む。産は常の如くにしてたゞ終りて後神気快からずと雖死ぬやうなことは決して無い。生れた児は必ず歯を生じ且つ善く走る。仍て鬼子とは謂ふ也」とある。かくのごとき場合には、柳の枝をその児の口にくわえさせて、これを樹の枝に引懸て置くと、一夜を過ぐれば必ず失せてなくなるといっていた。普通の赤ん坊ならば無論活きているはずはないのだが、島の人々は或いは父方に引き取って、養育しているもののごとく考えていたものらしい。前後の状況は甚だしく相違するが、とにかくにこれも一種の神隠しではあった。
日向南部の米良山の中にも、入って働いている女の不時に睡くなるというところがあった。そういう際にはよく姙娠することがあって、これを蛇の所業のごとく信ずる者もあったという。現に近年も某氏の夫人、春の頃に蕨を採りに往ってその事があったので、もしや蛇の子ではないかと思って、産をしてしまうまで一通りならぬ心痛をしたそうである。古い書物に巨人の跡を踏み、或いは玄鳥の卵を呑んで感じて身ごもることありと記したのも、多分はこういう事情を意味したものであろう。気高い若人が夜深く訪ねてきたという類の話にも、最初に渓川の流に物を洗いに降りて、美しい丹塗りの箭が川上から泛んできたのを、拾うて還って床の側に立てて置いたという例があるのを見ると、また異常なる感動をもって、母となる予告のごとく解していた、昔の人の心持が察せられる。ただ村民の信仰がおいおいに荒んできてこういう奇瑞の示された場合にも、怖畏の情ばかり独り盛んで、とかくに生まれる子を粗末にした。大和の三輪の神話と豊後の尾形氏の古伝とは、或いはその系統を一にするかとの説あるにもかかわらず、後者においては神は誠に遠慮勝ちで、岩窟の底に潜んで永く再び出でなかった。その他の地方の多くの類例に至っては、銕の針に傷けられて命終るといい、普通には穴の口に近よって人が立聴きするとも知らず蓬と菖蒲の葉の秘密を漏した話などになっており、嫗岳の大太童のごとく子孫が大いに栄えたという場合は、今ではこれを見出すことがやや難くなっているのである。『作陽志』には美作苫田郡越畑の大平山に牛鬼と名づくる怪あり。寛永中に村民の娘年二十ばかりなる者、恍惚として一夜男子に逢う。自ら銕山の役人と称していた。のちに孕んで産むところの子、両牙長く生い尾角ともに備わり、儼として牛鬼のごとくであったので父母怒ってこれを殺し、銕の串に刺して路傍に暴した。これ村野の人後患を厭するの法なり云々とあって、昔はさしも大切に事えた地方の神が、次第に軽ぜられのちついに絶縁して、いつとなく妖怪変化の類に混じた経路を語っている。そうしていずれの場合にも、銕という金属が常に強大な破壊力であった。屋久島などでもことに鍛冶の家が尊敬せられ、不思議な懐胎には必ず銕滓を貰ってきて、柳の葉とともに合せ煎じて飲むことになっていたそうである。
山に入って山姥のオツクネなるものを拾った故に、物持にもなったかわり鬼子も生まれたという話には更に一段と豊富なる暗示を含んでいるらしい。山姥はなるほど多くの神童の母であり、同時にまた珍しい福分の主でもあったことは、次々にもなお述べるように、諸国の昔からの話の種であったが、特に常人の女性に角ある児を産ましめるために、彼女が干渉すべき必要はなかったはずである。察するところ本来この不可思議の財宝は、むしろ不可思議な童子に伴うて神授せらるべきものであったのを、人が忘却してこれを顧みぬようになってから、山中の母ばかりが管理をすることとなったのであろう。この想像を幾分か有力にするのは、ウブメ(産女)と称する道の傍の怪物の話である。支那で姑獲と呼ぶ一種の鳥類をこれに当てて、産で死んだ婦人の怨魂が化成するところだの、小児に害を与えるのを本業にしているのと、古い人たちは断定してしまったようだが、それでは説明のできない著しい特徴には、少なくとも気に入った人間だけには大きな幸福を授けようとしていた点である。すなわちウブメ鳥と名づくる一種の怪禽の話を別にして考えると、ウブメは必ず深夜に道の畔に出現し赤子を抱いてくれといって通行人を呼び留める。喫驚して逃げてくるようでは話にならぬが、幸いに勇士等が承諾してこれを抱き取ると、だんだんと重くなってしまいには腕が抜けそうになる。その昔話はこれから先が二つの様式に分かれ、よく見ると石地蔵であった石であったというのと、抱き手が名僧でありウブメは幽霊であって、念仏または題目の力で苦艱を済ってやったというのとあるが、いずれにしても満足に依託を果した場合には、非常に礼を言って十分な報謝をしたことになっている。仏道の縁起に利用せられない方では、ウブメの礼物は黄金の袋であり、または取れども尽きぬ宝であった。時としてその代りに五十人百人力の力量を授けられたという例も多かったことが、佐々木君の『東奥異聞』などには見えている。『今昔物語』以来の多くの実例では、ウブメに限らず道の神は女性で喜怒恩怨が一般に気紛れであった。或る者はこれに逢うて命を危くし、或る者はその因縁から幸運を捉えたことになっている。後世の宗教観から見るときは甚だ不安であるためにだんだんと畏怖の情を加えたのだが、神に選択があり人の運に前定があったと信じた時代には、これもまた祷るに足りた貴き霊であったに相違ない。つまりは児を授けられるというのは優れた児を得るを意味し、申し児というのは子のない親ばかりの願いではなかったのである。そうして山姥のごとき境遇に入ってでも、なお金太郎のごとき子を欲しがった社会が、かつて古い時代には確かにあったことを、今はすでに人が忘れているのである。