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中編 小酒井不木

【小酒井不木 傑作選】少年科学探偵(6)~紫外線【ゆっくり朗読】

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水銀石英灯

読者諸君は、塚原俊夫君の取り扱った「紅色べにいろダイヤ」事件というのを記憶していてくださるだろうと思います。その事件を紹介する際、私は俊夫君に金持ちの叔父さんのあることを話しておきましたが、最近俊夫君はこの「赤坂の叔父さん」に実験室の一部を建て増してもらい、そこへ水銀石英灯というものを買ってもらって据えつけたのであります。
どうして、俊夫君が水銀石英灯を買ってもらったかと言いますと、先日俊夫君は、ある外国の犯罪学に関する雑誌を読んで、近頃外国では犯罪の探偵に水銀石英灯がさかんに使用されるということを知ったからであります。
そこで、研究好きな俊夫君は、赤坂の叔父さんに頼んだところ、さっそく叔父さんは快諾して実験室を建て増し、器械を買い入れて備えつけてくださったのであります。
かねて俊夫君はレントゲン線の装置がほしいのでしたけれど、あまりに大袈裟になるゆえ我慢していましたが、水銀石英灯は簡単なものですから、とうとう叔父さんにねだったわけです。

さてここで皆さんに水銀石英灯がどんなものかということをお話ししておこうと思います。水銀石英灯というのは一口にいえば、紫外線と称する一種の光線を発生する器械なのであります。そこで私はさらにさかのぼって、紫外線が何物であるかということを述べる必要があります。
皆さんは日光が通常七色の光線から成っていることをご存じであろうと思います。すなわち赤色、橙色だいだいいろ、黄色、緑色、青色、藍色あいいろ、紫色がこれでありまして、日光光線を分光器で分析しますと、いわゆるスペクトルとなって、これらの美しい色にわかれます。しかし、日光光線には、この七色の光線の他になお眼に見えぬ二種の光線が含まれているのでありまして、通常赤外線、紫外線と呼ばれているのであります。
赤外線はスペクトルの赤色の外部にくらいするという意味であり、紫外線とは紫色の外部に位するという意味であります。
光線は申すまでもなく、光波と称する一種の波でありますが、スペクトルの赤色の方から紫色に向かって漸次その波長が小さくなり、反対に屈折力は大きくなるのであります。そうして赤色の側の光線は温熱的作用を有し、紫色の側の光線は化学的作用を有するのであります。それゆえ赤外線は最も温熱的作用に富み、紫外線は最も化学的作用に富んでいるのであります。
日光が人間の健康を増進するのは、この紫外線の化学的作用によるものでありますから、フィンセン〔(一八六〇~一九〇四)〕という人は、紫外線を発生せしめて色々の病気を治そうと企て、いわゆるフィンセン灯なるものを発明したのであります。ところがこのフィンセン灯なるものは装置が少し大袈裟でありますから、後にクローマイエルという人は、もっと簡単に紫外線を発生する装置を考えたのであります。それがすなわち水銀石英灯なるものであります。
水銀石英灯というのは、その原理を一口に申しますと、真空の石英製の管内に水銀の蒸気をみたし、それに直流の電気を通じて発光せしめるのであります。そうすると水銀は紫外線を発生し、石英はよく紫外線を通過せしめますから、すこぶる簡単に装置することができるのであります。
通常石英灯に要する直流電気は、七十ボルトから二百ボルト位のものであります。実際に装置するにあたっては石英灯が熱しすぎないように水をもって冷却する必要などがありますが、全体はきわめて簡単なものであります。

さて、水銀石英灯は通常病気を治療する目的で使用されているのでありますが、近頃は犯罪の科学的捜査にも使用されるに至ったのであります。そうして犯罪の科学的捜査には、紫外線の化学的作用でなしに、主として物理的作用が応用されるのであります。
紫外線がどういう物理的作用を有するかと申しますと、紫外線は多くの物質に当たりますと一種の燐光りんこう様の光を発生せしめるのであります。この燐光様の光は、紫外線の当たっている間光るのと紫外線を当てることを止めてからもなおしばらくの間光っているのとがあるのであります。
そうしてこの後者、すなわちいったん紫外線を当てると、紫外線を当てることを止めてからでもなおしばらくの間、光っている物質の方がはるかに多いのであります。
紫外線に当たって光るものはどんなものかといいますと、多くの自然の産物がそれであります。そうして、その自然の産物を人工的に模倣したものは光らないのであります。
たとえば、人間の歯は、紫外線に当たって光りますけれど、他の物質で作った義歯いればは光りません。また、象牙や骨などは光りますけれども、象牙に似せて作ったものは光りません。また、天然に産するダイヤモンドは光りますけれども、ガラスで似せて作ったのは光りません。
それゆえ紫外線に当てて見れば、ダイヤモンドの真偽はすぐに鑑別することができるのであります。
なおまた多くのアニリン色素は、紫外線に当たるときわめて美しい光を発します。それゆえ染物の鑑定などにも紫外線は応用されるのであります。
なおまた同じ原理によって書画の真偽の鑑定をすることもできるのであります。この他なお穀物の粉末なども、紫外線に当たるとやはり光りはじめるのであります。

俊夫君は、叔父さんから水銀石英灯を買ってもらった当座、毎日、実験室にこもって色々のものを持ってきては紫外線を当て、電流の強さを色々に加減して深い研究を行い、いちいちそれを手帳ノートブックに書きとどめておりました。
人間の髪の毛とか動物の毛とかあるいは血液とか尿とか、あるいは各種の絵の具とか、手紙に用いる封蝋ふうろうとかあるいは衣服の繊維など手当たり次第に研究し、しかもある場合には立派に鑑別ができるので、俊夫君は有頂天になって喜び、それこそ寝食を忘れて実験室にとじこもり、十数日の後にはもう紫外線通となってしまいました。
「兄さん、何か一つ大事件があってほしいものだねえ。こんどはこの紫外線を使って探偵してみたいから」
とある日――それは四月のことでした――俊夫君は私に向かって言いました。
「そうだねえ、大事件といえば、この頃銀座の××宝石商を襲ったぞくはいまだに逮捕されないじゃないか。どうだね、あの事件など、紫外線では解決できぬかね」
と私は冗談半分に笑いながら申しました。
銀座の××宝石商は、東京でも屈指の大店おおだなで、時価八十万円の首飾りが、一夜盗賊のために盗み去られたのであります。
警察では非常な活動をしているのですけれど、二週間余を過ぎた今日盗賊はもちろんのこと、首飾りがどこにあるかということもさっぱり分かりません。犯行の現場げんじょうにも何の手掛かりも発見されず、金庫はアセチレン吹管すいかんで破壊されておりましたが、ただ賊が外部から侵入したことだけは確かだそうであります。
俊夫君も私の言葉を聞いてにっこり笑いましたが、またたちまち真面目顔になりました。
「僕はこの頃中、紫外線の研究に一生懸命になっていて、犯罪事件の研究はそっちのけになっていたよ。なるほど兄さんの言うとおり、あの事件は面白そうだね。ひとつPのおじさんにその後の経過を聞いてみるかな。兄さん、ちょっと電話をかけてくれないか」
私が立ちあがろうとすると、ちょうどそのとき実験室のドアを叩く音がしました。開けてみると、来訪者は驚いたことに、「Pのおじさん」すなわち警視庁の小田刑事でありました。
「やあ、ちょうど今、あなたのお噂をしていましたよ」
と私が言いました。
「そうかね」
と小田さんはにっこり笑って中へ入り、やがて俊夫君と対座しました。
「Pのおじさん、銀座の宝石事件はどうなったですか?」
と俊夫君は尋ねました。小田さんは顔を曇らせました。
「まださっぱり見当がつかない。どうも、今まで取り調べたところによると、そこらにうろついている盗賊とは違うらしいのだよ。ことによると、東京市中に堂々たる邸宅をかまえている人間であるかもしれない。
だから今は、その方針で捜しているのだが、中々はかどらないよ。――それはまあ、それとして実は昨夜妙な事件が起きたので、それについて俊夫君の知恵を借りにきたのだよ」
こう言って小田さんは俊夫君の顔を見つめました。すると俊夫君の眼は急に輝きだしました。
「それは何ですか?」
と俊夫君は尋ねました。
「実はね、昨夜須田町の電車停留場で、一人の男が電車にかれて死んだのだ。男は二十五六で洋服を着ていたが、ポケットの中には、蟇口がまぐち手巾ハンカチとが発見されたばかりで、その他には手帳も何もなく、さっぱりその身元が分からないのだ。
洋服にも手巾ハンカチにも姓名が書いてないので、とりあえず警視庁へ死体を運んだのだが、今日になっても身元は分からない。ところが、その蟇口がまぐちの中には十二円五十三銭の金と、他に黒い色をした紙が一枚入っていたのだ。
その紙には、白い絵の具である文句が書かれてあるのだが、その意味がどうしても分からないのだ。警察のものが、頭を搾って考えても分からぬので、俊夫君に読んでもらおうと思ってきたのだ」
こう言って、小田さんはポケットから、一枚の黒い紙を取りだしました。それは三寸四方位の大きさの紙でした。

八十万円の首飾り

小田さんは、黒い紙と同時に、なお一枚の写真を取りだしました。
「これが須田町で、ゆうべかれた男の死に顔だ」
と申しました。俊夫君はしばらくその写真を眺めてから、黒い紙を取りあげました。それは黒く染めた日本紙で、その上に毛筆ふでで、白い絵の具をもって、次の文字が書かれてありました。

やかしぬもつれ
きためほんとり
すけなをびえね
つまけらますむ
ちまとへよぼに
ばりでのぶおす
るくはてさたこ

俊夫君は一生懸命に見つめていましたが、さすがに、分かりかねたと見えて、額に皺をよせました。
「どうだね? 俊夫君。逆さまに読んでも、はすに読んでも、一字おきに読んでも、さっぱり、意味をなさぬじゃないか」
俊夫君はそれには返事をしないで、熱心に研究していましたが、やがて、立ち上がって、
「ちょっと待ってください」
と言いながら、紫外線装置のあるへやに入ってゆきました。次の瞬間、紫外線を使用する特殊の音が聞こえてきました。
およそ七分ばかり過ぎて、俊夫君は戻ってきましたが、その顔は愉快げな色に輝いていました。
「Pのおじさん、読めましたよ」
「え、分かった? 何という意味?」
「こういう文句です」
と言って俊夫君は、手帳ノートブックの中に書いた鉛筆の文字を示しました。

本郷区湯島新花町二十六番地の一
二階北窓の下

小田さんは、あまりのことに目をぱちくりさせました。
「いったい、どうして、あの文字が、こういう風に読めるね?」
と息をはずませて尋ねました。
俊夫君はにこりと笑い、「こちらへ来てください」と言って、小田さんを紫外線装置のあるへやに導きました。私も続いて入りました。言うまでもなく、この室は暗室作りで、俊夫君が電灯を消すと、まっ暗になりました。それから俊夫君はスイッチをねじりましたが、それと同時に水銀石英灯は美しい紫色の光を出しました。
俊夫君はさっきの黒い紙片をその下に置いて照らしましたが、不思議にも白い文字とは無関係に、前記の「本郷云々」の文字が蛍光を発してあらわれました。
「これは、この黒い紙に、アニリン色素で書いたものです。だから普通の光線では見えません。しかし、アニリン色素は紫外線に当たると、このとおり蛍光を発するものです」
と俊夫君は言いました。
「なーんだ。すると、この白い文字は人目を迷わせるつもりで書いたのか?」
小田さんは太息ためいきをついて申しました。
「そうですよ。だから逆さまに読んでもはすに読んでも意味をなさぬのです」

私たちは暗室を出て再び応接室に戻りました。
「いったい、この本郷云々という所書きは何でしょう?」
と私は小田さんに尋ねました。
「そうだねえ、死んだ男の住所かもしれないねえ」
と、小田さんは頭をかしげて答えました。すると俊夫君は、
「とにかく、ここを今から訪ねてみようじゃありませんか」
と申しました。
私たちは、直ちに支度をして自動車を雇い、湯島新花町をさして走らせました。
二十六番地の一は、ある閑所のつき当たりの二階造りの家でしたが、驚いたことに、表の格子に、「貸し家」の札が貼られてありました。隣の家で聞いてみると、この家は、夜になると時々人の歩くようなもの音が聞こえるので、化け物屋敷だと言って、久しく借り手がないということでした。
しかし家主おおやが一軒置いて隣にありましたので、小田さんは許可ゆるしを得てきて、私たちは、空き家の中に入りました。表の戸には錠が下ろしてなく、家の中はずいぶん荒らされておりました。
俊夫君はつかつかと二階へ上がりました。俊夫君は化け物などを信じないから少しも怖くはないのです。二階は六畳と三畳の二間からなり、三畳の方に、北に画した窓が一つありました。「北窓」とあるのはそれに違いありません。
しかしその北窓の下には、畳があるばかりで何の変わったこともありませんでした。俊夫君はひざまずいて、あたりを眺めまわしましたが、もとより何物も発見することができませんでした。
「兄さん、畳を上げてください」
と、しばらくしてから俊夫君が申しましたので、私は畳を上げました。
と、そのとき私はアッと言って、もう少しで畳を手からすべらすところでした。というのは、その畳の下の板にできているくぼみの中に、きらきら光る蛇のように、ダイヤモンドの首飾りがとぐろを巻いて横たわっていたからであります。
私たちは思わず顔を見合わせました。
俊夫君は、その首飾りを取りあげて、小田さんに渡し、
「どうです、これに心当たりはありませんか」
と尋ねました。小田さんはしばらくそれをいじっておりましたが、やがて、
「どうもこれは銀座の××宝石商から盗みだされた、例の八十万円の首飾りらしい」
と、答えました。
「そうですか、それではこれからすぐ、銀座へ行きましょう」
こう言って俊夫君は、さっさと降りかけたので、私たちも続いてその家を出ました。
私たちは、待たせてあった自動車に乗って銀座をさして走らせました。通り過ぎる両側の家の庭に、ところどころ遅桜が美しく咲いて、うららかな午後の陽が静かに照りわたっておりました。
程なく私たちは銀座の××宝石商に到着しました。でっぷり太った赤ら顔の主人は、小田さんの顔を見るなり、私たちを奥の一室に請じ入れました。
小田さんは、ポケットから、首飾りを取りだして、主人の前に差しだしました。
「やッ」と感嘆の声を発して、主人はそれを手に取って見ましたが、しばらく眺めている間に、顔に失望の色があらわれました。
「これは私の家で盗まれた首飾りの模造品でございます」
と、力なげに答えました。
「え? 模造品? では贋物ですか?」
と小田さんは眼をまるくして尋ねました。
「そうでございます。実はこの模造品も、私の家で作らせたのでございます。一体どうしてお手に入りましたか?」
そこで小田さんは、これを発見した順序を簡単に話しました。そうして最後に、この模造品が誰の所有であるかを尋ねました。
宝石商の話すところによると、先日盗まれた首飾りというのは、実は麻布の△△侯爵夫人の所有であったが、ゆえあって宝石商が買い受け、夫人の求めによってその模造品を作って、本物の代わりに納めたということでありました。
実はこのことは侯爵夫人のために警察の人にも秘密にしていたのですが、こうして、模造品が警察の人の手に渡れば、秘密にするのはかえって捜索をさまたげるかもしれぬから、何もかも申し上げるのですと、主人は付け加えて言いました。

私たち三人はそれから宝石商の家を辞して、その首飾りをもってさらに自動車を麻布の△△侯爵邸に走らせました。侯爵邸は見たところこじんまりとした家で、かなりに広い庭に取り囲まれておりました。
警視庁から来たと執事に申し出たので、侯爵夫人が直接に会ってくれました。夫人はきわめて質素な着物を着て快く語りました。挨拶がすむと小田さんは、首飾りを出して、
「これはお宅さまのものではございませんか」
と、尋ねました。
「まあ!」
と夫人は軽い叫び声をあげました。
「どうしてこれが……これは、一昨日おととい盗まれたのでございます。一体どこにございましたか」
「実は妙なところで見つけたのでございますが、取り調べの結果、お宅様のであると分かりましたので、お伺いしたわけでございます。一体どうして盗まれなさったのでございますか」
夫人はさっと顔を赤らめて言いました。
「その首飾りは、ご承知かもしれませんが、模造品なのでございます。ところが、私の家に雇ってあった書生は、それを本物とでも思いましたものか、一昨日盗んで逃げたのでございます。本物はもはや申すまでもありますまいが、××宝石商でこのごろ盗まれたのがそれでございます」
「その書生さんはいくつくらいの男でしたか?」
「二十五だとか言っておりました」
小田さんは、それを聞くなり、ポケットから死んだ男の写真を取りだして夫人に見せました。
「その書生さんはこの男ではないでしょうか」
夫人は写真を見るなり、アッと言いました。
「まあ、これです、これです、これが書生の村田です。一体どうして村田が死にましたか?」
と、夫人は呼吸いきをせわしくして尋ねました。

白昼の殺人

小田刑事は、侯爵夫人に向かって、書生の村田は須田町の停留場で電車にかれて死んだ顛末と、模造首飾りの発見された次第とを物語り、最後に、
「で、村田君はいつ頃こちらへ雇われてきましたか」
と尋ねました。
「今月の十日に参ったばかりでございます」
これを聞いた小田刑事は、俊夫君を顧みて言いました。
「すると、銀座の××宝石商へ盗賊が入った五日あとだ」
今まで、侯爵夫人と小田刑事との会話を黙って聞いていた俊夫君は、このとき侯爵夫人に向かって、
「その村田という書生は、誰の紹介でお雇いになりましたか」
と尋ねました。
「麹町富士見町の木村先生の紹介です」
「木村先生とおっしゃると、あの有名な医学博士の木村病院長ですか」
「そうです、木村先生はうちの者が病気のとき、いつもご厄介になります」
俊夫君はこのとき何思ったかにこりと笑いました。その笑いは、俊夫君が、何か手掛かりを得たときにもらす笑いでした。
そのとき表通りの方から、号外配りの鈴の音が聞こえてきました。俊夫君はちょっと聞き耳をたてましたが、さらに言葉を続けました。
「木村博士へは、もう、書生の逃げたことをお話しになりましたか」
「いいえ、まだお話ししません」
すると、俊夫君は小田刑事に向かって言いました。
「では、これから木村病院へ行きましょう」
この時、執事が一枚の号外を手にして、あわただしく入ってきました。
「奥さま、大変です。木村先生が殺されなさったそうです」
「えッ」と言って、侯爵夫人は飛びあがりました。そうして執事の差しだした号外を、急いで読んでから、無言のまま小田さんに渡しました。

   木村病院長白昼殺害さる

麹町区富士見町×丁目木村病院々長医学博士木村貞一氏(四二)は本日午後二時頃、同病院応接室で、何者かのために、心臓部を刺されて即死した。同氏の死体は看護婦の一人によって発見されたが、犯人は誰とも分からず、急報により警視庁より白井刑事をはじめ、警察医、写真班等がかけつけて捜索に従事し、一方市内には非常線を張って犯人厳探中である。

小田刑事が以上の号外記事を読み終わると、俊夫君は、
「Pのおじさん、いよいよ事件が複雑になりましたねえ」
と申しました。
「え? すると君は、木村博士の死と首飾り事件と関係があると思うのか」
「ありますとも」
「どうして?」
「そのことは、まあ、あとでゆっくりお話ししましょう。とにかく、僕に、木村博士殺害現場げんじょう捜査の許可を得てください」
私たちは侯爵夫人にいとまを告げ、模造首飾り事件の片づくまで小田さんが預かることにして侯爵邸を出て、自動車を警視庁に走らせ、小田刑事の骨折りで警視総監から許可を得て、日の暮れ方に、木村病院に駆けつけました。
木村病院の応接室すなわち木村博士殺害の現場には、白井刑事が、今一人の刑事と二人で、医員や看護婦を尋問しておりました。警察医は、すでに検死を終わったと見えて、木村博士の死体は応接室のテーブルの上に置かれて、白布がかけてありました。
白井刑事は俊夫君の顔を見て、皮肉な笑い方をしました。かの「ひげの謎」事件があってから俊夫君には一歩を譲っているのですが、こんどは俊夫君には負けまいという色が明らかに顔にあらわれました。しかし、俊夫君は至って無邪気に挨拶をして、応接室の正面にかけてある古びた額に眼を注ぎ、
「これが木村博士の肖像ですか」
と尋ねました。看護婦がうなずくと、俊夫君は、ほとんど実物大と言ってよいくらいの半身写真をじっとながめ、それから白布をまくって一礼し、博士の死体を検査しました。まず顔からはじめて身体からだじゅうをよく観察し、心臓部の傷口をあらためました。一同は黙って俊夫君のするところを見つめました。最後に俊夫君は何思ったか、死体の顔と、写真の顔とをしきりに見比べていましたが、やがて、白井刑事に向かって、
「これは、たしかに木村博士の死体ですか?」
と尋ねました。私たち一同は、この意外な質問にびっくりしました。白井刑事も、あまりのことにあきれたような顔をして、
「俊夫君、冗談を言ってはいけないよ。僕らは犯人を一刻も早く捜さねばならぬから、そんな質問には相手になっていられぬよ」
「そうですか。しかしこれが木村博士の死体か死体でないかを決めなければ、犯人は分からぬはずです」
「妙なことを言うねえ、看護婦さんたちは今朝けさまでこの木村博士と一緒にいたのだし、だいいち写真と見比べたって分かるじゃないか」
俊夫君は傍らにいた看護婦に向かい、
「すみませんが、脱脂綿にアルコールをしませてきてください」
と頼みました。
看護婦がアルコールをしませた脱脂綿を持ってくると、俊夫君はそれを受け取って、死体の顔の右の頬にある黒子ほくろの上をぬぐいました。
すると、どうでしょう。俊夫君が数回拭っていると、黒子ほくろは消えて、綿に黒いものが付きました。一同は、あッと驚きました。その時、俊夫君は得意げに、
「皆さん、殺されたのは本当の木村博士ではありません。おそらく、木村博士の双生児ふたごの兄弟でしょう」
と、申しました。

それからみんなが、どんなに騒ぎだしたか皆さんにも想像ができるでしょう。
白井刑事は、一時呆然としていましたが、死体の黒子ほくろ黒子ぼくろであったとすれば、俊夫君の想像が正しいので、看護婦や医員たちを尋問して事情を聞いてみますと、二ヶ月ほど前から先生の様子が以前と少し変わってきたようだったと、みんなは口を揃えて申しました。しかし、木村博士は独身であって、両親もなく、誰も博士に双生児ふたごの兄弟があることを知りませんでした。
「すると本物の博士はたぶん二ヶ月ほど前に殺され、この人が替え玉になっていたのでしょう」
と俊夫君は言いました。そうして、俊夫君は小田刑事に向かい、
「いよいよ、ますます事件は複雑になってきましたが、どうやら、もうじきに万事が解決されるように思います」
と言い、さらに看護婦に向かって、
「この病院には紫外線治療室があるでしょう。どうか、そのへやへ案内してください」
と、申しました。
看護婦の案内によって私たちは、紫外線治療室へ行きました。そこには俊夫君の持っているような水銀石英灯があって、中央には一台のベッドが置かれ、壁の一面には、薬品棚や書棚が備えつけられてありました。
俊夫君はそれらのものをいちいちしらべておりましたが、やがて、書棚から一冊のノートブックを取りだしました。それは黒い日本紙を綴じたもので、中を開いてみても何も書いてありませんでしたが、俊夫君が水銀石英灯を点じて照らしますと、紙面に、蛍光を発して文字があらわれました。
「日記ですよ」
誰に言うともなく、こう言って俊夫君は熱心に各ページをはぐって読みました。
およそ三十分もかかって、その日記を読み終わり、看護婦に向かって、
「今日、本郷の田中病院長が見えたでしょう?」
と尋ねました。
「ええ、正午ひる過ぎに見えて、たしかすぐお帰りになったようでした」
それを聞くなり俊夫君は、白井刑事に向かい、
「田中病院長をすぐさま逮捕してください」
と、申しました。

読者諸君、逮捕された田中病院長は果たして、木村博士の替え玉を殺した犯人でした。そうしてその白状によって一切の事情が明らかになりました。木村博士の替え玉は、俊夫君の推定のごとく、博士の双生児ふたごの兄弟でした。
兄弟ではあっても博士とはまったく性格のちがった悪人で、若い時分から支那へ行って、悪事をほしいままにし、田中病院長と友人となり、二人で上海シャンハイあたりを荒らしまわっていましたが、三ヶ月ほど前に二人は東京へ来て大悪事を計画しました。
二人とも医者ではなかったのですが、医者になって帝都を荒らそうと思い、まず田中が本郷に田中病院を建てて木村博士と交際し、木村博士の様子を観察して、双生児ふたごの兄弟に聞かせ、ある夜木村博士を自分の家へおびき寄せて殺し、死体を薬品で処置して、その代わりに双生児ふたごの兄弟を替え玉として帰らせました。
替え玉の木村はそのお礼のために、どこかの宝石商を襲って、宝石を盗みだして田中にやる約束をしているうち、銀座の××宝石商に首飾りのあることを聞きだし、先日巧みにそれを盗みだしました。ところが、木村はその首飾りが欲しくなり、田中から要求されてもとやかく言って渡しませんでした。
田中は色々と脅迫しましたが、そのうちに、木村は、ふと麻布の△△侯爵邸に、模造首飾りのあることを聞きだし、同侯爵邸が木村博士の病家びょうか先であるのを幸いに、腹心の徒の村田を書生に住みこませてとうとう盗みださせました。そうしてその模造品を湯島新花町の空き家に隠させ、村田に例の黒色の紙片を田中のところへ届けさせようとしました。
直接村田に模造品を手渡しさせればよいものを、上海シャンハイにいる時、二人は暗号通信をやって、一人が盗んで空き家にかくしておくと、一人が取りにゆくという手段を行っていたので、習慣的にそれを行ったのです。それに、犯罪者仲間には一種の迷信があって、そうした方がなんとなく安全だと思ったのです。
ところが村田は不慮の災難のために変死して、木村の通信を田中に届けることができなかったため、田中は木村のところへ談判に来て、その結果木村を殺したのでした。かの××宝石商から盗んだ首飾りは、木村病院の金庫の中にありました。

事件が落着した数日の後、小田刑事が私たちのところを訪ねて、どうして俊夫君が木村博士の死を聞いて、首飾り事件と関係があると推察したかと尋ねますと、俊夫君は次のように答えました。
「紫外線で読まねばならぬ通信をする者は、水銀石英灯を持っているものです。水銀石英灯を持っているものは、まず医者だろうと思いました。だから、木村博士を怪しいと考えたのですが、木村博士が盗賊をするのはおかしいと思い、死体を見ると、果たして黒子ほくろ黒子ぼくろだったので、替え玉だなと思ったのです。そうして、あの日記には詳しいことが書いてあったので、万事が直ちに解決されたのです」

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