子供の頃、家から歩いて十五分ほどの川沿いに、誰も住んでいない古い家があった。
338 : 本当にあった怖い名無し 投稿日:2012/02/01(水) 16:24:46.97 ID:vhJHbT8b0
今思えば、あれを「廃墟」と呼ぶのは少し違うかもしれない。崩れ落ちるほどではなかったが、長く放置された板壁は日に焼け、軒下には泥のように黒ずんだ蜂の巣が垂れ下がっていた。夜になると、月明かりさえ遮って、そこだけが異様に深い影を湛えていた。田舎の道には街灯もほとんどなく、川のせせらぎと草むらの虫の声ばかりが響いていたから、その家の前を通るのは子供には大冒険に等しかった。
その家には井戸があった。苔に覆われた丸い石組みが庭の隅に口を開け、底が見えないほど暗い穴が覗いていた。大人たちは口を揃えて「危ないから近づくな」と言った。学校からも立ち入り禁止の通達が出ていた。理由は「倒壊の恐れがあるから」というもっともらしいものだったが、子供心には、それ以上に「幽霊が出るから」禁止されているのだと信じていた。
近所の子供たちの間で、その家はすぐに噂の的になった。誰かが「井戸から女の声が聞こえた」と言い、別の誰かは「二階の窓に白い顔があった」と言った。そういう話を聞くと、行きたい気持ちは募るのに、実際に足を踏み入れる勇気はなかった。怒られるのが怖いというよりも、井戸を覗いたら本当に何かに見返される気がして、体が硬直してしまうのだ。
それでも、探検好きの連中は夜中に集まっては忍び込んでいた。あるとき、同じクラスの数人がその廃墟を「ロアニの家」と呼び始めた。最初は冗談のように聞こえたのだが、その呼び方はあっという間に学年全体に広まった。気づけば皆が当たり前のように「ロアニの家」と言うようになった。奇妙なのは、その「ロアニ」という言葉の由来を誰も知らないことだった。誰に尋ねても、結局は「ロアニさんって人が住んでたんじゃない?」という適当な答えしか返ってこなかった。
小学生にとっては名前など意味より響きが先に立つ。不可解であればあるほど、秘密めいていて、怖さも増した。僕も仲間たちと「ロアニ、ロアニ」と囁き合いながら、その家の前を通り過ぎるのが常になっていた。
不思議なことに、その家はある日を境に忽然と消えた。重機が入り、板壁も井戸もすべて取り壊されたのだ。子供たちは一瞬ざわめいたが、すぐに新しい遊びに夢中になり、話題は立ち消えた。僕もまた、怖いような寂しいような気持ちを抱えつつ、日常に戻っていった。
それから数ヶ月後の晩のことだった。食卓で兄と向かい合い、何気ない会話をしていた時、兄が唐突に言った。
「そういや、あの川沿いの廃墟、取り壊されたんだってな」
「もう三ヶ月くらい前だよ」僕が答えると、兄は首を傾げて言った。
「へぇ……。そういや、あそこなんて呼ばれてたか知ってるか?」
「名前? ウチらは”ロアニの家”って呼んでたけど」
その瞬間、兄の口元がかすかに歪んだ。「お前らはロアニって言ってたんか……。俺らは『クチアニの家』って聞いたぞ」
「クチアニ?」と繰り返すと、兄は少し声を潜めて説明した。家の一番奥の部屋、壁一面に赤い字で『クチアニ』と書かれていたのだという。誰が書いたのか、どういう意味なのかは分からない。ただ、その異様な光景を見た上級生がそう呼び始め、それが中学生の間で広まっていたらしい。
「ロアニにクチアニか。小学生で見つけたのが幸いだったんかもな」兄は軽く笑ったが、目の奥にかすかな陰があった。
僕は笑い返すことができなかった。ロアニとクチアニ……響きは似ている。けれど、どこか捩じれたような違和感があった。気になって、後で辞書を引いた。どこにもそんな言葉は載っていなかった。なのに、口に出してみると、舌にまとわりつくような気味の悪さが残った。
その夜、夢を見た。廃墟の井戸を覗き込んでいる。水面は見えず、ただ黒い穴が続いている。やがて底から何かが這い上がってくる気配がして、息を呑んだ。濡れた髪が先に現れ、次に口だけが真っ赤に開いた。目も鼻もない、ただ裂けた口が穴の縁まで迫り、僕に向かって音もなく「クチアニ」と形を作った。
悲鳴をあげて目を覚ました。体は汗に濡れ、布団を握りしめた手が痺れていた。夢に過ぎないはずだと必死に言い聞かせたが、その後も何度か同じ夢を見た。口だけの顔が井戸から現れ、僕に向かって何かを訴えている。言葉はいつも「クチアニ」だった。
ある日、勇気を出して兄に夢のことを話した。兄は一瞬黙り込み、それから真顔で言った。
「俺も見たことある。その夢」
背筋が凍った。兄は続けた。「あの家、取り壊されて正解だったんだろうな。でも……井戸は埋められずに残ってるはずや」
それ以来、川沿いを通ることはなかった。だが、耳の奥でときどき聞こえる。夜更けに布団の中で、低い声が囁く。ロアニ……クチアニ……どちらともつかない歪んだ響きが、いつまでも消えない。
解説
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ロ 兄(ろあに)