俺ね、物心ついた時から『薪』(まき)がどうしてもダメだったんです。
43 :本当にあった怖い名無し :2005/11/05(土) 18:02:44 ID:FDe9EqMh0
あの木を割った棒きれが。
どうダメだったかと言うと、例えばドラマ(北の国からとか)で薪が出ると、物凄い嫌悪感というか吐きそうになって。
リアルで見ることは殆どないから実害は少ないんだけど、アニメやドラマで薪が出ると気持ち悪くなって、すぐにチャンネルを替える。
この状態が、かれこれ二十年以上。
でも、何で薪がダメなのか、自分でも理由が分からないんです。気がつけば薪を嫌悪してて。
そういうのって気味悪いでしょ?だから何度も親と兄貴に聞きましたよ。
「俺が薪を嫌悪する理由知らない?俺が小さい時に何かあった?」って。
でまあ、予想通りというか、親も兄貴も「知らない」と……
それでも食い下がると、「しつこい!」ってキレられる。
でもね、雰囲気で分かるんですよ。親も兄貴も絶対何か知ってるって。
俺ももう31だから、ちょっとやそっとの事では動じないし耐える自信もあって、だから機会がある度に聞くんだけど、相変わらず「知らない」の一点張りで……
ああ俺はこのまま訳も分からず、薪を嫌悪して生きて行くんだなあって思ってたんです。
その薪を嫌悪してた理由がね、分かってしまいました。三日前のことです。
話は今から一週間前に遡ります。居酒屋で友達と飲んでいたときの事。
たまたまその友達の知り合いがやってきて、一緒には飲まなかったんだけど名刺をもらった。
その人精神科の先生で、人柄も良さそうだったから、「後で聞いて欲しい話があります」ってお願いして、二日後に連絡を取ったんです。
聞いて欲しい話っていうのは、もちろん薪の事。
なるべく細かく説明して、「もう二十年以上も続いてるんですが、精神的な理由なんでしょうか?」って。
先生が言うには、「おそらくそうでしょうね」と。
「何とかして思い出す事はできませんか」と訊ねると、
「誘導催眠なら出来る可能性がありますけど、覚悟が必要な場合も多いですよ」とのこと。
催眠についてちょっと補足です。
心理学を専攻した人は催眠“術”とは呼ばず、誘導催眠とかヒプノセラピーと呼ぶらしいです。科学的に説明できるものなので“術”ではないと。
その先生も、一通り誘導催眠について学んだそうで、「もしどうしても思い出したいなら、成功云々は置いといて、プライベートでやってみてもいいですよ」と。
そんなわけで三日前、先生の仕事が終わった後自宅にお邪魔して、静かな部屋(リビング)で誘導催眠をやってもらいました。
先生曰く、
「浅い催眠状態の時は自分の話した言葉をちゃんと覚えてるけど、田中さん(…俺の名前、仮名…)の場合は、退行催眠に誘導しなければならず、退行催眠から、深い催眠状態になるので記憶が飛ぶことがある。なので、一部始終をテープで録音しますね」と。
そして、俺は誘導催眠を受けて色々話しました。(時間にして三時間!先生ありがとうございます)
ただ、先生の言うとおり、退行催眠が始まってからはほとんど何を話したか覚えてないんですよ。
なので催眠が解けたあと、「理由は分かったんでしょうか?」と先生に聞いてみました。
先生、すごく悲しそうな顔して、(というか泣いてました)
「ええ」と。
その顔に不安を覚えながらも、「テープいただいてもいいですか?」って聞くと、
「いいですよ。ただね田中さん、精神科医の立場から言わせてもらうと、これは思い出さなくてもいい部類の話なんだと思います。僕たちの仕事は患者さんの心の病を取り除くことであって、心の闇を突きつける事ではないですから」と。
「それでも知りたいですか?」との問いに、少し考えた後「はい」と答え、テープをもらいました。
以下、退行催眠が始まってからのやり取りです。
テープ聴きながらなので、ほぼ原文で書けます。
十五歳
先生「田中くん、あなたは薪が嫌いですか?」
俺「嫌いです」
十歳
先生「田中くん、君は薪が嫌いかな?」
俺「嫌いです……」
七歳
先生「田中くん、君は薪が嫌いかな?」
俺「嫌いです……」
六歳
先生「田中くん、君は薪が嫌いかな?」
俺「嫌いです……」
五歳
先生「田中くん、君は薪が嫌いかな?」
俺「きらいじゃないです」
六歳に戻る
先生「田中くん、きみは薪が嫌いなんだよね。どうして嫌いになったのかな?」
俺「…………」
先生「理由をお兄さんに教えてくれないかな?」
俺「やだ」
先生「どうしてかな?」
俺「こわいもの(涙声)」
先生「大丈夫だよ。お兄さんが傍にいるから。ね、怖くないよ話してごらん?」
二〇秒弱の沈黙
俺「あのね……」
六歳の俺が語った事で全て思い出しました。事の顛末を書きます。
俺の実家は栃木の田舎なんです。
家は日本昔話に出てくるような、純和風の家で、家もデカけりゃ土地も広い。
俺がまだ幼かったころ、俺は母さんの手伝いをよくしてました。
風呂はガスだったけど、うちのじいちゃんが「ご飯は薪で炊け」ということで、ご飯はいつも、かまどで炊いていたんです。
俺が幼稚園から帰ってきて夕方になると、母さんが「ぼくちゃん、薪おねがいね」と言って駕籠を渡してくる。
俺は駕籠を受け取って、母屋から50mくらい離れた薪小屋に走って、その日のお気に入りを十本くらい選んで駕籠に入れる。
そしてまた母屋まで走って、母さんに「はいっ」って渡す。
母さんが薪をかまどに入れて新聞で火を付けて、薪がぷすぷす燃えてくると、ご飯が炊き上がるまでの間、俺をおんぶして唄を歌いながらゆっくり家を一周してくれた。
俺はそのおんぶが楽しみで、母さんの背中が心地よくて大好きでした。
夕飯になると家族が全員揃う。
俺はそこで「きょうもね、ぼくが薪をえらんで運んだんだよ!」と自慢げに話す。
じいちゃんもばあちゃんも父さんも「ぼくちゃん、偉いね。だからこんなにご飯がおいしいのね」って褒めてくれて。
それが嬉しかった。
六歳のとき、幼稚園から小学校になっても薪を運ぶのは俺の役目で、夕方になると母さんに駕籠を渡されて、薪小屋まで走る。
その日もいつものように駕籠を渡されて、薪小屋まで走った。
薪小屋は四畳くらいの四角い小さな小屋で、戸を開けると左右正面に薪がずらっと積んである。
だから実質の広さは一畳くらいしかない。
その日も当たり前のように戸を開けた。
俺から見て真正面、狭い小屋の中で、近所のお兄さん(清助さん)が、首を吊って死んでいた。
狭いから距離なんかほとんどなくて、ほんとうに目の前でぶら下がっていました。
青いパジャマ姿で目を見開いて、口からはよだれを流して、下には小便らしき水溜り。
ちょうど物心がついた時期に、人の死をこんな形で見てしまった俺は半狂乱になったんでしょう。
俺の叫び声に何事かと家族全員が駆けつけてきて、清助さんの死体を発見して大騒ぎになって。
その後は警察やら近所の人やらが来て、田舎での首吊り自殺なもんで、地域では大変な騒ぎでした。
そして俺はと言うと、少しおかしくなってしまってて、ほとんど口を開かなくなり、夜中に突然大声で泣き出したりと、手に負えない子供になってしまった。
そんな孫を不憫に思ったじいちゃんが、俺を母方のおばあちゃんの家に一年間預けた。
学校は休学。(この辺の記憶は全くありません。母から聞いた話です)
その間に薪小屋とかまどを潰した。
そして一年後、実家に戻ってきた俺は、くだんの事件をすっぱり忘れてた。
実際は忘れてたんじゃなくて、極度のストレスとトラウマによって心が破壊されるのを防ぐために、自分で記憶を封印してしまったんですね。
でも全ては封印出来なくて、薪を見ると理由も分からず凄まじい嫌悪感を抱くようになったと。
これが事の顛末です。
ここからは余談です。
人間の脳って凄いなと思いました。
フラッシュバックっていうのか、思い出した瞬間、鮮やかな映像と記憶が蘇った。
お兄さんが着ていた服、小屋の様子、当時の家族の顔、風景、まるで昨日の事のように。
鮮やかな記憶のまま封印したから、出した時も鮮やかだったんだろうか。
とまあ、今は落ち着いて書けてますけど、思い出した時は軽いパニック状態になりましたよ。涙がボロボロ出た。
思い出して良かったという気持ち、思い出さなければ良かったという気持ち、お兄さんの死を悲しむ気持ち、お兄さんを憎む気持ち、郷愁と懐かしさ、後悔、恐怖、色んな感情が溢れ出して来て、一時間以上も、大声で泣いてしまった。
六歳の時の俺と、今の俺の感情がリンクしてしまったのかなあ、なんて。
それで、昨日のことなんですが、母にね、全部話しました。
一応前置きとして、ショックだったけど耐えられたこと、気を使ってくれて感謝してること、あと、あのおんぶしてもらってた幼少時代、ほんとうに幸せだったこと、などなど。
母は静かに嗚咽を漏らしてました。「あれはね、誰も悪くないのよ」と。
母が言うには、清助さんが自殺して俺がおかしくなってしまって、それを知った清助さんさんの両親が、毎日うちに土下座して謝りに来たらしいです。
俺がおばあちゃんの家に引き取られてからも、それはしばらく続いたらしくて。
「だから思い出しても清助さんを恨んじゃだめよ」と母は言った。
それから色々話したんですけどね、割愛します。
昨日十年ぶりに母の肩を揉みました。
(了)