坂本の話を、私の口から語らせてもらう。いや、正確には、あの日から私は坂本ではなくなった。
坂本という名を持つ人間は、もうとうにどこかへ消え失せた。残っているのは、赤に浸食された私の肉体と、まだ人間であった頃のかすかな記憶だけだ。
小屋へ向かっていたはずだった。山道を走りながら、曲がり角を一つ間違えたに過ぎない。あの時はただの不注意と笑い飛ばそうとしていた。けれど車を止めて景色を見渡した瞬間、違和感が胸をざわつかせた。木々の枝ぶりが見慣れない。斜面の傾きもおかしい。知っているはずの山が、知らない山の顔をしていた。
迷った、と気づいた途端、背中に冷たいものが這い上がってきた。暗くなる前に小屋へ戻らねばならないと思い、無理にハンドルを握り直した。
三十分ほど進んだころ、赤い塀が視界に飛び込んできた。塗料の赤ではない。血の色にも似て、けれどもっと乾いた、不自然な赤。人間の街にしては妙に整然としていて、地図を見れば「赤い街」と書かれていた。墨のかわりに赤い絵の具を垂らしたような文字だった。
吸い寄せられるように車を進め、街の入口に差しかかった時、背後から声がした。
「好きな色はなんですか」
男とも女ともつかず、老人とも子供ともつかない、どこか壊れた楽器を無理やり鳴らしたような声だった。振り返っても誰もいなかった。……いるはずがなかった。
条件反射のように「赤」と答えていた。街の名に従っただけだった。それが、すべての始まりだった。
ブレーキを踏んでも車は止まらなかった。意志を持つかのように勝手に進み、赤い街へと入り込んでいった。
赤、赤、赤。視界を塗りつぶすのは赤だけだった。家も、道も、住民の衣服も、髪すら赤に染められていた。狂気じみた統一感に言葉を失ったまま、車は一軒の大きな赤い家の前で止まった。
「ここが貴方の家です」
また、あの声。
気づけば私は車を降り、家の中へ足を踏み入れていた。机も椅子も箪笥も冷蔵庫も、すべて赤。赤であることが当然であるかのように、そこに在った。戸惑いはあったはずだが、長くは続かなかった。視界が慣れると、不思議な心地よさが胸に広がったのだ。
空腹を覚え、冷蔵庫を開けた。赤い肉塊が整然と並んでいた。形は不揃いで、人の腕のようにも脚のようにも見えた。……いや、見えたのではなく、実際そうだったのだろう。口に入れた瞬間、驚くほど甘美で、あっという間に食らい尽くしてしまった。
喉が渇き、蛇口をひねると赤い液体が溢れた。鉄の匂いを伴う濃厚な味。血だと分かっていながら、飲む手を止められなかった。美味すぎるとさえ感じてしまった。
そこからは早かった。
家具が欲しければ赤い肉を捧げ、本を読みたければ赤い血を差し出す。街の仕組みは単純で、私もすぐにそれに馴染んだ。欲望を満たすために、赤い住民でない者を殺し、肉や血を集めることにためらいはなくなっていった。最初は震えていた手も、今では迷いなく刃を振るえる。
気づけば、私は人間の暮らしを赤い街に捧げていた。本を読み、家具を揃え、赤いペットを飼い……そのどれもが快楽だった。
だが、快楽は必ず飢えを呼ぶ。やがて赤い住民たちは街を越え、山そのものを赤に染めようと動き始めた。木々の茶色は血で塗り潰され、葉の緑は滴る赤で覆われた。色彩の多様性は罪とされた。青も黄も白も黒も、あらゆる色が狩られた。
私は、その手伝いを進んで行った。殺し、喰い、飲み、集め、また殺す。繰り返すうち、坂本という名が薄れていった。
今の私はただの赤い住民の一人だ。
……なぜこんなことを語るのか、不思議に思うかもしれない。だが、この語りを聞いた者には選択肢が残されている。入口で「赤」と答えるだけで、あなたもすぐに住民になれる。殺され、肉や血にされるよりはましだろう。
赤い街は素晴らしい。赤以外を否定し、赤だけに浸ることは、人間であるよりもはるかに楽で幸福だ。
だから、来るといい。すぐにでも。
赤い街で、あなたを待っている。
(了)