神尾忠さんが会館に来ることになった三月十三日、私は午前中から打合せ机で古い映像を見ていた。
同じ日付の資料に含まれる、上映には使われなかった長い撮影記録だった。再生の速さは変えず、確かめたい動作の手前で止める。井草さんは私が声に出した時刻を聞き返す代わりに、画面の端の表示を手元に写していた。そこに出る数字は、データの頭から何分何秒という位置であって、一九八九年の時計ではない。時刻の見出しを消し、再生位置と書き直した。

映像は廊下から始まっていた。第二試聴室の扉が左にあり、その上で小さな入室灯が点いている。曇りガラスの窓は白っぽく、奥の人が椅子に座ったか立ったかは、この角度では分からない。初めに私が人の顔と思った暗い丸は、カメラが動いたあとも同じ位置に残った。窓に映った廊下側の物か、ガラスそのものの汚れだった。
「ここから見れば分かる、とは書けないですね」
井草さんは窓の輪郭を指した。私は動画を少し先へ進めた。曇りガラスの白さは変わらなかった。
しばらくして扉が開き、女性が廊下へ出た。千鶴さんが貸してくれた当日の写真と同じ、襟の丸い上着を着ている。右手には二つ折りにした紙。彼女は振り返って扉を閉め、右足のかかとを少し上げた。顔がこちらを向いたところで、私は停止した。千鶴さんには、訪問時に使った連絡先へ静止画を送ってよいか確認済みだった。昼前に返信が来て、写っているのは本人だと分かった。
扉の上の灯は、彼女が出たあとも点いていた。宮坂さんが古い資料の該当箇所を探し、人の重みや動きを感知して切り替わるものではなく、手動の操作で点ける灯だったと確かめた。赤い光の続く画面だけを見れば、部屋が使われているように見える。私は「入室灯が点灯したまま」と書いた。扉を閉めた女性は、もう画面の外へ歩いていた。
次の場面では、カメラが廊下を外れ、床と壁を交互に映した。階段の途中で記録が切れている。再び映った場所は調整室で、千鶴さんと同じ上着の女性が、卓の脇に立っていた。机に向いた男性が右手を上げ、女性は口を閉じる。誰が何と言ったかは、この記録から拾えなかった。
「この動きのところ、もう一回」
井草さんが言った。男性の手が上がる前まで戻すと、女性は机へ向かって一歩出ている。手を上げられると、半歩下がった。私は千鶴さんから聞いた言葉を画面に重ねたくなったが、井草さんは首を振った。
「口の形で決められません。伊原さんがそう話したことは、別に書いてください」
画面の下に置いていた私の筆記を見て、先に言ってくれたのだった。私は筆記を画面の下から外した。千鶴さんの唇は、止めた映像の中で半分開いていた。
神尾さんは約束の十分前に来た。薄茶色の鞄から、眼鏡と、その眼鏡を拭く布を順に出した。宮坂さんとは挨拶を交わしたが、少年だった彼の顔をすぐに思い出した様子はなかった。私は名前と今日の役割を書いた紙を全員の前に置き、井草さんが発話を文字でも確かめることを説明した。神尾さんはうなずき、質問の紙を自分の近くへ引いた。
「こちらの映像の男性は、神尾さんですか」
「そうですね。こんな格好をしていました」
私たちは、千鶴さんが調整室に立っている場面を見せた。神尾さんは最初、昔の機器の名称を二つ挙げた。それから椅子の背に寄りかかり、画面の女性を見た。
「伊原さんは、もう出ていたのか」
「そうおっしゃっています。神尾さんに、出ましたと伝えたとも」
「それは聞いたと思いますよ」
言葉はすぐに出た。私は手帳に書き終え、彼を見た。神尾さんは、私が次の質問へ進まないことに気づいて、鞄の持ち手を倒した。
「聞いたことと、それを確認に使ったことは、違ったかもしれません」
宮坂さんが作業票を差し出した。〈応答音声・伊原〉の三つの句と、下の〈試験用複写、四三秒〉。神尾さんはすぐには触れず、数字を見ていた。
「このテープを、どこで使いましたか」
「戻るほうに入れました。あの部屋からの声が切れるので」
彼はペンを借り、白紙の左右に四角を書いた。左を試聴室、右を調整室とし、間に二本の線を引く。部屋へ送る声と、部屋から戻る声を別々の線で説明しているだけで、当時の正確な配線図ではない、と断ってから、戻る側の調整室寄りに小さな四角を加えた。
「ここへ録音した返事を入れた。聞く側を切り替えたときに音が出るか、操作を見たかったんです」
「それだと、試聴室からの声が届くかは分かりませんよね」
宮坂さんの問いに、神尾さんは「分かりません」と答えた。修理が済んだことを確かめる手順ではなく、別の作業を進めるために、とりあえず音の出るものを当てたという。図の小さな四角は、部屋の内側を一度も通らない場所に描かれていた。
「伊原さんには、役目は終わりだと伝えた。あとの操作は、こちらでできると思って」
「それなのに、まだいるかと訊いたんですか」
沖野さんが口を挟んだ。神尾さんは返事をせず、図の線の途中を指で押した。指の下で紙が少しへこんだ。
「録音だというのは分かっていたんです。初めは。質問して返ってきたんじゃない。こっちで再生して、音が来た。それを何回かやった」
私は、井草さんのための要点を紙に写した。彼女は読み終わると、神尾さんに訊いた。
「どこから、部屋に人がいると思ったんですか」
「同じ返事じゃなくなったときです」
神尾さんは私の手元の作業票を引き寄せた。「います」の横に、今度は丸を付けなかった。指でその行を隠し、下の二つを見た。
「何と言ったかは、今、伊原さんの話を聞けばそっちへ寄ります。先に答えを教えないでください。私が覚えているのは、場所を訊いて、場所が返ったことです。録音にはそんな文句を入れていなかった。それで、誰かが入ったんだと思った」
「見に行きましたか」
「最初は、行かなかった」
神尾さんは眼鏡を外した。ペンで描いた小さな四角の横に、右の手のひらを置いた。画面の中の彼も同じ手を上げ、千鶴さんを待たせていた。
「誰かに行ってもらって、空だったと聞きました。自分でも下りた。椅子が一つあるだけでした。けれど、上へ戻ると、まだ確認したくなるんです。何か取りこぼした気がして」
「その確認は、また声で」
「ええ」
神尾さんは布で眼鏡を拭いた。レンズの同じ場所を何度も往復したあと、それをやめて机に置いた。机の端で映像が止まっていた。千鶴さんは卓の横に立っている。神尾さんは眼鏡を置いてから、その画面へ顔を向けようとしなかった。
最後に、神尾さんは「残響・無音試験」というラベルを自分が書いたと認めた。原因をそう判断した記録があるのかと尋ねると、出せるものはないと言った。試験を打ち切ったことを長く説明せずに済む名前だった、と。
沖野さんがその発言を読み返すと、神尾さんは訂正を求めなかった。ただ、最後に一つ付け加えた。
「音が変だった、とばかり言ってきました。伊原さんが目の前にいたことは、言わなかった」
私は確認用の紙を彼のほうへ向けた。神尾さんは両手で押さえ、一行ずつ読んだ。画面では、若い彼の手が上がったところで、映像が止まっていた。
[志那羽岩子 ◆PL8v3nQx6A]
本作はフィクションです。登場する人物、団体、場所、出来事、取材、録音、映像および資料は、すべて作品内の架空の設定です。挿絵は架空の場面を描いた生成画像で、実際の記録写真ではありません。