下りだけの道、志那羽岩子。作品共通タイトル画像。

怪談 n+2026 オリジナル作品

下りだけの道|第三章 二人の先頭 iwa+

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古賀七重さんは、訪ねてきた僕より、姉に多く話しかけた。

「写真は来月まで飾るの」
「まだ日にちは決めてないんです。直人の絵が間に合えば」
「その言い方は、頼む前から遅れる人にしてる」

 七重さんが笑うと、姉も口元を緩めた。二人は、僕の知らないあいだに何度も会っていたのだろう。七重さんの家は町の東側にあり、玄関脇に乾かした園芸用の支柱が立ててあった。昔の小屋の看板が庭にあるとか、壁が山の写真で埋まっているとか、僕が勝手に考えていたものは何もなかった。

町の私宅の玄関脇に、使い込まれた緑の園芸用支柱が束ねて立てかけられている。
挿絵:AI生成による架空の場面

七重さんは写しを見て、これだけ渡すんじゃなかったね、と言った。姉が写真の場所を調べていたので、南回りについて書いた紙をまとめたとき、一緒に入れたのだという。僕が二枚とも下りになっていると指摘すると、七重さんは台所へ立った。湯を沸かし直す音がした。戻ってきたときは、手に別の封筒を持っていた。

「その話をするなら、先に言っておく。片方の人は、今は話したくないと言ってる」
「お会いしてもいけませんか」
「会わせる約束を、私がしていいわけじゃない」

 姉は膝に置いていたスマートフォンを鞄へしまった。僕も録音を頼むつもりでいたが、帳面だけ出した。七重さんは、自分が話した内容を僕たちが家族で読むために書くのは構わない、もう一人に頼んだり見せたりするなら先に本人に聞いて、と言った。僕はその条件を一番上に記した。

 二枚は一九八七年六月十四日の山行を、そのあと二人が別々に書き留めたものだった。Aの筆跡が七重さん。Bは関本路子さんという、当時一緒に山を歩いていた女性のものだった。路子さんはその日から三日間、山の中にいた。七重さんは先に見つかっていた。

「私が置いてきたことになった。実際、私は帰ったんだからね」

 七重さんは原本の帳面を開いた。紙は予想よりよく保たれていた。茶色くなっているのは外側の端だけで、文字の青さも残っている。僕たちの持っていた写しは、その中の一部分だった。

 記録には、二人が午前中に石積みの分岐へ着き、南回りで樺平へ向かった、とあった。その頃はまだ、南回りを歩く人がいた。案内の看板も立っていた。ただし道は雨のあと崩れやすく、谷側へ寄りすぎないよう小屋で注意をしていたという。七重さんが小屋を手伝い始める前の話だった。

「一緒だったのは、どこまでですか」
「白い木が横になっていたところ。路子が水筒の蓋を落とした。私は少し先まで行った。そこは覚えてる」
「待たなかったんですか」

 姉の声が硬くなった。七重さんは姉の方を見たまま、待ったよ、と言った。

「待ってたら、下の道を歩いてた。だから、ああ、そっちを抜けたのかと思った」

 その日、路子さんは薄い茶色の上着を着ていた。七重さんは青いシャツ。木のあいだから茶色の背中が見えて、蓋は見つかったかと声をかけた。返事はなかったが、風があったので届かないのだろうと思った。七重さんは背中を追って下りた。

 ここまでは、聞いていて不自然な話ではなかった。少し離れた仲間が、先へ進んだと思った。思い込めば、見つけた色を仲間のものとして受け取る。僕にも覚えがあった。

 問題は、そのあとの路子さんの記録だった。

 関本路子の記録。救出後、六月二十日記入。
 蓋が見つからなかったので諦めた。古賀さんが下にいた。青いシャツ。樺平から戻ってきた道だと思った。古賀さんが石積みへ戻るつもりなら、私が先に待ち合わせへ行っても困る。追いかけた。下りだった。

「路子さんは、樺平へ着いてないんですよね」
「うん。だから、その場所を樺平の先だと思ったのか、樺平から戻る道を見たつもりだったのか、私には分からない」

 七重さんは、僕が紙に線を引くのを待った。石積み、白い倒木、樺平。記録に出てくる順序を線にしてみると、路子さんの出発点が途中で移動した。同じ場所から二人が出たはずなのに、片方は途中ですでに目的地から戻っている。写しの切れていた箇所は、時刻の数字だけではなかった。

「じゃあ、路子さんが勘違いしたのかも」

 そう言ってから、僕は七重さんの顔を見た。

「私は、あの人を追った。あの人は、私を追った。どっちかだけが勘違いしたことにすると、もう一人が残るでしょう」

 七重さんは湯呑みに手を添えた。湯気はもう出ていなかった。

 記録の続きには、二人とも浅い水たまりへ出たと書いていた。倒木の枝が右にあったことも、それぞれが書いた。二人は何度も同じ場所へ戻ったと書いていた。位置を照合できる記録はなかった。七重さんは山の中で一晩を過ごし、翌朝、沢より上の斜面で捜索中の人に見つけられた。路子さんは十七日の昼、さらに離れた場所で保護された。足を痛め、歩けなくなっていた。

 どちらの記録にも、最後にもう一人へ追いついたとは書かれていなかった。

「背中は、走ったりしたんですか」
「歩いてた。普通に」
「古賀さんが止まったら?」

 七重さんはしばらく考えた。

「それを見ておけばよかったと思う。私が止まったとき、私は自分の足を見てた」

 姉は両手を膝の下へ入れたまま、手紙が出てくるまで動かなかった。僕は質問をやめ、部屋の時計を見た。昼までに帰ると父へ伝えていたが、まだ時間はあった。

 七重さんは封筒から便箋を取り出した。路子さんが一年ほどたってから送ってきた手紙だという。僕たちへ見せてよいと言われているのは一部分だけだった。七重さんは上を別の紙で覆い、下の三行を示した。

 前の人が待っていると思うと、道が長くなる。
 追いついたら聞こうと考えていたことを、今も聞けないでいる。
 あなたが私を見ていたというのは、ほんとうですか。

 七重さんは答えを書いたという。ほんとうだ、と。それでも二人の間にあるものは減らなかった。片方が先に助かったという出来事は、そのまま残る。僕は二人の今の付き合いを聞きかけて、やめた。

 姉がようやく口を開いた。

「お母さんのときは、これを誰かに話したんですか」
「ご主人には言った。捜してる人にも、南側で道を見失ったことがある、と伝えた。自分の足跡をたどるつもりでも帰れなかったって」
「背中のことは」
「全部同じ言い方では話せなかった。そういう話を聞きたい人ばかりじゃなかったから」

 姉の目が僕に向いた。僕は何を聞かれているのか分かったが、帳面の方を見たままにした。七重さんは僕たちの間へ目を移して、それ以上言わなかった。

 帰る前、七重さんは僕の描きかけの線を見た。石積みと樺平をつなぐ道が、紙の上で輪になっていた。説明しようとしているうちに、僕はそう描いていた。

「丸くしなくていいと思う」
「戻ってきてるなら、回ってるのかと思って」
「戻ったと思ったのと、戻ったのは、分けておいて」

 僕は輪の一部を消した。紙に消し跡が残った。そこへ新しい道を描き足すことはしなかった。

 玄関で靴を履いていると、姉が七重さんに、明日、現場だけ見に行くと言った。佐井さんも来るし、普通の道から見るだけだと付け加えた。七重さんは止めるでも勧めるでもなく、誰と出て誰と帰るかを、変えないで、と言った。

 外へ出てから、姉は僕より少し前を歩いた。坂を下り、次の家の塀で曲がり、見えなくなった。僕は足を速めかけたが、角まで行くと姉は普通に立っていた。携帯を出して、佐井さんへ明日の集合時刻を送っていた。

[志那羽岩子 ◆PL8v3nQx6A]

本作はフィクションです。登場する人物・団体・地名・資料・捜索記録は創作であり、実在の登山道案内や安全指針ではありません。挿絵は架空の場面を描いた生成画像で、実際の記録写真ではありません。

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