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短編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2026 オリジナル作品

抱擁の残り香 nc+

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六月の湿った風は、排気ガスとアスファルトの熱を混ぜ合わせ、粘りつくような不快感を街に撒き散らしていた。

会社員の信二は、三ヶ月前から酷い不眠に苛まれていた。まぶたの裏にこびりついた疲労は、どれほど高価な枕を使っても、強い睡眠薬を流し込んでも、彼を眠りの淵へと連れて行ってはくれない。

「……ここか」

同僚から「どんな不眠も一発で治す香を焚いてくれる」と紹介されたのは、新宿の路地裏、ビルの隙間に埋もれるように立つ古びた香香屋だった。

暖簾をくぐると、外の喧騒が嘘のように消えた。薄暗い店内の奥に、一人の老婆が座っている。名は妙子といった。彼女が香炉に火を点けると、奇妙な匂いが立ち昇った。

熟れすぎた桃の、喉の奥が焼けるような甘ったるい香り。そこに、古い寺の土蔵を封じ込めたような、冷たく湿った埃の匂いが混ざっている。

「いい匂いでしょう? さあ、深く吸い込んで。もっと、もっと深く」

妙子の声は、泥の中に沈んでいくような、抗いがたい残響を伴っていた。 信二の意識は、瞬く間に解けていった。 朦朧とする意識の中で、妙子の囁きが脳髄に直接書き込まれていく。

「この匂いがしたら、あなたは一番安心できる場所へ帰りたくなる。そこは温かくて、暗くて、誰も邪魔しない場所……。さあ、帰りなさい。匂いに導かれるままに」

その日、信二は数ヶ月ぶりに泥のような眠りについた。

異変が起きたのは、その三日後だった。 営業回りで駅のホームに立っていた時だ。ふっと、あの匂いが鼻をかすめた。 熟れすぎた桃と、埃。 (あ、あの匂いだ……) そう思った瞬間、信二の思考は真っ白に塗りつぶされた。

気づくと、彼は見知らぬ郊外の古い神社の境内に立っていた。靴は泥だらけで、爪の間には土が詰まっている。時計を見ると、二時間が経過していた。 「……何をしてたんだ、俺は」 恐怖が背中を走った。しかし、それ以上に「心地よさ」の余韻が全身を包んでいた。あの匂いを嗅いでいる間だけは、この世のあらゆる苦痛から解放されるのだ。

それからというもの、匂いは場所を選ばず信二を襲った。 デパートの地下、雨上がりの路地、あるいは誰もいないはずの自室。 その度に信二は記憶を失い、気づくとどこかの「隙間」――縁の下や、ビルの配管の影、あるいは公園の茂みの中に潜り込もうとしていた。

限界を感じた信二は、再びあの香香屋へ向かった。 しかし、辿り着いた場所に、あの店はなかった。そこにあったのは、三十年前に火事で焼けたまま放置された、蔦の絡まる空き地だった。

「あの婆さん……死んでる……?」

呆然と立ち尽くす信二の鼻腔を、不意に強烈な「あの匂い」が突いた。 空き地の土の中から、じわりと染み出してきたかのような、圧倒的な濃度の腐桃の香り。

(ああ……帰らなきゃ)

抗う心は一瞬で消失した。信二は這いつくばり、空き地の隅にある腐った床板を素手で剥がし始めた。指先から血が流れても、爪が剥がれても止まらない。 その下にあるのは、湿った、冷たい、暗い闇。

「……おかえりなさい」

暗闇の中から、節くれ立った、土色の手が伸びてきた。 信二は恐怖で叫ぼうとした。しかし、開いた口の中に、甘い香りのする湿った泥が、ドロリと流れ込んできた。 それは妙子の手のひらから溢れ出す、煮詰まった桃の果肉のような泥だった。

「ここが、お前の場所だよ」

信二の体は、ずるりと暗い床下へと引きずり込まれていった。 最後に彼が見たのは、自分を抱きしめる老婆の、爛々と光る悦びに満ちた目だった。

翌日、近隣の住民が、空き地から季節外れの甘ったるい桃の匂いが漂ってくるのに気づいた。 だが、その出所を突き止められた者は、一人もいなかった。

(了)

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