小学六年の頃の話だ。今でもその記憶を思い返すと、皮膚の奥を小さな針で刺されるような寒気が走る。
あの日の光景は、ただの幻覚や子供の妄想で片づけてしまうにはあまりにも生々しく、そして不気味すぎた。
当時、僕は吉祥寺にある進学塾に通っていた。家は隣の区にあったので、通うにはバスを使う必要があった。夕方になると少しずつ冷え込む季節で、街灯がともり始める頃に僕は家を出て、決まって同じバス停で待っていた。
バスに乗ると、いつものように最初は乗客もまばらで座席を確保できた。けれど途中から次々と人が乗ってきて、いつしか車内はぎゅうぎゅう詰めになった。ランドセルを膝に抱え、窓の外を眺めていた時だった。目の前に一人の老人が立っていることに気付いた。
一見して、普通の年寄りには見えなかった。背筋はまっすぐで、皺だらけの顔とは対照的に、体の輪郭はすらりとしていた。濃い色のスーツに身を包み、頭には古風なハット。まるで舞台に立つマジシャンのような雰囲気を漂わせていた。
子供心に「席を譲らなきゃ」という義務感が芽生えた。僕は立ち上がり、少し緊張しながら声をかけた。
「どうぞ」
老人は顔をほころばせ、皺を寄せながら「ありがとう」と言った。その笑みは、妙に艶やかで、年齢に似合わないほど力を宿しているように見えた。
席に座った老人は、やがて僕に話しかけてきた。「君は優しいね」と。
その一言で、なぜか僕も安心してしまい、ぽつぽつと会話を続けた。成績のことや塾のこと……大人からすればくだらない話題かもしれないが、当時の僕には背伸びして大人と会話しているような気分だった。
思い出すのは、僕がふと「親から知らない人とは話すなって言われてるんだ」と口にした時のやりとりだ。
老人は笑いながら言った。「こんな年寄りに、君を誘拐できると思う?」
僕は首を横に振った。そのとき確かに、無邪気な笑顔を浮かべていた。
やがてバスは吉祥寺駅に近づいた。ロータリーの明かりが窓越しにちらちら差し込む頃、僕はどうしても気になっていたことを訊いてしまった。
「……マジシャンなんですか?」
老人はしばらく声を立てず笑っていた。そして、バスが停車する直前に、すっと人差し指を立てて言った。
「でもね、これならできるよ」
意味がわからなかった。何が「これ」なのか尋ねようとした時には、他の乗客たちが次々に降りていくところだった。気付けばバスの中には僕と老人だけが残っていた。
怖さが込み上げて、慌ててバスを飛び降りた。その瞬間――目を刺すような赤い光が視界いっぱいに広がった。
視覚が焼き切れるかと思うほどの強烈な赤。その光に思わず目を覆い、しばらくしておそるおそる瞼を開けた。そこで息が詰まった。
世界が――赤い。
駅前ロータリー、人の群れ、車の列。すべてが血の色を通したフィルムのように染められていた。音は消えていた。人の声も車のエンジン音も、鳴り響くはずの喧騒が一切消え失せ、ただ赤の世界が静まり返っているだけだった。
最初に感じたのは「誰もいない」という異常さだった。さっきまで一緒に降りた乗客も、通行人も、車すら一台もなかった。
でもそれ以上に僕を震え上がらせたのは、赤に塗りつぶされた風景そのものだった。夕暮れの色などとは全く違う。鮮血を透かして覗いたような、息苦しいまでの赤。
耐えられずに駆け出した。ロータリーを飛び出し、駅前通りを走った。普段ならスケボーを抱えた若者やホームレスが屯している場所だ。だが影ひとつない。赤に溺れた街だけが広がっている。
足が止まり、膝から崩れ落ちた。涙が溢れ、声にならない叫びをあげた。
顔を上げた瞬間、そこにあの老人が立っていた。
相変わらずすらりとした姿で、赤の世界に違和感なく溶け込みながらも、確かに僕を見ていた。
僕は泣きじゃくりながら叫んだ。
「戻して!お願いだから戻して!」
老人は困ったように微笑み、「ごめんね」と言った。皺だらけの手が僕の頭に触れる。
「怖がるとは思わなかったよ……ごめん、ごめんね」
その言葉と同時に、耳の奥にざわめきが戻ってきた。クラクション、笑い声、足音。次第に赤い光は薄れていき、いつもの吉祥寺駅前が広がっていた。
気付けば僕は横断歩道の真ん中でしゃがみ込んで泣いていた。周りには人だかりができ、奇異の目でこちらを見ている。慌てて立ち上がった時には、あの老人の姿はどこにもなかった。
残されたのは、赤い世界の記憶と、老人の「これならできる」という言葉だけ。
あれは何だったのか。幻だったのか。それとも本当に、あの人はマジシャンだったのか。
ただ一つ言えるのは、あの日を境に、僕は赤い色を見るたび心臓が不規則に跳ねるようになったということだ。
そして今も時々、夜の人混みの中で、あのハットを被った痩せた後ろ姿を見かけることがある。目を逸らしても、もう一度振り返ると、そこには誰もいない。
……あの時、本当に元の世界に戻してもらえたのかどうか、それさえも、実は確信できていないのだ。
[出典:465 :2008/11/24(月) 21:17:34 ID:6QjuRh660]