ああ、これはもう五十年も前のことになる。
俺がまだ小学生だったころ、川崎の工場地帯のど真ん中に住んでいた。
空気は金属と油の臭いが混ざってて、運河は濁った緑のドブ色。空気に触れてるだけで目が痛くなるような時代だった。
うちの親父は郵便局に勤めてて、家は商店街の裏通りにあった。
あの頃はゲームなんてなかったし、放課後はいつも駄菓子屋か、空き地でボール遊び。
五円玉握ってガチャガチャと飴を選ぶのが、子どもなりの贅沢だった。
そんなある日、同じクラスの木田が「新しい駄菓子屋を見つけた」って言い出したんだ。
「通学路の外、運河の橋を渡った先にある」と言う。
どうせ大した店じゃないだろうと思いながらも、俺はランドセルを背負ったまま、木田のあとをついていった。
運河を越えると、そこは薄暗い小路と油の染みついた工場のあいだだった。
金属を削るギーギーという音が遠くから聞こえる。
ほんとうにこんなところに駄菓子屋なんてあるのかと疑いながら歩いていると、木田が「あれだ」と指をさした。
『◯◯発動機』という看板の下に、バラックのような建物があった。
「ふざけんなよ、駄菓子屋じゃねえだろ」
そう言ったが、木田は「中にあるんだ」と平然としていた。
戸を開けると、機械と工具が散らばった工場の一角に、確かに駄菓子の棚があった。
酢イカ、ふ菓子、くじ引き。どれも他の店と変わらない、つまらない品ばかりだ。
「いや、ここにスゲえ菓子がある」
木田が言って、しゃがみこんで機械の横にいる男に声をかけた。
「あ、また来た。ムーンチョコおくれ」
その男が振り向いたとき、思わず息を飲んだ。
顔には銀色の仮面……いや、あとから知ったが溶接用の面をかぶってたんだ。
その顔のまま「ほらよ」と言って、銀紙に包まれた細長い菓子を木田に渡した。
木田がひと口かじって「うめえ!」と叫んだあと、残り半分を俺にくれた。
半信半疑で食ってみると……信じられない味だった。
濃厚なチョコの中に、舌に吸いつくような液体がとろけ出してきて、夢でも見てるみたいな感覚になった。
「な、スゲえだろ?外国製だってよ。くじ付きで、当たりが出ると月の世界にご招待なんだと」
俺は何も考えずに二個買って、貪るように食った。
銀紙の中には、青いセロファンみたいなカードが入っていて、透かすと模様が浮かぶらしい。
でも俺のは何も見えなかった。木田は「昨日、月の山が見えた」とか言ってた。
そんで、その店に通い詰める子が急に増えた。
翌週には毎日二十人くらいがムーンチョコを買いに来て、目を爛々とさせながらかじっていた。
中毒みたいになっていた。
俺も、もう普通の駄菓子には戻れなかった。
工場の機械も日ごとに変わっていた。
はじめはがたついた金属の塊だったのが、だんだん丸く滑らかになって、まるで生命体の殻みたいな質感になってきてた。
あのとき、男が「これは宇宙船だ。あと足りないのは心臓部だけだ」と言っていた。
真ん中の青白いガラスの球体が、それだと。
事件が起きたのは、それから一週間後。
いつものようにムーンチョコをむさぼっていたら、藤島ってやつが「ああ、月の景色だ!」って叫んだ。
おまけのカードに、アポロの旗が立った風景が浮かび上がっていたという。
俺が無理やり取り上げて透かしても、ただの青いフィルムにしか見えなかった。
「嘘つくなよ」と言ったら、あの男が「それは本物だよ」と言い出し、藤島の名前と住所を書かせていた。
「当たりが出たから、月の世界にご招待だ」と。
翌朝五時。藤島は湾岸道路で、トラックにはねられて死んだ。
体が引き裂かれて、頭部が見つからなかった。
それを聞いた日、放課後も店に行った。
俺も、他の連中も……ムーンチョコが忘れられなかった。
だけど、店の戸は閉まり、ガラスには黒い紙が貼られていた。
『閉店しました。ごめんなさい』
その光景を見て、みんなが膝から崩れ落ちそうな顔をしていた。
「もうムーンチョコが食えない」
俺たちは何を失ったのか、わからないまま立ち尽くしていた。
その後も、俺はひとりで毎日その工場に通った。
ただの駄菓子が、そこまで執着させるなんて、今では考えられない。
けど、それほどまでに、あのチョコはうまかった。
うまい、という言葉では足りない何か……。
十日目、最後にしようと思って店に行ったとき、ガラスの隙間から中をのぞいた。
黒い紙の下に、小さな隙間があったんだ。
……中には、あの機械が光を発していた。
青白い閃光が、息をするようにゆっくりと点滅していた。
そして、中央の球体。
そこに、浮かぶようにして――藤島の顔があった。
……目を開けた。
俺は背を向けて、叫びながら走った。
自分の鼓動の音さえ聞こえなくなるほど、無我夢中で。
あれは幻だったのか、本当だったのか。
ただのチョコ、ただの駄菓子屋の話なのに、いまだに思い出すたびに、背中が冷たくなる。
その後、店の建物そのものがなくなっていた。
跡地は鉄条網で囲まれた空地になっていた。
トラックの運転手は捕まらなかった。
藤島の頭も、とうとう見つからなかった。
それと――これは偶然だろうけど、そのすぐあと、港の近くの化学工場が爆発して、夜空が昼間みたいに白くなった。
死者はいなかったそうだ。
ただ、その爆発の閃光が、あの青白い球体の光と、まるで同じ色だったのが……今でも忘れられない。
それでだ。
仮面ライダーのカード、あれが流行ったときも、俺は手を出さなかった。
おまけのカードが怖かった。
ほんとうに怖かったんだよ。
[出典:82 :1/11:2020/08/15(土) 02:01:00.79 ID:y3BXYe+r0.net]