これを要するに山にこういう人たちのいるということは、我々の祖先にとっては問題でもまた意外でもなかった。ただ豊前・薩摩の材木業者以上に、意識して彼らと規則立った交通をする折が乏しかったために、例えば禁止時代の切支丹伴天連に対するごとく、甚だ精確ならざる風評と誇張とが、ついて廻ったのを遺憾とするばかりである。いわゆるヤマワロ(山童)の非常に力強かったこと、これは全く事実であったろうと認める。そうして怒ると何をするかわからぬというのも、また根拠ある推測であった。なおまた彼らが驚くべく足が達者だといったのも、通例平地の人々と接することを好まぬ以上は、急いで林木の茂みの中に、避け隠れたとすれば不思議はない。野獣を捕って食物としておれば、そのためには女でも足が速くなければならない。不思議はむしろ何かという場合に、かえって我々に近づこうとする態度の、明瞭に現れていたことである。しかもしばしば不幸なる誤解があって、人がその真意を酌むことをえない場合がいかにも多かった。
『東武談叢』その他の聞書に見えているのは、慶長十四年の四月四日、駿府城内の御殿の庭に、弊衣を着し乱髪にして青蛙を食う男、何方よりともなく現れ来る。住所を問うに答なく、ただ手をもって天を指ざしたのは、天からきたとでもいうことかと謂った。家康は左右の者がこれを殺さんとするのを制止し、城外に放たしめたるに、たちまちその行方を知らずとある。この怪人は四肢に指がなかったともあるが、天を指したというからは甚だ信じがたい事であった。それからまた三十年余り、寛永十九年の春であった。土佐では豊永郷の山奥から、山みこと称する者を高知の城内へつれてきた。年六十ばかりに見える肉づきの逞ましい大男で一言も物いわず、食を与うれば何でも食った。二三日の間留めておいてのちに元の山地へ放ち返したと、当時のいくつかの記録に載せてある。いずれも多くの人がともに見たのだから、まぼろしとは認めがたい話である。ことに「山みこ」という語が、すでにあの時代の土佐にあったとすれば、必ずしも稀有の例ではなかった。ミコはどう考えても神に仕える人のことで、天狗と同じく彼らを山神の使者、もしくは代表者のごとく見る考えが、吉野川上流の村にはあったことを想像せしめる。
この前後は土着開発に急なる平和時代で、その結果は山と平地との間に、人知らぬ攪乱があったかと思われ、山人出現の事例がたくさんに報ぜられている。尾州名古屋というような繁昌の土地にも、なおいずこからか異人が遣ってきて捕えられたといっている。太い綱で縛っておいたにもかかわらず、夜の間に逃げてしまい、しかもなんらの報復をもしては行かなかった。仙人などと違って存外に智慮もなく、里近くをうろうろしていたのをみると、やはり食物か配偶者か、何か切に求むるものがあったためで、半ばはその無意識の衝動から、浮世の風に当ることにはなったのである。ことにその或る者が日向や越後の例のごとく、白髪であったと聴くに至っては、悠々たるかも人生の苦、彼らはたこれを免れえなかったのである。
名古屋で異人を捕えたという話は、『視聴実記』巻六に出ている。年代は知れぬが江戸の初期であろう。本文のままを次に抄録する。
「飯沼林右衛門は広井に住す。夜話の帰りに僕の云ふには、南の路より御帰りなさるべし。それは道遠し。何故にさは云ふかと叱すれば、御迎に来るとき、東光寺の壁の下に、小坊主の一人立ちて在るを見しが、一目見て甚だ戦慄せし故に、かく申す也と答ふ。林右衛門笑ひながら、さあらばいよ/\行きて見るべしとて行くに、果して十二三ばかりの小僧あり。物を尋ぬれども答へず。之を捉へ引立てんとするに、甚だ力強し。されど林右衛門も強力なれば、漸くに之を引立て、程近ければ我家に連れ帰り、打擲をすれども曾て物を言はず、且つ杖の下痛める体も無く、何とも仕方無ければ、夜明けて再び糾明すべしとて、厩に強く縛り附け置きしに、朝になりて見れば、何処へ行きけん其影も見えざりき。或は云ふ打擲の間に只一声、あいつと云ひし故、其頃世間にては之を『あいつ小僧』と謂ひたりとなん。」
山男が市に通うということは、前の五葉山の猟人の話にもあったが、これまた諸処に風説するところである。津村正恭の『譚海』巻十一に、
「相州箱根に山男と云ふものあり。裸体にて木葉樹皮を衣とし、深山の中に住みて魚を捕ることを業とす。市の立つ日を知りて、之を里に持来りて米に換ふる也。人馴れて怪しむこと無し。交易の外多言せず。用事終れば去る。其跡を追ひて行く方を知らんとせし人ありけれども、絶壁の路も無き処を、鳥の飛ぶ如くに去る故、終に住所を知ること能はずと謂へり。小田原の城主よりも、人に害を作す者に非ざれば、必ず鉄砲などにて打つことなかれと制せらるゝ故に、敢て驚かさずと云ふ。」
こうあるけれどももちろん噂話で、必ずしも小田原の御城下まで、この連中がうろうろしていたことを意味するのではあるまい。第一に川魚はこの海辺では交易にもならず、木の葉を着ていたら、なんぼでも人馴れて怪まずとは行くまい。ただこの人中にも一人や二人はいるかも知れぬという程度に、輿論が彼らを尋常視していたことは窺われる。岩手県海岸の大槌の町などでも、市の日に言葉の訛りの近在の者でない男が、毎度出てきて米を買って行った。背は高く眼は円くして黒く光っていた。町の人が山男だろうといったそうである。しかしこれから奥地の山々には、今でもずいぶんと遠国から、炭竈に入って永く稼いでいる者が多い。言語風采の普通でないばかりに、一括してこれを山人に算入するのは人類学でない。ただ市という者の本来の成立ちが、名を知らぬ人々と物を言う点において、農民に取っては珍しい刺戟であった故に、例えばエビスというがごとき神をさえ祭り、ここに信仰の新しい様式を成長せしめたのである。信州南安曇では新田の市、北安曇では千国の市などに、暮の市日に限って山姥が買物に出るという話があった。山姥が出ると人が散り市が終りになるともいったが、一方には山姥が支払に用いた銭には、特別の福分があるようにも信じられた。ようやく利欲というものを実習した市人が、いかに注意深くただの在所の婆様たちを物色していたかは、想像してみても面白い。その為でもあろうか今も昔話の一つに、山姥が三合ほどの徳利を携えて、五升の酒を買いにきたというのがある。笑った物は罰せられ、素直にいう通りに量って遣ると、果して際限もなく入ったといい、またはこれにあやかって金持になったともいう。つまりは俵藤太の取れども尽きぬ宝などと、系統を同じくした歴史的空想である。
筑前甘木の町の乙子市、すなわち十二月最終の市日にも、山姥が出るという話が古くからあった。正徳四年に成る『山姥帷子記』という文に、天正のころ下見村の富人大納言なる者の下僕木棉綿を袋に入れてこの日の市に売りに出で、途中に仮睡して市の間に合わなかった。眼が覚めてみると袋の綿はすでになく、そのかわりに一枚の帷子が入っていた。地麁くして青黄黒白の段染であった。これも山姥の物と認められて、宝物として二百年を伝えたという話を書留めている。
それからこのついででないともう他にいう折はないが、絵かきたちだけの今でも遊んでいる空想境に、天狗の酒買い狸の酒買いなどという出来事がある。白鳥の徳利や樽に通い帳を添えて、下げて飛んでいる場面は後世風だが、由ってくるところは甚だ久しいようである。自分は別に今日の酒樽の原型として、瓢の盛んに用いられた時代を推測し、許由以来の支那の隠君子等が駒を出したり自分を吸込ませたり終始この単純なる器具を伴侶としているには、何か民俗上の理由があるらしいことを、考えて見ようとしているのであるが、それは広大なる未解の課題だとしても、少なくとも山の人の生活に、この類の僅かな用具が非常なる便益であり、従って身を離さずに大切にしているのをみて、我々の祖先までがこれを重んじ、何か神怪の力でも具うるかのごとく、惚れこみ欲しがり、貰えば宝物にしようとしたことだけは、説かずにはおられぬような感じがする。『落穂余談』という書の巻二に、「駿河の山に大なる男あり。折々は見る者もあり。鹿猿などを食する由なり。久世太郎右衛門殿物語りに、前方此男出でけるに、腰に何やらん附けて居る故、或者近く寄りてそれを取り、還りて見れば高麗の茶碗なり。今に其子の方に持伝へて居ける由。丙寅八月、宇右衛門殿物語り。甚兵衛殿も聞及ぶの由、同坐にて語る」とある。これなどは山姥から、褒美にもらったというのと反して、手もなく山男から掠奪したのであるが、最初どうしてこのような品を、彼らが拾い取りまたこれを大事にしていたかを考えると、小説家でない我々にも、いろいろな珍しい光景が空想せられる。例えば盗賊が始末に困って、山中に隠して置いたとか、大百姓の家が退転して、荒屋敷になっているところへ、のそのそと来かかった山男が、光るから手に取上げて嗅いだり嘗めたりしていたとしたら、彼らの排外的なる社会にまでも、浸み入らずにはおかなかった異種文明の勢力の大きさの、想像に絶したものがあることが考えられる。
かつて旧知の鈴木鼓村君から、またこんな話を聴いたこともある。鈴木君は磐城亘理郡小鼓村の旧家の出で、それで号を鼓村といっているが、今から百二十年ほど前の鈴木君の家へ、おりおりもらいにくる老人があった。人と物をいわず、物を遣ると口の中で唱え言をするが、何をいうのか少しも聴取れない。飯は両手に受けて副え物もなしに、髯だらけの顔をよごして食う。酒は大好きで、常に一斗二三升も入るかと思う大瓢箪を携え来り、それに入れて遣るとすぐに持って帰る。衣類は着けているが、地合も縞目も見えぬほど汚れていた。生の貝をもらって、石の上で砕いて食ったといって、人は戯れにこれをアサリ仙人と呼んでいた。何処に住む者とも知れず、七日も十日も連日くるかと思えば、二月も三月も絶えてこぬこともあった。帰る際にその跡をつけた者があったが、山に入ると急に足早になり、たちまちにその影を見失った。小鼓は阿武隈の川口であって、山は低いけれども峯は遠く連っている。このアサリ仙人は或る日の朝、鈴木氏の玄関の柱にその大瓢箪をくくりつけて置いて、それっきり永久に遣ってこなくなった。この話には誤伝がないともいえぬが、瓢箪だけは最近に至るまで、この家の宝物の一つであった。口は黄金ですこぶる名瓢であったという。
仙人を見縊びるのは本意でないが、これくらいの仙人ならば、まだ山男にも勤まると思う。ただ鈴木氏の永年の恩誼は厚かったにしても、最後に人知れずその瓢をくくりつけて去ったという一点だけが、彼らのとうてい企てえまいと思うロマンチックであった。この地方の山人が里に親しみ、山で木小屋の労働者を驚かすに止らず、往々村人の家を訪ねて酒食を求め、村人もまたこれを尊敬していたことは、次のオオヒトの条下に確からしい一例を掲げる。そうするとこれもまた同化帰順の一段階であって、瓢箪のごときもじつはあまりに大きいので、何か手ごろの容器とただそっと取り替えて往ったのかとも考えられる。