また山男の草履を見たという話がある。夏冬を打通して碌な衣裳も引掛けていなかった者に、履物の沙汰もちとおかしいとは思うが、妙にその噂が東部日本の方には拡がっている。信州木曾辺はことにこれを説く者が多い。出羽の荘内の山中でも杣人がこれを拾ってきて、小屋の入口の柱に吊して置くと、夜のうちに持って還ったか、見えなくなったなどといっている。上州の妙義・榛名でも猟師・木樵の徒、山中でこの物を見るときは畏れてこれを避けたと、『越人関弓録』という書には説いてある。
その草履の大きさは三四尺、これを山丈の鞋と称すとある。『四隣譚叢』などによれば、信州は千隈川の水源川上村附近の山地においても、山姥の沓の話を信じている。藤蔓を曲げ樹の皮をもって織ってあるなどと、なかなか手のこんだもののように言い伝えているのである。大きいと言えばすぐに長さ三尺の四尺のと書かなければ承知せぬが、かりにこれに相応するような大足の持主があるにしても、そんな物を履いて山の中があるけたものでない。我々風情の草履ですらも、野山を盛んに飛廻っていた時代には、アシナカ(足半)と称するものを用い、または単に繩で足の一部分を縛って、たいていは足一杯の草履は履かなかった。すなわち足趾のつけ根の一番力の入る部分を、保護するだけをもって満足したのであった。
ただしこの類の話などは、誇張妄誕といわんよりも、むしろ幻覚であったかと思う。見たかと思ったらすぐになくなっていたというようなもので、確かな出来事ではなかったかと思う。いろいろ製法や材料配合の話はあっても、なおどこかで採集してきて博物館にでも陳列せられぬ限り、自分たちはこれをもって一種の昔話としておきたいのである。もちろん話にしたところで根原がなければならぬ。作って偽を説く者はあっても、そうみなが信ずるはずはないからである。ただ話ならば少しずつ成長して行くことはあるかも知れぬ。陸中二戸郡の浄法寺村などで、深山に木を伐る者の発見したというのは、例のマダの樹の皮で作った大草履で、その原料のマダの皮が、およそ馬七頭につけて戻るくらいの分量であったと話している。面白いといって聴くのはよいが、全体に今ではもう話になりすぎている。それというのが風説のみ次第に高く、実際に見た出逢ったという人の例が、だんだん少なくなって行く結果である。
山丈・山姥の鞋という話は、我々の持っていた沓掛の習俗、すなわち浅草仁王門の格子の木にむやみな大わらんじの片足をぶらさげた行為などと比較して考えて見るべきものかと思う。現在各地の街道筋に、沓掛という地名のあるところには、通例は道の神の森または老樹があって、通行の人馬の古沓などが引掛けてある。或いは下から高く投げ上げて占いをしたという地方もあり、または支那でいう鮑魚神同然にその草鞋の喬木の梢にあるを異として、神に祀った話もある。霊山の麓などでは山の土を遠く持ちだすことを山神悪みたもうという信仰もあって、必ず登山の鞋を脱いで行く場処もあるのだが、別に神々に新たなるものを製して献上する例も弘く行われていた。山の神は一本足だと称して、大きな片足だけを供える。竈の神は馬でありもしくは馬に乗ってくるというので、新しい馬の沓を上げていた根原は、おそらく絵馬なども同様に、これを召しておわしませ、これを召して立たせたまえと、神昇降の時刻を暗示する趣旨かと思うが、もちろん信仰はだんだんに変化している。ことに路の傍や辻境などに偉大な履物を作って置いた動機には、明白に魔よけの意味が籠っていた。いつの世から始まったことか知らぬが、こんな大きな草履を用いる者が、この村にはいるから馬鹿にしてはいけないということを、勝手を知らぬ外来者、すなわち鬼や疫病神に知らしめるために、一種の示威運動としてこうするように、解釈している者も少なくはないのである。敵に対しては詐術も正道と、つい近ごろまで我々も信じていた。そうかと思うと海南の小島においては、潮に漂うて海の外から、そんな大草履が流れてきたといって、畏れ慎んでいた話もあった。この方が多分一つ前の俗信で、つまりは己の心に欲せざるところを、人に向かって逆用しようとしたものであるらしいのだ。
だから第二の仮定説としては、山人の大草履も自分のためには必要でないが、世人を畏嚇する目的でわざわざこれを作り、なるべく見られやすいところにおいたものとも考えられぬことはない。しかしそのような気の利いた才覚は、ついぞ彼らの挙動から見出したことがないから、今ではまだそれまで買いかぶることができないのである。もっとも深山の奥に僅少の平和を楽む者が、いや猟人だの岩魚釣りだの、材木屋だの鉱山師だの、また用もない山登りだのと、毎々きて邪魔をすることは鬱陶しいには相違ない。やめて欲しいと思っていることは、此方からでも想像することができた。そこに単独の約束が起こり法則が生じて、のちようやく宗教の形になって行くことは、いずれの民族でも変りはなかった。しかも冷淡なる第三者の目をもって判ずればそは単に一方だけの自問自答であって、果して此方の譲歩が先方の満足と相当ったか否かは、確かめたわけではないのである。深山の中でも特に不思議の多い部分を我々は魔所または霊地と名づけてあえて侵さなかった。それが自然に原住土人にとっての一種のレザーヴとなったことは、原因ともどちらとでも解せられる。いわゆる入らず山に強いて入った者の、主観的なる制裁は多様であった。最も惨酷なるものは空へ引きあげて、二つに割いて投げおろすといった。或いは何とも知れぬ原因で躓いたり落ちたりして傷きまたは死んだ。永遠に隠されてしまって親兄弟を歎かしめることもある。およそ尋常邑里の生存において予知すべからざる危難は、ことごとく自ら責め深く慎むべき理由としてこれを認めたのが山民の信仰であった。
それ以外にも予告警戒のごときものはいくらもあった。天狗の礫と称して人のおらぬ方面からぱらぱらと大小の石の飛んできて、夜は山小屋の屋根や壁を打つことがあった。こんな場合には山人が我々の来住を好まぬものと解して、早速に引きあげてくるものが多かった。こればかりは猿さえもするから、或いは山人の真の意趣に出たものと考えてもよいが、それがいつでも合図に近くして、かつてこれによって傷いたという者を知らず、石打の奇怪事は都邑の中にも往々にして起こり、別に或る種の隠れた原因があるらしいから、まだなんとも断定はできない。それから足音や笑い声の類は、偶然にこれを聴いた者がおじ恐れたというだけで、もとよりそのような計画のあったことを、立証することは容易でない。ことに最も有名なる天狗倒しの音響に至っては、果して作者が彼らであったかということさえ、なお疑わなければならぬのであった。或いは狸の悪戯などという地方もあるが、本来跡方もない耳の迷いだから、誰の所業と尋ねてみようもない。深夜人定まってから前の山などで、大きな岩を突き落す地響がしたり、またはカキンカキンと斧の音が続いて、やがてワリワリワリワリバサアンと、さも大木を伐り倒すような音がする。夜が明けてからその附近を改めて見ると、一枚の草の葉すら乱れてはいなかった、などというのが最も普通の話で、こういう出来事があまり毎度繰り返されると、山が荒れると称して人が不安を感じ始め、ついにはその谷を「よくないところ」の一つに算えて、避けて入らぬようにもなるのである。しかし多勢が一度に聴いても幻覚はやはり幻覚である。或いは同じ物音をともに聴いたと思っても、甲の暗示が乙を誘い、また丙の感じを確かにしたのかも知れぬ。東京あたりの町中でも深夜の太鼓馬鹿囃子、或いは広島などでいうバタバタの怪、始めて鉄道の通じた土地で、汽笛汽鑵車の響を狐狸が真似するというの類、およそ異常に強烈な印象を与えたものが、時過ぎて再びまぼろしに浮ぶ例は、じつは他にも数限りがないので、たまたま山の生活と交渉のある場合ばかりこれを目に見えぬ山の人の神通に托するがごときは、むしろ我々の想像の力の致すところであったかも知れぬ。
ただしこれをも我々の実験の中に算えて、見た出逢ったというのと同じ程度の、信用を博している物語は多いのである。少なくともその二三の例は、のちの研究者のために残しておく必要があると思う。
『白河風土記』巻四に、「鶴生(福島県西白河郡西郷村大字)の奥なる高助と云ふ所の山にては炭竈に宿する者、時としては鬼魅の怪を聴くことあり。其怪を伐木坊又は小豆磨と謂ふ。伐木坊は夜半に斧伐の声ありて顛木の響を為す。明くる日其処を見るに何の痕も無し。小豆磨は炭小屋に近づきて、中夜に小豆を磨する音を為す。其声サク/\と云ふ。出でて見るに物無し、よりて名づくといへり。」
『笈埃随筆』巻一に、「途中にて石を撃たるゝこと、土民は天狗の道筋に行きかゝりたるなりと謂ふ。何れの山にても山神の森とて、大木二三本四五本も茂り覆ひたる如くなる所は其道なりと知ると言へり。佐伯了仙と言ふ人、豊後杵築の産なり今は京に住めり。此人の云ふ。国に在りし時、雉子を打ちに夜込に出でたり。友二三人と共に鳥銃を携へて山道にかゝりしに、左右より石を投げたり。既に当りぬべく覚えて大に驚きたる中に、よく心得たる者押静め、先づ下に坐せしめて言を交へずしてある程に、大石の頭上に飛びちがふばかりにて其響夥しかりしが、暫くして止みければ、立上りて行きける。其友の謂ふやう、此は天狗礫と云ふものなり。曾て中るものには非ず。若し中れば必ず病むなり。又此事に遭へる時は必ず猟無し。今夜は帰るには道遠ければ是非なく行くなりと曰ふ。果して其朝は一も獲物なくして帰りたりといへり。」
『今斉諧』巻二に、「加賀金沢の士篠原庄兵衛、或時深山に入り、人跡絶えたる谷川の岸を行きしに、水辺には蘆すき間も無く茂りたるが、其あなたに水を隔てゝ、人のあまた対坐して談笑する声聞ゆ。篠原之を怪しみ、自ら行きて見んとすれど水に遮られて渡ることを得ず。連れたる犬にけしかけたれど亦行かず。因つて其犬の四足を捉へ、力を極めて之を蘆原の彼方へ投げたるに、向ふよりも直ちに之を投げ返す。之を見て畏を抱き家に帰る。犬には薬など飲ませたれど、終に死したり。」
『北越奇談』に、「神田村に鬼新左衛門と云ふ者あり。殺生を好む。村の十余町奥なる山神社の下の渓流に水鳥多し。里人は相戒めて之を捕りに行くことなかりしを此男一人雪の中を行き、もち繩を流して鳥を取ること甚だ多し。一夜又行きしも少しも獲物無きことあり。暁に及び、何者とも知れず氷りたる雪の上を歩む音あり。新左衛門小屋の中より之を窺ふに、長一丈余りの男髪は垂れて眼を蔽へり。新左衛門のすくみ居たるを、小屋の外より箕の如き手を出して攫み上げ、遙かに投げ飛ばしたりと思へば気絶す。翌朝女房より村長に訴へて谷々を捜せしに、谷二つ隔てゝ北の方に新左の雪中に倒れたるを見付けたり。其後生き返り殺生は止めたれど、三年ばかりにして死したりと云ふ。深山の奇測り難し。」
次も同じく越後の事であるが、これは会津八一氏の話を聴いたのである。妙高山の谷には硫黄の多く産する処があるが、天狗の所有なりとして近頃までも採りに行く者は無かった。ところが先年中頸城郡板倉村大字横町の何右衛門とかいう者、これに眼を着けて十数名の人夫を引率し、この山に入って谷間に小屋を掛け日中は硫黄を採取し夜はこの小屋に集まって寝た。或る夜深更に容易ならぬ物音がして小屋も倒れんばかりに震動したので、何右衛門を始め人夫一同も眼をさまし先ず寒いから火を焚こうとしていると、戸口の方から顔は赤く白い衣物で背の高い人が入って来た。皆の者は怖しさに片隅に押しかたまり、蒲団を被って様子を伺っていると、かの者はずかずかと板の間に上って来たようであったがその後の事はわからず。夜の明けるのを待って見れば、かの何右衛門だけは首を後向きに捻じ切られてつめたくなっていたと謂う。今でもこの谷に入って若し硫黄の一片でも拾おうとする者があれば、必ず峰の上から大声で、そこ取んなアとどなる者があると謂い、また首を捻じられるからと少しでも侵す者は無いそうだ。またこの辺の村に往って天狗などはこの世に無いものだとでも言おうものなら、必ずこの何右衛門の話を聞かされる。この時の人夫の一人に、近い頃まで生きていたのであって、その老人から直接にこの話を聴いた者は幾人もあったのである。