一昨年の冬、婆ちゃんが死んだ。
あっけない最期だった。震災のあとから目に見えて弱り、そのまま灯が消えるように逝った。仏間は急に広くなり、冷えが畳の奥まで沈んでいた。
葬式の夜、細い雪が降った。積もるほどではない。それでも灰色のちゃんちゃんこが、静かに降り積もる雪と重なって見えた。
爺ちゃんはまだ達者だった。九十を越えても足腰はしっかりし、むしろ周りが支えられているようだった。俺にとっては、特別な人だった。漢字も英語も、最初に教えてくれたのは爺ちゃんだ。相撲の決まり手、戦地での飢え、疎開先の話。どの話も誇張がなく、土の匂いがした。
中学に上がってから、俺は手紙を書くようになった。高校では俳句に凝り、雑誌を買ってはやり取りした。達筆で、紙の上に風が通るような文字だった。
婆ちゃんの葬式のあと、父に言われて文通を再開した。「寂しいだろうから」とだけ言われた。最初は近況を書いた。だが次第に、返事の文字が崩れた。筆跡は滲み、ところどころ墨が溜まっていた。
電話をかけても「ああ、ああ」と繰り返すばかりで、やがて叔母が代わりに話すようになった。
父はある晩、「そろそろだな」と言った。「悔いが残らないようにしておけ」と。
一周忌で帰省したとき、爺ちゃんは車椅子に座っていた。片目が濁り、俺の名を呼ぶまでに数秒かかった。
法事の夜、親戚が座敷で騒いでいる最中、俺は買い出しを頼まれた。玄関で靴を履いたとき、背後から声がした。
「おい、俺も連れてけ」
振り返ると、爺ちゃんが立っていた。杖もなく、まっすぐ立っていた。
疑問は浮かばなかった。二人で車に乗り、スーパーへ行った。店内で爺ちゃんは小さなガラス瓶の酒を手に取った。
「これ、婆さんに飲ませてやりたくてな」
帰り道、雪がちらついていた。俺の息は白く、隣の爺ちゃんの口元は暗いままだった。
「最近……黒い封筒で、手紙を出したか」
唐突な問いだった。首を振る。「出してないよ」
「そうかぁ……」
家の前で、爺ちゃんが言った。
「俺はな……来年の今頃には、逝くからな」
死ぬ、ではなく、逝く。その字が頭に浮かんだ。
「じゃあ、何か欲しいもんある?」
爺ちゃんは酒瓶を差し出した。「これ、渡しといてくれ。婆さんのところにな」
家に戻ると、爺ちゃんは掘り炬燵に座っていた。車椅子のまま、静かに。俺が酒を渡すと、ゆっくり注ぎ、一口だけ飲んで仏壇に供えた。
あの夜の歩みは、どこにも痕跡がなかった。
翌朝、爺ちゃんは一歩も立てないように見えた。叔母に尋ねると、「出かけてないよ」と言われた。「買い出しはあんた一人でしょ」
爺ちゃんは、翌年の一周忌の少し前、本当に逝った。眠るような最期だったという。
葬式のあと、箪笥の奥から一通の手紙が出てきた。黒い封筒に入っていた。差出人は空白。封は閉じられたままだった。
父はそれを仏壇に供えた。
俺は、その封をまだ開けていない。机の引き出しに入れてある。
時々、封の中で紙が擦れるような音がする。
開けるのは、向こうから届いたときだと思っている。
[出典:773: 2013/02/04(月) 07:23:30.15 ID:TSNEfTd/0]