無音の試聴室、志那羽岩子。作品共通タイトル画像。

怪談 n+2026 オリジナル作品

無音の試聴室|第十章 訂正の日 iwa+

投稿日:

Sponsord Link

宮坂さんは、その日のうちに帰宅した。

膝の打撲について治療を受け、ほかに急いで処置する異常は見つからなかったと、本人から連絡があった。なぜ立ちくらみがしたかについては、本人も結論を聞いていない。私へのメッセージには、今夜は音を確かめない、と書いてあった。
 沖野さんからは、翌日の打合せへ来るかどうかを宮坂さん本人に選んでもらうと連絡が来た。設備のことを知っている人が必要でも、その人しかいない状態に戻してはいけない。田辺さんが別の担当者を手配し、残す設備の確認は会館職員二人と行うことになった。私は打合せに使う、出来事の順番だけをまとめた紙を作った。
 廊下のカメラは、客席の内覧録画とは別の製品だった。三月十八日の音が乏しくなる区間は、二十九秒ほどだった。人の声が全く消えていたわけではなく、遠い擦過音と、末尾に沖野さんの電話の声が小さく残っている。三月四日と同じ四十三秒ではなかった。私は四十三秒の位置につけた印を、別の動画へ移しかけてやめた。今度の声は、その枠へ収まらない。
 映像には、宮坂さんが旧試聴室へ入り、右の床へしゃがみ込む様子が写っていた。開いた扉に隠れて顔は見えないが、彼が外へ出ていないことは分かった。私たちが集まり、背後を振り返り、井草さんが画面を差し出す。宮坂さんが自分の足で出てくるまで、入口に誰かが立ちはだかることもなかった。

 資料六 三月十八日の作業記録から

 十一時三十七分台 宮坂氏、旧第二試聴室へ入る。床と椅子の脚を確認。
 十一時三十八分台 宮坂氏、室内右側へ座り込む。田辺氏が接近。高瀬、沖野氏、井草氏が順に廊下へ入る。
 同分内 井草氏の文字表示を高瀬が宮坂氏へ示す。田辺氏の介助で宮坂氏が退出。
 音声記録 発話の一部が明瞭でなく、その場で各人が聞いたという内容は録音から確認できない。

 この紙に、現場で私が聞いた声の説明は入れなかった。別紙へ、自分の位置、聞こえた方向、聞き取った文を順に書いた。宮坂さんの行には、私の聞いた文を入れなかった。井草さんに借りた文字の画面は、そのまま画像で保存した。
 宮坂さんは翌日の打合せへ来た。膝を曲げると痛むので、通路へ足を出せる椅子を選んだ。彼は私の別紙を読み、自分が聞いたのは「そこで待っていてください」ではなく「まだ動かないで」だったと言った。声が私に似ていたという点は変わらなかったが、同じ言葉ではない。沖野さんは、二人の声を聞き分けるほど余裕がなく、電話がつながったかを気にしていたと答えた。
「高瀬さんに、待てと言われたと思い込んだのかもしれません」
 宮坂さんは私の顔を見た。謝るべきかどうか迷っているようだった。私は、私自身も外から自分の声を聞いたつもりだったと答えた。ただし、あなたがそう聞いたから私も聞いたことにするのはやめたい、と付け足した。
 宮坂さんは紙を返し、前の日、自分が文字を見てようやく出口の方向を決められたことを話した。声では出ろと言われ、待てと言われ、外へ出ているとも言われた。そのうち、自分が部屋のどちら側にいるかまで分からなくなった。文字を持っていた私の顔と、画面の向こうの開いた扉が、一緒に見えたのだという。

 神尾さんが会館へ来たのは、その午後だった。沖野さんが事故の概要を伝えたところ、自分にも確かめさせてほしいと返ってきた。しかし録音の再生や、部屋に入っての試験は受け入れないと、先に条件を伝えてある。神尾さんは杖を持っていたが、自分で歩き、事務室の入口で靴の裏をマットへ二度こすった。
 彼は宮坂さんの膝を見てから、頭を下げた。謝罪の言葉はすぐには出なかった。卓上に置いた三十六年前の試験票を、読まずに裏返した。
「自分が止めれば、済んでいたことです」
 沖野さんは、どの時点の話かと尋ねた。神尾さんは紙を表へ戻し、「再試験 別素材使用」を指した。音声が戻らないので別の録音を使い、操作の順序だけを先へ進めた。そこで人が何を聞いているかを確認する試験は、もう終えていたはずだった。それなのに、返ってくる文句が質問に合っていると、相手がそこにいる気になったという。
「伊原さんが横に立っていたんですよね」
 宮坂さんが言った。神尾さんは、ええ、と答えた。
「その人を待たせてまで、何を聞いていたんですか」
 神尾さんの指は、紙の上から離れなかった。しばらくして、分からなくなっていた、と言った。何かの声を聞きたいという気持ちより、自分が確かめている作業を途中で間違いにしたくなかった。そのまま正しい返事が一つあれば、試験を終えられると思っていた。
 宮坂さんは膝の上で両手を重ねた。神尾さんに何か言いかけ、やめた。神尾さんは返事を待つように彼を見ていたが、やがて紙へ目を戻した。

 神尾さんは、当時の報告へ訂正を加える文章を、その場で書いた。年数が経ち、思い違いが含まれるかもしれないことは冒頭に一度だけ記した。そのあとは、千鶴さんが室外にいるのを自分が見たこと、代用の録音を接続したこと、返答を本人の所在確認として扱ったことを書いた。「伊原氏の聞き違い」という以前の説明は撤回する、と最後にあった。
 書き終えると、神尾さんは千鶴さんへ直接謝りたいと言った。沖野さんは、会うかどうかを本人に尋ねてから連絡すると答えた。すぐに電話をつなぐことはしなかった。神尾さんは紙を封筒へ入れ、宛名を書くためのペンを探した。

 三月二十日の撤去作業は、短い打合せから始まった。関係する機器は使用しない状態にされ、連絡の相手は目で見える距離にいる人に限った。部屋へ入る人と、入口に立つ人を決め、入室と退出を紙の一覧へ記した。大声を出すことも、無言でいなければならないという決まりもなかった。返事だけで人のいる場所を決めない。それだけが、通常の作業に加えられた。
 スピーカーは小さく、外すと壁の色がそこだけ白かった。中に何かが詰められていたわけではない。清水さんが部品番号を記録し、田辺さんが不要な配線を外した。椅子は台車で運び出された。脚の一つが床の継ぎ目へ当たり、乾いた音を立てた。私は千鶴さんに頼まれた写真を撮り、座面の裏に貼られた古い備品番号も写した。
 井草さんは入口で、作業の終わった人の名前を一人ずつ確認した。最後に田辺さんが退出すると、全員が廊下へ出たことを紙で確かめた。その間も、清水さんが廊下へ固定した作業用カメラは回っていた。私は自分の携帯で室内の写真を撮り、そのあと動画に切り替えた。床に光の四角があるだけだった。
 壁の穴には蓋がつき、部屋に残ったのは外へ開かれた扉だけだった。

試聴室から廊下へ搬出された木の椅子と台車。奥の室内にスピーカーはない。
挿絵:AI生成による架空の場面

[志那羽岩子 ◆PL8v3nQx6A]

本作はフィクションです。登場する人物、団体、場所、出来事、取材、録音、映像および資料は、すべて作品内の架空の設定です。挿絵は架空の場面を描いた生成画像で、実際の記録写真ではありません。

← 前章 | 作品案内・全12章 | 次章 →

Sponsored Link

Sponsored Link

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 心霊・怪談へ
にほんブログ村にほんブログ村 哲学・思想ブログ 心霊・怪談へ
にほんブログ村

-怪談, n+2026, オリジナル作品
-

Copyright© 怖いお話.net【厳選まとめ】 , 2026 All Rights Reserved.